Arvo Part / オープン・ウォーター

BGM : ARVO PART「ALINA」

Alina - Arvo Part

Alina - Arvo Part

ボリュームを最大限にしました。午前とはいえ昼も間近で、今日も暑い日になるはずです。私は、私の部屋という隙間に落ちていくためにこの音楽を聴くわけです。いや、隙間に落ちていたい。しかし今から50分後には所用で出掛けなければならないのです。銀色の扇風機が回っています(その音が良く合います)。けだるい感じです。氷もすっかりなくなって、お茶もすっかりぬるくなってしまった。いま、T3の「Spiegel Im Spiegel」です。

サンダンスで話題になり、全米でもヒットした「オープン・ウォーター」を見てきました。若くて教養もあり、そこそこ裕福な共働きの白人カップル(夫婦かもしれない)が、やっと休みをあわせて、カリブにバカンスに出掛ける。ボートでダイビングに出掛け南洋の海を楽しむ二人。しかしちょっとした手違いから、二人は海の真ん中に置き去りにされ、漂流することになってしまいます…。

以下、ガス・ヴァン・サントの「ジェリー」とあわせて、ネタばれです。

海は刻々と色を変えて、時は昼から夜へと向かっていきます。時折通りかかるボートに手を振れど、海の上の小さい漂流する二人など目に入らない。最初はまだ冗談を言い合う余裕もあるのですが、女性の足が鮫に「味見」され、男性の足が鮫に囓られ…と次第に死が身近に迫っていきます。二人は、激しくののしりあうこともありましたが、こうした状況下で、互いに愛している気持ちを伝えあう。しかし愛があっても寄り添いあっても解決策はなく、朝にはすっかり、男は息絶えてしまい、女はそっと、海に死体を流す、その死体は、鮫によって海の底へ引きずりこまれていきます。そのころ、ようやく二人の捜索がはじまるのですが、女は絶望からか、自ら防具を脱ぎ捨てると、水へ沈んでしまう、という話です。

見ながら、ガス・ヴァン・サントの「ジェリー」を思い出しました。

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砂漠のハイキングコースをちょっと外れただけの(おそらくゲイの)二人、マット・デイモンとキャシー・アフレックが、道に戻れなくなり、広大なアメリカの内部に広がる空白地帯としての砂漠をさまよい、そしてついには、倒れもう歩むことの出来なくなったキャシー・アフレックを、マット・デイモンが、楽にしてあげるために殺害する、という、“愛の映画”でした(その殺害シーンは、もう愛の行為としか思えないものなのです)。

こうしてみてみると、2つの映画はラストを除くとまったく同じ展開を辿るとすら言えそうです。この2つの映画が示しているのは、言うならば「隙間の向こうに広がる異界」だと思います。安定した状況の中で、普通の日々を送っていたはずなのに、ふと思いがけないところで踏み外してしまう、という物語自体は良くあるわけですが、しかし道を踏み外したとして、多くの場合はそこには別種の物語に満ちた世界が広がっているはずで、たとえば表社会をドロップアウトして裏社会に紛れ込む、といっても、裏社会は立派ににぎにぎしい社会に違いないわけです。しかし、「オープン・ウォーター」や「ジェリー」にあらわれるのは、人間的な別社会ではなく、日常に唐突に現れる隙間に広がっていて、一度落ちると、抜け出しようもない、とりとめのなく手応えなく広がる異界なのです。

そういう意味では「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」なども思い出します。これらの作品は、なにか予期もしない隙間に落ちてしまった人々が、もう自分ではどうにも出来ない手応えのなさを浮遊するしかない様子を描き出すわけです。それは、隙間の可能性、という言い方も出来るかもしれません。物語というものが、未知のものに突き進むが故に人の興味を引くのだとして、しかし、今のアメリカに、どれほど未知なものが残されているのか、というとき、隙間が、その可能性と共に現れるのかもしれません。前述の3作とは方向性が異なるかもしれませんが、あるいはダーレン・アロノフスキーの「レクイエム・フォー・ドリーム」やデヴィッド・リンチの諸作なども並べて考えると、アメリカの映画の現在の問題のひとつが見えてくる気もします。

ただ「ジェリー」の圧倒的なすばらしさの前だと、「オープン・ウォーター」はかすんでしまうとも思います。「ジェリー」が描き出す、アメリカの内側に徒歩で入り込めてしまう巨大な隙間の凶暴さ。その恐ろしい広がりを内部にもつアメリカを映画として捉えること。砂漠をひたすら歩く二人の男の、その響き逢う運動、またはどこまでも冗談のように交わされる言葉の連鎖に、互いに必要としあう二人の人間というミニマムの社会が存在することで、広大な砂漠の広がりが、内面の問題に還元されないことも重要です(3人以上になったら、関係性の複合化が進み、砂漠は3人の社会の背景となってしまいかねない。それではこのぎりぎり感は出せなかったかもしれないわけです)。「ジェリー」の砂漠が見るものを動揺させるのは、砂漠がただ砂漠としてだけ広がっているからです。それ自体が脅威なのではなく、ただそこに人が適していない、茫洋たる広がりが、物語の外側にある(しかしアメリカの内側に確かに広がっている)、と言うことなのです。

逆を言えば、「オープン・ウォーター」には「ジェリー」ほどの凶暴性がないので、ポピュラリティを獲得し得たと言えるのかもしれません。「オープン・ウォーター」がカップルでの漂流であったのも、「ジェリー」同様に、海の広がりを不気味な現実として示すためだったと思います。鮫の姿をはっきりとは映し出さない、画面を一瞬横切らせるだけといった抑制された演出もそうでしょう。しかし、海は水面下の様々な脅威の存在によって、砂漠よりも多くのイベントを用意できる分、物語化しやすかった、と言えます。また二人のカップルの会話も、ののしりあうのであれ、愛の会話であれ、ある種の典型の中にある、それが一種の安全弁として機能している感じがあります。時代的な感覚の鋭敏さと、受け入れやすい物語性を上手に兼ね備えている、という意味で、「オープン・ウォーター」のアメリカにおけるヒットは、なるほどと思うわけでした。

なお、ARVO PART「ALINA」は、「ジェリー」でサントラとして使われているアルバムです。