生血を吸う女 / Pierre Boulez : Anton Webern

BGM : Boulez Conducts Webern

Webern: Songs & Choruses

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クラシックはジャズ以上に明るくなく、手元にもCDがほとんどありません。ですが、このCDは変に気に入っていて、定期的に聴いています。何が気に入っているのか、正直、よくわかっていないのです。ただ、私のCD棚では、クラシックの数少ないCDは音響エレクトロの人たちと一緒に並んでいて、たぶんそういうのと同じ聴き方をしているのだとは思います。

黒沢清監督がセレクトしホラー映画3本をボックスにした「映画はおそろしい ホラー映画ベスト・オブ・ベスト DVD-BOX」発売を記念して、24日、「生血を吸う女」(“なまちをすうおんな”と読むのだそうです)の上映会が開催されました。珍しい映画の上映と言うだけではなく、黒沢清監督と、中原昌也さんのトークショーつきという、大変な豪華さで、いそいそと出掛けた次第です(DVD上映、というのだけが残念でしたが)。

しかし、中原さんと黒沢監督だと、黒沢監督がホストというか、進行というか、ともかく話の聞き手に回る、というのが面白かったですね。司会がいなかったので、どちらかが役割分担としてトークショーを進行しなければならなかった、そして黒澤監督のほうが向いていたということもあると思います。また、そこには、黒沢監督独特の、出来れば聞かれたくない、聞かれる前に聞いてしまえ的な防衛ラインがあるのかもしれません。他方、中原さんはとても自然体で(黒沢監督が自然体というわけではないのですが…防衛のように見えることも含めて、黒沢監督の自然なのですが、中原さんの場合は防衛も何もない自然さだったのです)、ホラー映画を見て怖いと思ったことはない、という爆弾発言に、監督が微妙な反応を示すのとかも、大変面白かったのでした。ともに映画に対してとても鋭敏な二人でありながら、他方でホラー映画は怖い、という基本的な認識すら共有できないその会話は、予定調和にならず変にすれ違うのですけれど、黒沢監督の時折ホストとして示す動揺(というほど大げさではなく、うまく行かない感じ、という程度。半ばわざとかもしれない)に、映画の話をする危うさのようなものが立ち上がってきて、たとえば、ロメロの新作ゾンビ映画の話で、ゾンビがショットガンを撃つシーンの話でようやく二人の興味がかみ合う瞬間などは、奇妙な感動があるのでした(なんて、書いてみましたが、これは、聞いていた私が話を面白くするためにした、でっち上げの整理かもしれません。というか、きっとでっち上げです・笑)。

「生血を吸う女」は、とても不思議な映画でした。まず映画を見て感じたのは、楳図かずおのホラー漫画(たとえば「洗礼」とか)を読んでいるような、強く奇妙でどこか唐突な欲望です。ただ強く唐突なだけではなくて、とても鮮やかでもあります。監督はジョルジョ・フェローニ。1960年の作品です。フェローニ監督は変名で、ジュリアーノ・ジェンマの「荒野の1ドル銀貨」などを撮っているとのことなのですが、マカロニ・ウエスタンの諸作含めて、私はこの作品が初見でした。1950年代はドキュメンタリー映画を撮っていたようで、長編劇映画はおそらくこれが1作目だと思われます。

物語は、ハンスが出版社の依頼を受け、自分の故郷の近く、オランダの運河沿いの風車小屋に住むバール教授の研究をまとめにやってくるところから始まります。風車小屋は、蝋人形館にもなっていて、実在の殺人鬼や死刑囚のおぞましい人形が、風車の力で動く仕掛けになっています。バール教授は、美術を教えており、その人形の制作者でもあります。

ハンスは、そこで謎の美女エルフィと出会います。それも、水車小屋に入ったとたんに。そのシーンの鮮やかさこそ、この映画全体を凝縮しているかのようです。まさしく、強く、唐突で、鮮やかなのです。

洗礼 (1) (小学館文庫)

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以下、ネタばれです。

風車小屋といっても、みすぼらしいものではなく、外見からは想像も出来ない、内部は豪奢なお屋敷になってます。無効が部屋か壁かもわからない深紅のカーテンが突然真ん中から割れ、白い手がカーテンの隙間からのぞく。そして端正な美女が顔だけをその割れ目から、優雅に現れ、それでいてエキセントリックな強い瞳を投げる。彼女−エルフィの開いたカーテンの割れ目からは、犬が顔を出し、手前へとやってくる。その動きをカメラ(主人公の視線)が追うあいだに、彼女はカーテンの向こうに消えていきます。この、美しい女性の備えた、エロティシズムも含めた強烈な引力、けれど同時に幻のように姿を現し消える、その唐突さ故の、一種の不吉さ、それだけでも圧倒的なのです。そしてやっかいなこと(?)に、実際にエルフィはそのすべて(美とエロスと不吉さ)を強く強く備えていて、男性に迫ってくるのです。恐ろしい鮮やかさで。

エルフィは、ハンスに一目惚れしてしまうのです。そしてハンスに迫り、自ら望み強引に抱かれます(そうなるまでに2晩とかからず、交わした言葉もわずかです)。しかし、もっとも唐突なのは、その恋情以上に、エルフィの唐突にして異常な病、極度の興奮に陥ると、それだけですぐに死んでしまう、生き返らせるには他人の血と入れ替えるしかない、という恐ろしい病にあります。彼女の暗く激しい情熱からすると、それはあまりに相応しくないものです。エルフィは、ハンスが幼馴染のリゼロッテを本当は愛していると知ると、ハンスに向かって刃物を持って逆上し、あっけなく一人だけ死んでしまうのです。そして、バール教授と主治医のドクター・ボーエムは、誘拐してきた女性の生血を移植することでエルフィを甦らせます(エルフィ自身もそれを知っていて、当然だと思っている…その意味では、ジョルジュ・フランジュの「顔のない眼」も思い出させます。犠牲になる女子を、隣のベッドで無表情に見詰めるシーンは、両方の映画に共通しています)。

顔のない眼 [DVD]

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これほど、生と死の間を、やすやすと往復する(それも、肉体的に往復する)ヒロインは、そうはいないと感じます。異常な情熱・生と、死との往復。エルフィの体現する欲望は、強く能動的で、しかも死と生の唐突な往復運動の中に置かれています。ですから、そこに生じる鮮やかさとは、単に視覚ではない、存在としての鮮やかさなのです(主人公が麻薬を飲まされ、死んだエルフィが、生きて階段を下りて来る姿を見るまでの一連の幻想的なシーンがとてもすばらしいのですが、それはその異常な往復、エルフィの生きているのか死んでいるのかわからない混乱を、ハンスが直接的に体験するからです)。

唐突さは、この映画の他の部分にも、無数に埋め込まれています。一歩間違えたら、映画全体を粉砕し、ただ奇妙なだけの話になりかねない危うさで。そもそも舞台となる風車小屋が、よくわからない広がりを持ったお屋敷になっていて、しかもその一部が開放された人形博物館になっていること自体、かなり奇妙で唐突な印象を与えます。しかし、その違和感をものともしない、いかにも「教授」な俳優の端正な身振りがあります。屋敷の主人バールの、圧倒的な端正さが、唐突さと違和感を押さえ込みます。そこには、ハンスの端正な風貌、書生的な美しい身のこなし、そしてエルフィの令嬢的な端正さ(内面はともかく)も大きく作用しています。フォーマルであることで、唐突さがコントロールされ、過剰さで映画がバラバラになるのをとどめ、鮮やかさに変えていくのです。しかし、その端正さの皮の下では、ぐつぐつと異常なものが煮えたぎっているからこその、鮮やかさです。

たとえば風車小屋が強い風に吹かれただけで、(物語的にもタイミングよく風は吹くのですが)唐突にはじまってしまう自動人形の残酷な展覧会(様々な殺人鬼や、死刑になった人間たちなどの人形が、次から次と現れる)。この人形たちの皮の下では、生血を吸う女、というモチーフとは離反した欲望、死体に愛着する教授が娘のために殺した女性たちを人形にして飾っていた、という(一粒で二度美味しい・笑)強い欲望が、煮えたぎっているのです。このほかにも、人殺しに喜んで協力してまで、娘を愛する主治医、というのも異常な存在なのですが、濃すぎる父娘の前に霞んで、今ひとつ見せ場がありません。

そして、煮えたぎった熱が炎となって燃え広がり、端正な表面がいっきょに崩れ落ちるクライマックスは、やはり見事です。そりゃ、確かに風車は作り物で、ちゃっちいのは認めます。しかし、やはりすべて燃えて崩れて落ちなければ、欲望の強さを美しさには転換できないのかもしれません(「燃え落ちなければならない」とトークショーでも黒沢監督か中原さんが言っていた気がしますが、記憶は定かではありません)。あと、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの映画なども、思い出すのですけれど。塔が燃え上がるのは…「愚なる妻」でしたでしょうか。いや、そうした方向ではなく、この映画のことを熱く語る上では、何が燃えているか、が大事なのです。燃えるのは、肉の人形にされた死体たちと、エルフィとの結婚を望んだことに怒りバール教授が殺害したドクター・ボーエム、ボーエムを殺したために生き返らなくなってしまったエルフィ、そしてその娘を激しく愛していたバール教授自身なのです。強い強い欲望そのものを塗りこめられ、生々しい肉焦げた煙を放ちながら燃え崩れていく死体の蝋人形たち(エルフィもまた、その一体といえるでしょう)が、何よりも不気味で鮮やかなのです。

愚なる妻 [DVD]

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