ブラック・ラグーン / リンダリンダリンダ / Astrud Gilberto

BGM : Astrud Gilberto「Look To The Rainbow」

Look to the Rainbow

Look to the Rainbow

夏の朝ですから。台風も行きましたしね。編曲がギル・エヴァンス。不思議なゆがみが、透明な歌声と美しいメロディのはしはしに入り交じりながら、といって、決して全体を停滞させるようなことはなく、料理で言えば、苦みが美味と感じるようなもので…とか訳のわからないことをまた言い始めてしまうのでした。苦みって、味覚における一種のノイズのようなものだと思うのですね。しかし、そのノイズは、味覚の調和を優先したその一部としてあり、かつしっかりと舌に残る。そんな感じなのです。歌う、という行為自体が、一種ノイズを孕むともいえます。歌だけではなくて、多くの楽器の演奏にノイズが孕まれるでしょう。ですから透明な歌声、と書きましたが、それはそれで事実として、しかし歌うこと、この場合アストラッド・ジルベルトの声のなかに、自然と孕むノイズ的な要素があり、それがある、というだけではなく、このアルバムでは、そのノイズをとても大事にしていて、そのほかの楽器の、響きの中のノイズと呼応関係を結んでいるのかもしれません。しかも、調和へと向かって。

それにしても名曲揃いです。いまはT4の「シェルブールの雨傘」が流れています(ボサノヴァのCDがたくさん欲しい)。

ブラック・ラグーン」の4巻が、ようやく出たので購入。アニメ化が決まったそうです。原作の面白さが生きるようなものになると嬉しいなぁ、と思います。数度読み返すに足りるポテンシャルを持った、非常に面白い作品なのです。相変わらず4巻でも、セーラー服の美少女がやくざの一家の跡取りで、みたいな「絵に描いたような(萌え)設定」を使ったり、海賊家業に突然鞍替えした元日本人商社マンの青年の、あまりにナイーブな倫理観とか、あり得ないようなロマンチシズムも確かにあるのです。しかし他方、そうした設定の上で展開する物語とアクションは、どこまでもハードで、かつどちらかが一方的に正しいと言うことはない、むしろ海賊なんだから、どうであれ犯罪的な殺し合いなのです。そして登場人物たちは、殺し合いの最中で、自分立ち位置をぎりぎりで選びながら生きていく。極端ではあるけれど、しかし、なんとなく与えられたモラルの中で汲々と生きるのではない、自ら選択し行動し、自らの倫理観で、それを続けていくところには、やはり良質な可能性があると思うのです。

ブラック・ラグーン (4) (サンデーGXコミックス)

ブラック・ラグーン (4) (サンデーGXコミックス)

あ、でも勿論、(たとえ充分な悪人を殺すのであれ)人殺しは悪いことですけれどね(断言・笑)。主人公はそこのところどう思っているのだろう?(笑)自分は殺さなくても、周りは殺人者ばかりですから。

リンダリンダリンダ」を見てきました。「くりいむレモン」が良かった山下敦弘監督の最新作で、出演は「子猫をお願い」のぺ・ドゥナと、前田亜季、「ローレライ」ですっかり気に入ってしまった香椎由宇、それと(聴いたことがないので、どんな音楽をやっているかはわからないのですが)Base Ball Bearというバンドでベースをしている関根史織。この4人が、学園祭の前日に即席のバンドを組んで、3日後の学園祭最終日、軽音部のライブでブルーハーツを演奏しようと毎日徹夜の練習をするのだけど…という話です。

山下敦弘リンダリンダリンダhttp://www.linda3.com/

以下、「くりいむレモン」もあわせて、ネタばれです。

山下敦弘監督というと、「ばかの箱舟」「リアリズムの宿*1くりいむレモン」とこれまで3作見てきて、ああ、このひとはジム・ジャームッシュとかアキ・カウリスマキとかが好きなのだろうなぁ、と、思っていました。微妙に行き場のないカップルや友人同士が、身の置き場なくうろうろし、明確な物語を構築し得ないまま、脱線し続けて、何か中途半端な時間だけが流れて行く、そんな感触は、時代のリアリティもあって、すっと腑に落ちる作品なのです。

ただし、とは言っても、ジャームッシュカウリスマキと山下監督が、作家として同じ方向性を持っている、とは思いません。たとえば、ジャームッシュの映画が持っている複雑さや、カウリスマキの映画が持っているハリウッド映画への歴史的な目配せは、彼らをかたる上で避けがたく重要ですが、山下監督の資質とはまったく違うものだと思うのです。ジャームッシュカウリスマキのテイストと通じるものを作っても、映画の示す可能性としては、まったく別の方向に行く、それもまた、自然なことだと思います。

山下監督の作品では、「くりいむレモン」が一番好きなのですが、この映画の村下千春は本当にすばらしいのです。血のつながっていない義理の兄が好きで、水橋研二演じる兄も義妹が好きで、元から危うい緊張感のあったところで、両親の旅行をきっかけに関係が出来てしまう、しかし何か覚悟があるわけではなくて、気持ちも肉体もむさぼるように互いを求めただけなので、母親に見つかるとただ逃げ出すことしか出来なくて、熱海の温泉場に車で逃げて行くのだけど、お金も続かなければ、行く当てもないのです。すると、水橋はおろおろしながら、妹との関係もどうしていいかわからなくて、距離を置いたりする。意味もなく、うろうろしたりする。妹は、突然こみ上げてきた不安に涙を見せることはあっても、しかしどこかで、兄とともにいることを肯定している。兄のいる場所で立っていようとする。ただ兄を待って、無表情で夕日に夏、若さ、無防備さ、肉体感。なにか、結論に満ちた若い肉体なのです。対して、兄の肉体は、見失った妹を探しに全力疾走をするシーンも含めて、どうにも軽いです。薄い。確信などどこにもありません。その二つの肉体が、恋愛という曖昧だけれど説明のつかない強い感情と、性欲というわかりやすく強い欲望で結ばれて、しかし結ばれたがゆえに日常の安定した状況からはみ出してしまう。すると男の浮遊性で行く場なく漂い、女の柔らかさや確信によって薄っぺらで駄目な男性の肉体が、合わさって始めて厚みが与えられる。そこに映画としても面白さを、見出すことが出来るのだと思います。2あるいは複数という単位の面白さです。それは対等な肉体同士の関係ではなくて、交じり合って、別種の存在になったりすることがあるのです。「リアリズムの宿」で、尾野真知子と男性二人の、奇妙な関係性なども思い出します(そういう一団の生成と分離を描く上で、山下監督の好む長まわしは有効だとも思います)。

と、こう書いていくと、「リンダリンダリンダ」で、《女の子4人のバンド》という物語を山下監督が選んだことは、とても腑に落ちることですね。性格も雰囲気も異なる、音楽しか共通項のない(しかも、決してそこに強い趣味規範が働いてもいない…事実、偶然の勢いで韓国からの交換留学生ぺ・ドゥナを仲間に引き込んでしまう)ばらばらな4人が、ひとつの存在として感じられるようになる、そういう時間を目指しているわけです。意味とかは特にないかもしれないけれども、そこにある運動には、確かに「青春」があるのかもしれません*2

そして男性陣(東京に行くために香椎由宇と別れた元彼の青年含め、どこか浮遊した存在ばかりで、明確な意思を感じさせない)を物語の外に配することで(恋愛対象として重視されていても、彼らの意思は重視されないし、尊重もされない)、いっそう、ひと夏の学園祭の、一つのライブに向けて、気持ちを凝縮させて行くようなストレートな青春映画になる、《根拠のない確信》に貫かれた青春映画になるのでした(それが山下監督にとっての「女の子」なのかもしれません)。

山下監督なのか、彼とずっとペアを組んできた向井康介、あるいは新たに加わった宮下和雅子の脚本によるのかはわかりませんが、確信犯的だと思うのは、この映画が、冒頭に本来ならあってもいいエピソードを完全に省略しているところです。前田亜季が、学園祭前日のあわただしい構内を、香椎由宇を探しながら歩き回るシーンでは、もう、すでにひとつのバンドが終わってしまっているわけです。オリジナル曲を軽音のライブで演奏するために励んでいたメンバーの一人が指をけがしてしまい、それが原因でバンドが空中分解、主要メンバーの二人が啀み合うことになってしまう、という話は、事後的に台詞で説明されます。そこには、一定のドラマがあったはずでした。しかしそれがあえて回避されるのは、前のバンドの存在は、後のバンドの存在と組み合わさることで、別種の物語を強く構築してしまうからではないか、と想像するのです。山下監督は、せめぎ会う他者ではなくて、性質が違うもの同士であれ、無意味であれ、とにかくひとつになってしまう、そういう塊に、自分のモチーフを見ているのだと思います。その塊が、前の塊と引き比べられてしまっては、塊に見出している曖昧な強さが、損なわれてしまう、ということではないでしょうか。

とはいえ、ばらばらなものがひとつになれるのは、ごく限られた条件下(学園祭とか、引いた目で見れば、高校生活、とか)でしかなく、少女たちは、みなそれに自覚的です(屋上で、こういうことが、いつか思い出になると泣きじゃくるのが、確か関根史織でした)。いつか必ずばらばらになる、それどころか一過性に過ぎないけれど、今のこの一体感に全力を尽くすのです。ブルーハーツも、共通の趣味でもなんでもないわけです。一過性の一体感、その熱に、ふさわしく、偶然耳に飛び込んできたものに過ぎない(しかもこれなら、学園祭最終日のライブまで必死に練習すれば間に合うだろう、という読みもある)のです。ですから必死の練習、といっても高が知れているといえば知れているのですね。しかし、そこにはやっぱり熱はあった、それがなければ不可能な関係性も確かにあったわけです。それは、確かに貴重なことだと思うのでした。「青春」、なのですね。自覚的な、「青春」。

少女4人が、それぞれ個性的なのが、この映画を気持ちよく思わせるポイントでしょうね。個人的には、関根史織ぶっきらぼうなしゃべり方が、とても好きです。香椎由宇のクールな見た目に対して実はかわいい女(夢の中では弱みだらけの本音がぼろぼろ出てしまう)というのも、キャラクターのすみわけとしてはすごく面白いですし、交換留学生という枠の中を一挙に乗り越えてはじけてしまうぺ・ドゥナの、ブルーハーツを聴いて涙してしまう熱さも面白いです。普通に恋をして、普通に友達思いな前田亜季が際立つのも、回りの女の子たちのキャラクターが立っているからですね。そういう意味ではうまいなーと思います。「ウォーターボーイズ」や「スウィング・ガールズ」の、どこかつかみ所のない子供たちと比べると、ずっと「リンダリンダリンダ」の女の子たちのほうが好みですね。それに、ちゃんと練習を、しかも徹夜でするところが、グッドです(笑)。

*1:エンディングテーマ曲のくるり「家出娘」がすばらしい!あと、尾野真千子さん、すごくかわいいです。彼女にはブレイクしてほしいですね。

*2:しかし、そういう意味での「青春」は、私にはあまりなじみがなくて、むしろ中井英夫の「彼方より」に記されている青年像のほうが、ずっと私のイメージする青春、若さに近いのでした。だから、私はこの映画に対して、微妙な距離感を感じるのでしょう。私にとって青春時代は、だらしなさもモラトリアムも含めひとつの重要な過程だったのですけれど、山下監督の描く「青春」は、一種の帰結、《あとからほのぼの思うもの》としての「青春」なのではないかと思います。あるいは、それにたどり着けない(男たちの)「青春」ですね。どちらのほうがいい、とか、そういう判断は出来ません。結局は、自分の青春を生きた、というだけの話になってしまいそうです。ただ、ではそんな私は青春を謳歌していたのかどうか、というと、語尾を濁すしかないのですけれど(笑)。