コーヒー&シガレッツ / Sonny Rollins「Saxophone Colossus」

BGM : Sonny Rollins「Saxophone Colossus」

Saxophone Colossus

Saxophone Colossus

7/16の日記で、今ひとつよくわからなかった(けれど惹かれた)ソニー・ロリンズの代表作と、いろいろなところに書いてあった「Saxophone Colossus」を聴いています。やはり、何か説明不能な気持ちに陥ります。

適切かどうかわからないけれど…なんとなく聴覚障害者のドキュメンタリー、ニコラ・フィリベールの「音のない世界で」を思い出しました。ロリンズのサキシフォンを聴きながら。普通、歌うにしろ、単に言葉を伝えるにしろ、やはり声と言葉を使うのが一番楽なのだけど、聴覚障害者は、それを手話という方法で伝える。すると、そこには思いもがけない運動の豊かさや、聞こえないはずなのに奇妙にリズミカルなものが、動きの中から響き始めるのですね。それと、ロリンズのサキシフォンが、私の中で、通じ合ったわけです。言葉や声の代わりにサキシフォンがある。けれど、それは同質の代替物ではなくて、当然別種の豊かさを帯びていく。しかし同時に、その音楽を伝える最良の道具としてサキシフォンがあり、しかし、といって優位にあるのではなく、それは言語とはまったく別の豊かさ(言語は言語の豊かさがある。そこから、主にずれのような形で、サクシフォンの豊かさが現れる気がする)を有している、とか、そういう感じで聴いています。

でも、こうして書いてみても、的を射ているのかどうか…ただ、かなりいい感じで、私の中でロリンズは響きはじめています。もっと聴いてみないと、いけないようです。

さて、昨日の日記で、山下監督とジャームッシュは、作家として本質的に違う方向を目指している、という話を少し書きましたけれど、実はそのときに、ほぼ、以下のような文章を書き上げていたのでした。ただ、「リンダリンダリンダ」の記事の中においておくと、どうにも焦点がぼやけるので、翌日にお引越ししたわけです。

ジム・ジャームッシュという作家の可能性の中心が、ロードムービー的な(?)と軽率にくくられがちな、だらだらと流れる時間の継続にあるかというと、実はそうではないと思います。たとえば最新公開作の「コーヒー&シガレッツ」を見ると、18年にわたって撮りためてきたコーヒーとタバコをめぐる短編を1本にまとめた作品なわけですが、その一話一話は、取り留めのない、リラックスした感触の、ちょっと気の利いた短編で、まさしくそこで流れる時間を楽しむためにあるといえます。しかし、それらが11話並んでみると、各話の台詞が、微妙に別の話とかぶっていたり(しかし話者が異なるため、まったく別の響き方をする)、18年という年月がたっているはずなのに、その年月が無効化されるくらい統一されたビジュアルイメージで貫かれていたりします。独立した緩やかな時間の流れとは別の時間の流れが、そこでは浮かび上がります。特に重要なのは最後のエピソードで、老いた二人の掃除夫が、休憩の間コーヒーを飲み交わし、タバコをふかすのですけれど、それまでの10話で出てきた台詞の断片が、まったく意味なく唐突に、会話に織り込まれていたりする、つまり、断片化した記憶の集積のように、最後を飾っているのです。それは、台詞としては意味を成しません。しかし、断片の集積が、断片だらけの全体の部分部分をより強く響かせあい、18年という時間をかけて、まったく別の場所、別のキャストで撮られた短編群を、相互的な関係性の中で構造化していくわけです。そのとき、この映画が内蔵する時間は、とても複雑な複合的な流れ方をし始めるわけですね。

ジャームッシュ、という作家を見て行くうえで大切なのは、連続した時間の流れが断ち切られたあとに、しかしなおジャンプしながら、別の時間へとつながって行くような複雑な響きあいを映画の内外に作り出すところだと思うのです。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(まずベースとなる短編があって、そのあとに残りが撮り足されている)や、オムニバスの2作はもちろん、「デッドマン」や「ゴースト・ドッグ」という作品が、死と言うジャンプを内包しながら、そのあと(映画の内部の問題でもあるし、「デッドマン」で言えばすでに終わってしまった西部劇というジャンル/外部と響きあわせようとしているのだと思います)の時間を問題にしていることを見ても、ジャーッムシュ的なものが一貫して見出せると感じるのでした。

ジム・ジャームッシュ作品集 DVD-BOX 1989-1999

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