アイランド / John Coltrane「Blue Train」

BGM : John Coltrane「Blue Train」

Blue Train (Hybr)

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7/20の日記でも書いた、気になっていたコルトレーンのシーツ・オブ・サウンドな代表作を聴こうと買ってきました。「バラード」よりも、こっちの方がずっと感覚に合います。昔の映画を見ているような気持ちになるのです。1950年代の知的でスマートでスピード感のある…。映画の中で、こんなジャズが流れていたというのではなくて、映画そのものを、思い出させるのです。1957年のアルバムですね。ヌーヴェル・ヴァーグのはじまるころです。

マイケル・ベイ監督、ユアン・マクレガースカーレット・ヨハンソン主演の「アイランド」を見てきました。

閉ざされた空間があり、その中で管理されて生きる人々がいる、という管理社会のモチーフは、よくあるものではあって、近年だと「ガタカ」「マイノリティ・レポート」などがぱっと思い浮かびます。また「マトリックス」などもそうした文脈で考えられますし、「トゥルーマン・ショー」も変奏の一種といえるのではないでしょうか。

更に時代をさかのぼっても、「未来世紀ブラジル」とか「アルファヴィル」とか、いろいろな時代にいろいろな形でこのモチーフは確認できそうです(ともに見ていないのですが「赤ちゃんよ、永遠に」とか「華氏451」とか、タイトルだけ知っている管理社会ものの映画もあります)。古典的とすら言えるモチーフなのかもしれません。

私の知る範囲で一番古いものは、フリッツ・ラングの「メトロポリス」(1926)ですね。高度に進んだ未来の世界を舞台に、地上では豪奢な生活を送る人々がいる一方で、地下では労働者たちが閉じ込められ、支配・管理された生活を余儀なくされている、という話でした。そのように、見えない形で搾取される地下と地上との対比は、階級社会とか、資本主義の搾取を、SFという形をとることでわかりやすく図式化しているといえそうです。管理社会もののルーツにあたるかもしれませんね。とはいえ「メトロポリス」の魅力は、そうした管理社会のモチーフよりも、狂ったロボットの過剰な存在感や、未来をイメージした都市造形の見事さ(「メトロポリス」で提示された、ビル群の間を空飛ぶ列車が縦横無尽に走る、といったイメージは、「アイランド」にまで見られる、ずっと受け継がれてきたものです)にあると思いますし、社会的な問題意識よりも、上と下の世界を巡るダイナミックな往復(それは見た目から何からまったく違う二つの世界)に、ラングは映画を見出していたとは思うのですけれど。

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ところで、「メトロポリス」の二つの階級に分かれた未来社会の図式化は、H・G・ウェルズの「タイムマシン」あたりからインスパイアされているのかもしれません。「タイムマシン」が書かれたのが1895年。リュミエール兄弟が映画を発明した年なのでした。それともうひとつ、1949年に書かれた「1984」というジョージ・オーウェルの小説もありました。これはソビエト批判の文脈で当時読まれていた、という記載をネットサーフしていて見かけました。私は、必ずしもそうは言えないのではないか、と思うのですが、ソビエトのイメージが、オーウェル自身以上に読み手の問題として、「1984」に通じていたのかもしれない、とは思います。逆に1940〜50年代に、管理社会を描いたSF映画があまり見受けられないのは、≪戦中=管理社会という達成の手前の段階≫、≪戦後(冷戦)=上下の階層ではなく東西の対立がクローズアップされた時代≫の文脈の中では、安定した搾取構造や思想統制を行う管理社会を物語化することがあまり有効ではなかったからかもしれません。管理社会は対岸の問題=ソビエトであり、資本主義社会の問題ではない、と。しかし、実はマッカーシズムのような強烈な思想統制はあったわけです。ただ反共というイメージは、やはり来るべき戦争のイメージと結びついて、管理社会として描かれることとは遠かったのかもしれません。

1932年には(読んでいませんが)「すばらしき新世界」という管理社会を描いた有名なSFもあるようですね。あらすじを読むと、この小説で描かれる管理社会のイメージは、ウェルズ(不活性な、思想統制された沈うつな世界)や「メトロポリス」(階級問題)とは違い、一切の疑問を剥奪された管理社会、管理されていることを感じさせないことで管理する社会のようです。これは、かなり現在のハリウッド映画で数多く作られている管理社会のイメージと近いのではないでしょうか(とくに「ガタカ」などは、基本設定から似通っています)。もちろん現在のリアルな実感と、こうしたハリウッド映画群はリンクしています。「すばらしき新世界」は、1930年代にすでにそうした未来を予想していた作品として、評価されているようでした。

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以下、ネタばれです。

さて、ようやく「アイランド」の話です。舞台は、地下の軍事基地跡につくられた施設で、そこでは臓器移植用に「飼育」されているクローン人間たちが徹底的に管理されて暮らしています。クローンたちは、自分たちを世界大戦で汚染された世界の生き残りであり、外に出たら汚染されて死んでしまう、唯一の希望は、たった一箇所、汚染されずに残された楽園=アイランドにいくことだ、と洗脳によって刷り込まれています。そして管理者側の会社は、クライアントに臓器移植の必要が生じると、飼育されているクローンが《アイランド》行きのくじを当てたことにして、連れ出すと、臓器を取り出して殺すのです。

ユアン・マクレガーは、自分たちの世界に疑問を持ち、管理されない生き方を望んで、管理側のスタッフであるスティーブ・ブシェーミと秘密で仲良くなったりしながら、次第に外への興味を膨らませて行きます。そんなある日、ついに押さえきれなくなって禁止地区へと侵入したマクレガーは、アイランド行きになるはずの、昔の仲間の女性が、出産直後に殺される(彼女は代理母として飼われていた)のを目撃し、自分たちの運命を悟るのです。そして、アイランド行きが決まったばかりのスカーレット・ヨハンソンを助けようと、二人して施設を抜け出します。スティーブ・ブシェーミを探し出した二人は、そこで始めて、自分たちがクローンであることをしり、生き延びるためには、自分を発注したクライアントに会うしかないと思い定め、ユアン・マクレガーのオリジナルに会いに行こうとするのですが、会社は凄腕の傭兵部隊を雇い二人を追跡、ブシェーミは殺され、必死の逃避行が始まります。

前半の管理社会の描写が、かなり面白かったですね。登場人物の紹介とともにスマートに基本情報を提示しており、マイケル・ベイ監督、うまいなぁと思ってみていました。オーウェル的な監視システムと、さまざまなゲームなどの享楽が共存し、他方、性的なものは意識上から完全に奪われることで問題として浮上するのを回避する。アイランドという楽園への合格者を定期的に出すことで、目標のある人生を与える。そんな風に、楽しく管理された社会を作り上げているわけです。これは、(「性」の部分までゲームとして組み込まれていることを除けば)かなり、私たちの現実と近似値といえるかもしれません。

対して後半は、アクションのオンパレードで、いろんなものが飛んだり落ちたりはねたり爆発したり、派手派手なのですが、派手すぎて巻き込まれているマクレガーとヨハンソンの二人がなんで生き延びられるのか謎です。ビルの70階から、看板ごと地上に落下して、ネットに引っかかったとはいえ、二人ともほぼ無傷、というのはあまりにあまりな気がします。また、追いかけてくる傭兵部隊も、プロであることを強調しているわりには間が抜けている(高速道路でトラックの荷台に乗り込んだユアン・マクレガーが、積んであった電車の車輪を落として攻撃するだけで、ばたばたとやっつけられて行くとか情けなくて。ヘリコプターとかもあるわけですから、別の追跡の仕方がいくらでもあるはずなのに…)のも微妙でした。さらに大きい問題は、クローンにいきなりオリジナルの記憶がよみがえって、運転したことのないバイクの運転が突然出来てしまうようになるあたりです。なぜクローンに、オリジナルの記憶が宿るのか(それも突然よみがえるのか)、まったく説明されないので、「?」マークが頭にいっぱい飛び交います。

そんなわけで、弱点もかなりある映画なのですが、ひとつ、たいへん興味深い弱点があります。それは、この映画における「敵」の、奇妙な矮小さです。この会社は営利企業ではあっても、国防省の支援を受けている、という設定が出てきます。人権のないクローンを大量生産できる。当然、軍に寄与することも出来るでしょう。しかし、他方で、クローンは植物人間の状態で管理すべし、という法律があるという設定もあります。と、普通なら、法を無視して軍部が暴走し、人権のない兵士を作ろうとしていた、みたいな話になりそうなところなのですが、そうした「巨悪」はこの映画に出てきません。大統領のクローンがいるという挿話があっても、そこから話が膨らむことはありません。あくまで、一企業が国防省にも内緒で法を破り、クローンに人格を与えたということになっているのです*1

要はCSRは重要だよね、ということかもしれませんが、とはいえこの映画に出てくる会社は、雪印乳業とか、三菱ふそうと比べても、犯している企業倫理のレベルが違いすぎる、綱渡りが過ぎると思うのですね。営利目的とは言っても、ここまでのリスクを、何の保険もなく(たとえば国や軍部の後ろ盾なく)一企業がするのか。さらに言うと、この映画では、実は企業というよりも一経営者に、敵役としての責任をすべてしょわせてしまうのです。実際にユアン・マクレガースカーレット・ヨハンソンが立ち向かう倒すべき敵は、この企業を経営し、かつ、この組織でセラピスト=監視役もやっているという、かなりふり幅の大きい設定に無理のある人物(ショーン・ビーンが演じています)なのです。ビーンは、仲間を救いにきたマクレガーと自ら1対1で対決までしてしまう。アクションまでこなすのです。ここでポイントは、なぜ、こうした個人に、管理社会のような権力構造の問題を還元・集中しようとするのか、というところなんですね。

すると、たとえば中東問題=テロリスト=アルカイダ=オサマ・ビンラディン(あるいは、テロリスト=テロ国家=イラクフセインも可)といった、恐ろしく安易な図式が、ぱっと頭をよぎるわけです。実際は、テロリストの行動の背景には、もっと大きな問題(大勢の人間の死や混乱、政治的・軍事的・経済的抑圧)があるはずなのですけれど、図式を単純化し、個人に還元することで、そうした問題を見えなくしてしまう部分があります。それもまた、一種の思想統制だと思うのですね。ですから、映画の中で管理社会を描く際に、その背景には、国があったり、軍隊があったり、メディアがあったり、とにかく、強大にして捉えどころない力が働いていてもおかしくないところで、敢えてパラノイアな一個人の妄想に還元・集中して行く、これも一種の思想統制が働いているのではないか、と思うのです。しかし、オサマ・ビンラディンにしたって、彼に武器の供与を行っていたのはアメリカであるというひとことをとっても、単純化の中にどれほどの虚構があるかは明らかだと思うのです。

逆のパターンもあります。大統領で戦闘機に載って、宇宙船を大破させて地球を救ってしまうローランド・エメリッヒの「インディペンデンス・デイ」に代表されるような、国家権力と英雄を結び付けて、個人にすべてを象徴させてしまうことで物語を作って行くパターンです。悪質な冗談のようではありながら、人にまつわる物語を短絡に一つによりまとめてしまうことで、ヒロイズムと権力を一元集中させていくような思考停止を導き出すと思うのです。そうして、世界を個人の物語に安易に置き直しながら、世界を思考する契機を回避させる、そうした力を感じてしまうわけです。別種の管理社会の隠蔽が、そこにはあるのかもしれません。しかし、そうは言いつつも「アイランド」を見ると、どうせ隠すならもっと上手に隠すべきであって、これほど突っ込み待ちの状態で放置されるのは、珍しい気もするのでした。

てんこ盛りの映画ではあるのですよね。土台がかなり怪しくても、問題意識もあり、アクションあり、恋愛あり、ヒロイズムあり、反骨心あり…。ハリウッド映画のニーズを、きちんと満たそうとして作られている、といえそうです。そこで、問題は、たとえばそうした敵の矮小化も、もしかしたら、求められている諸要素のひとつなのかもしれない、という恐怖ですね。そこで見えてくる管理社会は、管理する側だけの問題ではなく、管理される側の受容の問題でもあるわけです*2

*1:しかも、人間生活をおくらせないと臓器がだめになるという理由でです。せめてクローン管理のコストダウンのためには、自立的に生活させたほうがいい、とかのほうが、リアリティがあるのですけれどね

*2:そうそう、先日何の気なしにフジテレビの25時間テレビを見ていたんですね。すると、明石家さんま主演の「THE WAVE」というドラマ(25時間の間に、リアルタイムに進行しているという設定で、何話かに割って不規則に放映する連続ドラマ)の1話を放映していたんです。フジテレビがテロリストに乗っ取られそうになる、それに現場のスタッフたちが抵抗していく、という話なのですけれど、明らかにライブドアによるニッポン放送買収劇をテロに見立てているのですね。で、私の見たのは、明石家さんま演じる編成局長が、実は身代金目当てに過ぎなかったテロリストたちに、お前たちに大義はない、金だけが目当てだろと啖呵を切っている回でした。で、すっかり頭をひねってしまいまして。まず買収劇をテロリストの物語に比喩させること自体に抵抗を感じるのですね。ぎりぎりとはいえ、一定のルールがそこにあったことを故意に見逃し、感情的に被害者で労としているように思えてしまいます。そして、結局金目当てだった、というのも安易です。IT企業が放送業界とのコラボレーションに、新規打開を見出すことは、必ずしも方向性として間違っていないわけで、それを単に金儲けといえないだろうと思います。さらにライブドアのような新興企業が、フジサンケイグループに突撃していく姿は、ある意味ロマンチックなものです(私はまったく共感しませんけれど、そういう物語になりうるものです)。それを、志の部分はすべて無視して、金目当てのテロリストと一括することで、テレビというマスメディアのきめつけで、敵を矮小化しようとしているのだと思います。いや、そもそも金儲け主義だから駄目だとしら言ってはいけないと感じます。メディアの中核で利益と権力を謳歌しているテレビ局が、ライブドアと比べてどれだけ金儲けに走っていない公益性を重視した会社だと言えるのか、私はよくわからないとも思えるのです。