Singer Songer / 鋼の錬金術師

BGM : Singer Songer「ばらいろポップ」

ばらいろポップ

ばらいろポップ

coccoくるり岸田繁佐藤征史、NEIL AND IRAIZAの堀江博久らがコラボレートしたSinger Songer公式HP)の「ばらいろポップ」を購入しました。前情報なくまず聴いてみたのですね。そのときは、cocco、岸田、堀江の曲が入り交じっているのではないか、というのが正直な印象でした。これは、私がこれまでcoccoのアルバムをちゃんと聴いていなかったからだと思います。良くない意味で先入観もあったと。(特にアルバム前半のような)バラエティに富んだポップソングを書くと思ってなかったのでした。歌い手としてもこれほどPOPな感じを出せるとは…。なお、実際はT3「雨のララバイ」のみが岸田繁作詞・作曲で、他は全部、cocco作詞・作曲なのでした。

個人的には、アルバム前半の流れが好きです。アイリッシュなT1「SING A SONG」からガーリーなポップソングのT2「ロマンチックモード」の2曲は、曲だけじゃなくてエッチで言葉遊びな可愛い歌詞が楽しく、続く男が女を愛するときなT3「雨のララバイ」で一度しっとりさせると、カントリーっぽい楽しげなT4「雨降り星」でからっとする、といった感じで、なるほどポップ・アルバムな展開なのです。T5「Home」の、ギターの音が次第に小さくなっていき、ピアノとヴォーカルが全面に(しかしぽつぽつと)奏でられ、歌われる、曲の始まり方も好き。後半は、どんどん歌い上げる感じで盛り上げていき、特にシングルカットされたT10「初花凜々」は、堀江氏自らが書いたライナーノーツでもあるのですが、最初からシングルを意識した押し出しの強いポップチューンで、コーラスワークも気合いが入っています。

劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」を見ました。見るまで、わかっていなかったのですが、これ、テレビシリーズの続きらしいのですね。で、テレビシリーズ、ちゃんと見ていない私には、実はわからない設定がたくさんありまして、「???」だったのでした。正直、話の面白さすべてがわかったとは言いがたいです。けれどそれでも、脚本の會川昇の力量なのでしょうか、とても誠実な青春映画になっているのでした。この世界と向き合ってどう生きるか、小さい力しかなかったとしても、何が出来るのか。誰一人、悪いことをしようとしているわけではなくても、最悪の結果を生み出してしまい(知らず知らずに戦争に協力してしまったり、人を救うためにしたことが、人に害を為したり)かねないこの世界で、どう「責任」を考えるか、そういうことを、少年漫画の物語の枠組みの中で、かなり誠実にやろうとしているのです。クライマックスの敵との対決がいささか拍子抜けな部分も、戦争自体はそれでも終わらない(解決し得ない)現実と裏腹であるわけですね。

で、これは原作もちゃんと読まなければ、ということで、お財布をはたいてコミックスもまとめて買ってきたのでした。10巻が品切れだったので、9巻までしか読んでいないのですが、こちらもとても面白いです。映画版の方にも貫かれる、等価交換の原則はコミックスでも繰り返し語られます。何かを得るためには、等価の何かを差し出さなければならない、それが錬金術の基本で、この基本に叶っている限り、彼らは無敵の力を発揮します。文字通り、石くれから金を作り出すことすら簡単にできるのです(法で禁止されているようですが)。

鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

しかし、では人間を構成する元素を集めて、それから人間を再構成できるかというと、上手くできないのですね。生命の禁忌を破ろうとすると、単に錬成にうまく行かないだけではなく、逆に世の理の象徴とも言うべきモノが現れて、錬金術師から「等価」のものを奪い去ろうとします。そのために、母親を錬成しようとした兄弟は、弟は身体のすべてを、兄は足と手を失うのでした。そして現れた母親は、この世ならぬ姿の肉の塊だったのですが…。その意味では錬金術師は無力でもあるわけです。失われた生命を取り戻すことは出来ない。人間という存在に限らず、生命と等価なものは何か、という問題がそこにはあるのです。そのとき、生きるとは、失ったことをどう受け入れていくか、何かを失わずには何も得られないのだとしたら、何かを投げ出してでも得ようとするか、そうした厳しい問いかけの中にあるわけです。

ところで、この等価交換の考え方、見方を変えるとちょっと面白いと思うのです。資本主義は、商品の流通によって成り立つわけですが、それを支えるシステムは、買ったものをより高く売る(そこに加工などの過程を加えて。物流のような、ただ運ぶだけで付加価値となることも幾らでもある。デザインのような種類の差別化もある)ことなわけです。ところが、錬金術師たちは、AをBに加工する(付加価値をつける)ことを、「等価交換」と呼ぶわけですね(その過程は一瞬で、元になるモノさえあれば、どのようにでも変化させられるわけですから、彼らとしては等価交換なのです)。そして、それを武器にしながら、生命も錬成できなければ、無から有を作れない、その無力に挫けたりもするわけです。これは言い換えると、錬金術師たちは暴力的に資本主義を無効化する一方、その外側で、別種の理、たとえば食物連鎖的なすべてが等価に流れていく世界の理を「真理」として把握し、そこに倫理を求めているということなのです。財産などにはもはや意味はないわけですね。もし、彼らが求めるとしたら、錬金術が無効化する資本主義的な欲望ではなくて、失われたものを取り戻すことだったり、錬金術とは関係なしにあるモノ、人間的な幸福とか、そうしたモノではないかと思うのです。あるいは、過剰な犠牲を払ってでも過剰な対価を受け取ろうとすること、かもしれません。たとえば永遠の命を臨むとして、それと等価交換されるものは何なのか、ということです。

そうしたある意味資本主義の外側にある錬金術の理に対して、しかし作品内でエドワード・エルリック鋼の錬金術師は、軍属として働いているわけです。彼らは、いずれくる戦時において、人間兵器となるために特権的な地位を与えられている。つまり、錬金術の法則は等価交換でありながら、錬金術師自体には「価値」があるのです。それは、彼らを一つの工場や武器と考えれば、当然なのですが。コミックスを読むと、錬金術師自体が、悪意ある錬金術師の支払う、等価交換の犠牲として使われるようとしているようです。過剰な利益を得るために、搾取する装置の一部に、組み込まれているわけですね。人身売買のようなものですから、現代的な資本主義の問題とはずれがありますけれど。

しかし、そうした危険な場所にあえて身を投げ出さなければ、得られないものもある。鋼の錬金術師は、自分を価値に置き換えてしまう危険を承知で、自分を差し出したわけです。これは、勿論綱渡りだと言えましょう。少年の誠実さならばなおのことです。さらに、投げ出して得られるのならば、それは交換だと言えますが、必ずしも得られるとは限らないわけです。無駄死してしまう可能性だって大いにある。悪意のある世界では、等価交換とはいってはいけない、無惨な死があることも忘れてはいけないのですね。コミックスではそのあたりにもかなりきちんと目配せが出来ていて、ちゃんとしているなぁと思うのでした。

ああ、続きが読みたくなってきました。10巻、11巻を買いに行ってきます。