[music] 中井英夫 / Bill Evans & Jim Hall「Undercurrent」

BGM : Bill Evans & Jim Hall「Undercurrent」

1曲目「マイ・ファニー・バレンタイン」から、やられてしまいました。

インタープレイ、という言葉だと、音楽の話だけになってしまうので、対話、とかなり大枠の表現に置き換えて、耳を傾けます。

対話は、言語以外にも様々な方法で可能なのだとおもうのですが、そのときの対話は言語に翻訳不能なものでも勿論良く、というよりも、むしろそちらの方が「面白い」のだと思います。ただ、そこには相当の鍛錬が必要なのだと思うのですね。2つの楽器で対話を繰り広げる。それが相互に刺激的になるには、当然その楽器を、使いこなせなければいけない。相互に高度に使いこなせていれば、対話はより豊かになると思います。しかし逆をいうと、鍛錬が無くとも可能な言葉を使う対話が、やはり幅をきかせるのも当然なわけです。あ、言葉による対話も鍛錬の結果、どこまでも面白くなっていく可能性があると思いますから、別に卑下したいのではありません。単に、複数の方法があり、そしてそれぞれの鍛錬があり、その成果としての達成もある、というだけです。このアルバムは、心地よいだけではなく、知が同時に強く刺激される、言葉以外の方法による対話(ピアノとギター)の、高度な達成としてあると感じます。音楽だけではありません。ウィリアム・フォーサイスのパフォーマンスなどを見ていても、対話ということを強く感じます。また、これは言語ですが ニコラ・フィリベール監督の「音のない世界で」の中で聾唖者が繰り広げる手話の美しさも思い出されます。言語が視覚的運動になることで、別種の豊かさを帯びていると思うのです(8/9の日記にも「対話」をキーワードに少し書きましたので、一応ここにメモしておきます)。

UNDERCURRENT

UNDERCURRENT

「虚無への供物」の中井英夫が戦中に記した日記「中井英夫戦中日記 彼方より 完全版」を読了しました(この本については、7/217/247/29の日記にも記述があります。29日の分は脚注部分のみですけれど)。考えてみると、戦後60周年の終戦記念日も間近です。この日記は昭和20年、1945年の8/11で終わっています。書かれたのは60年以上前、場所は東京。日記も終わりに近づくと周囲は空襲の焼け野原であり、生き残っていることを「奇蹟の一に数へられるだろう」と中井英夫は書いています。すでに彼の生家は焼け落ちていて、敗戦が迫っていることも明らかでした。「今日奇蹟は常在し、今日特殊は一般に変じた」ともあります。世界は死に満ちており、不条理な死が当たり前になっている時代です。

中井英夫戦中日記 彼方より 完全版

中井英夫戦中日記 彼方より 完全版

この書物は暗い時世を記録しているという点で貴重なのでも、面白いのでもありません。まず青春の書物として優れているからです。たとえば戦時下において、兵士でありながら戦争への憎悪と嫌悪感を綴り続けていること、革命への理想主義的な言及、亡くなった母親への激しい思慕の情と、ゲイである彼の性欲の記述、自らの男性に焦がれる気持ちを「少女の心」と呼ぶナイーブさ、それらすべてが彼の若さゆえに記されたものです。そこには抵抗や苛立ちがあり、誠実さと切実さがあり、時代の違いを越えて響くのです。

中井英夫自身のあとがきを読むと、この日記を出版する際に彼が「彼方より」と題をつけたのは、単には戦中と戦後の時代の差だけが理由ではなく、ひとつには中井自身が自分ではない自分、異質な別人のような若さを日記の中に見出したから、そしてもう一つ、中井英夫には、多くの人々が戦中から戦後に変節をしてしまった、ということに対する違和感があったから、と思われます。あとがきでは当時を振り返って、もう敗戦が間違いない緊迫した状況下ですら「若者はおおむね口笛を吹きながら下駄を引きずって歩いていたのが実情」であり、当時の人々の本音は、国のために死のうといった悲壮なものではなく、「もう少しダメでだらしがなくて、あまり時の政府が期待するような人物像ではなかった」と記しています。にもかかわらず、戦後、「多くの戦中派世代がいつの間にか“きけ、わだつみの声”式の痛みで自分の痛みを代用させてしまっている」現状に中井英夫は違和感を隠せないのです。「口笛を吹きながら下駄をひきずってゆく奴が、こんなときにも確かにいた、いてくれたということ。それを戦後の日本人は故意に黙殺しようとしている」*1、それはなぜなのか、ということです。それともあのころ戦争を憎んでいた若者たちは、自分の妄想だったのだろうか、と中井英夫は感じています。

私(たち)はここで暗い気持ちになります。私たちの戦後60年とは、そうしたすりかえの上に築かれているのではないか、と思い当たるからです。GHQに押し付けられた憲法を自主憲法に改定しよう、歴史教科書を見直そう、最近とみににぎやかなそうした話は、額面とは裏腹に、実は戦時中にもちゃんとあったはずの中井英夫やその他多くの日本人の抵抗や青春、実感を、全部「妄想」にしてしまう、そういうすりかえの完成なのかもしれません。ですから私(たち)は、こうした彼方の声にも耳を澄ましながら、もう一度考えていかなければならないと思うのです。

昭和20年8月6日、広島に原爆が落ちた日の日記には、特別原爆の記載はありません。その当日には、まだ原爆の被害も威力も伝わってはいなかったようです。変わりにこのように記載されています。「夜映画。伝染病患者は二階の窓にへばりついてみてゐた」。中井英夫終戦間際、病に倒れ入院していたのです。

昭和20年8月9日、長崎に原爆が落ちた日の日記にも、原爆の記載はありません。その代わり、日ソ開戦の報が記載されています。そして「関西弁のきれいな一等兵が入ってき」て、「これやで--」と両手を挙げてみせる、そしてそれを見て「みんなわらつた」と記載されています。もはや確実な敗戦を、多くの人々が笑って受け入れようとしていたのです。さらにこの日の日記は、こう続きます。

かうして、日本は確実に滅びの門をくぐつた。
昭和二十年の八月九日である。
もはや、いつさいの伝へるべき日本の愛は失せ果てねばならぬ、いつさいの、見知らぬ、そこいらに無数に輝いてゐた小さい幸福、小さい愛情。それらは飛散した。
日本民族の感じる、大きい愛情、といふものは由来たいした意味を持たないし、又かゝる邪宗的主教国家といふものは、規模こそ異なれ、世界各国の蛮地に点在している。唯ひとつ惜しいのは、折角めざめてきた日本人自身の手でこの邪宗をくつがへせないことだ。
いはゆる下町の、いはゆる山の手の(東京丈でいふならば)良識といふ、小さいお互ひの幸福、それが惜しい。
(220−221頁)

原爆が落ちた日、東京の病院では、映画を上映していたこと、敗戦を皆で笑ったこと、戦中、革命を夢見ていた青年が、日本人自身の手で革命をなし得なかったのを悔しく思うこと、日本のそこかしこにあった人間的な幸福が失われるだろうという予感を抱いていたこと、それらが彼方から響いてくる声だとして、そうした声々に、日本人はどれだけ耳を傾けて戦後を築いてきたか、という自問自答が、私にはとても大切なことに思えるのです*2

*1:この部分はあとがきではなく205頁脚注より抜粋

*2:という日記を書いた翌日、 田中康夫氏が日刊ゲンダイに寄せた記事で、渡邉恒雄氏のこんな発言が紹介されているのを目にしました。田原総一朗氏責任編集の雑誌「オフレコ!」創刊号におけるインタビューからの引用だそうです。以下、又引きですが…「安倍晋三に会った時、こう言った。『貴方と僕とでは全く相容れない問題が有る。靖国参拝がそれだ』と。みんな軍隊の事を知らないからさ。それに勝つ見込み無しに開戦し、敗戦必至となっても本土決戦を決定し、無数の国民を死に至らしめた軍と政治家の責任は否めない。あの軍というそのもののね、野蛮さ、暴虐さを許せない」 「僕は軍隊に入ってから、毎朝毎晩ぶん殴られ、蹴飛ばされ。理由なんて何も無くて、皮のスリッパでダーン、バーンと頬をひっぱたいた。連隊長が連隊全員を集めて立たせて、そこで、私的制裁は軍は禁止しておる。しかし、公的制裁はいいのだ、どんどん公的制裁をしろ、と演説する。公的制裁の名の下にボコボコやる」 「この間、僕は政治家達に話したけど、NHKラジオで特攻隊の番組をやった。兵士は明日、行くぞと。その前の晩に録音したもので、みんな号泣ですよ。うわーっと泣いて。戦時中、よくこんな録音を放送出来たと思う。勇んでいって、靖国で会いましょうなんか信じられているけれど、殆(ほとん)どウソです。だから、僕はそういう焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られている所へ行って頭を下げる義理は全く無いと考えている。犠牲になった兵士は別だ。これは社の会議でも絶えず言ってます。君達は判らんかも知れんが、オレはそういう体験をしたので許せないんだ」