衆議院解散

さて、例によって日付はでたらめです。昨日、衆議院解散となったのでした。一連の小泉純一郎首相の言動を見ていて、≪週刊ダイアモンド/続・憂国呆談≫の3月号(web版)「モノローグの時代?」を思い出しました。浅田彰氏と田中康夫氏の対談の、以下一部抜粋です。

(浅田氏)やっぱりブッシュと小泉って似てるな。内容がないことを、しかし短い言葉で何度も何度も言い続ける(笑)。「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」とか、「改革なくして成長なし」とかさ。
(田中氏)それで通用させちゃうんだから、ある意味天才的かもね(笑)。まあ、四年経っても騙され続けてる中央マスコミが愚か過ぎるんだけど。
(浅田氏)つまり彼らにはダイアローグ(対話)やダイアレクティクス(弁証法)がまったくないわけ。対話ってのは「その点は確かに問題だが、この点ではこういう利益があって……」というふうに進む。その「確かに……だが」という譲歩がブッシュや小泉には皆無なんだな。とにかく「イラク情勢は日々良くなってる」とか「改革は着実に進んでいる」とか、自分の思い込みを短いモノローグ(独白)の形で反復するだけ。ところが、それが繰り返しメディアで流されていく結果、いわば自己成就的に仮想現実がつくられちゃう。昔はいちおう保守対革新とかいって弁証法的対話をやってたんだけど、そんな七面倒くさいことはしない、ひたすらモノローグだけでいくってことでは、ブッシュや小泉は新しいと言えるかも。しかも、本誌で触れたとおり、CBSや朝日新聞の苦境に象徴されるように、それをチェックすべきメディアの力が急速に低下してきてる。難しい状況だね。

ここでは、主要マスコミのチェック機能の問題になっていますけれど、「モノローグの時代?」という、この対談のタイトルには更に示唆があるように思います。小泉首相を支えた日本の約半数を数える支持者は、彼のモノローグをずっと聞きながらどう思ってきたのか、ということです。モノローグしかつぶやけない首相に、健全な民主主義が可能かどうか、それはとても原則的なことだと思うのですが、そこに頭を巡らせながら、なお小泉首相を支持し続けたのか。弊害はあっても彼しかいないという思いだったのか。もし、モノローグを疑問無く受け入れ続けてきたのだとしたら、そこにおける対話や弁証法の欠落を疑問に思わない人々の作っている時代とはどんなものか。疑問を抱いていたとしても、なお支持し続けていたとしたら、対話や弁証法がない議会を望んでいたと言うことか…そんな問いかけが「モノローグの時代?」というタイトルに含まれると思うのです。実際、一番のチェック機構は、マスコミではなく、選挙で投票をする日本人一人一人にあるわけですし、こうしたモノローグ的な傾向は、前回の選挙の時点で、今ほど明確ではなくても、ある程度見えていたと思うのです。

(ところで、こうした場所でブログを公開するならば、自分の発言がモノローグに堕してしまう危険性を考えることがとても大事だと思います。インターネットに拡散していく発言が、無数に増え続けるモノローグに過ぎなかったりしたら、かなり不気味なことになると私は思っています)。

ノローグを繰り返す首相と議会制民主主義は相容れない、なぜなら弁証法が拒否される以上、答弁(対話)は無意味だから、と、とりあえず整理出来ると思います。私は、もし本当に小泉首相がモノローグしか言葉を持たないのだとしたら、政治家の資質自体が問われかねないと思っています。また、自民党内の反対を唱える議員を押さえつけるために、しかも参議院の議員を押さえつけるために、衆議院を解散すると宣言していた小泉首相の言動は、議論を許さない、モノローグの押しつけに見えても仕方がないと考えます。

ところで、今回の郵政国会(この言い方は不適当な気がしてならないのですが)における小泉首相の発言の中で、印象深いモノがありました。7/13、参議院本会議に小泉首相が出席し、郵政民営化関連法案の趣旨説明と質疑が行われた、そのあとマスコミに残した発言です。7/14産経新聞の記事から引用します。

衆院でも修正を評価したが、ちょっと早口だった。今日はゆっくりと時間をかけて、分かりやすく答弁した。これからは早口を直そうと思う」

この様子はテレビでも流され、当の趣旨説明や質疑の時と同様に、マスコミのカメラに向かっても、ゆっくりゆっくり話していました。しかし、早口の言葉をゆっくり話せば、同じ内容でも賛意が得られる、というのは、かなり奇妙な印象を受ける話です。少なくとも、政治家のセンスでは無いように思います。しかも、真顔で言っているところを見ると、冗談ではなかったようでした(この日だけのことだったようですが)。これは不思議でした*1

怖いのは、小泉首相のそんな様子から、モノローグの人の、もはや宗教的な自己完結を感じる、ということです。小泉首相からすれば、《話せばわかる自民党》だったのかもしれません。しかし、大前提として、一方的な詔しかないならば、議会制民主主義の対話は成立し得ないのです。相手が受け入れることがあったとしても、それはたまたま合意できたか、仕方がなく服従したかに過ぎないでしょう。にもかかわらず「ゆっくり話す」ことで、何かマジカルな経路を経て、伝わっている、通じているという幻想を抱くこと。浅田氏は「自己成就的に仮想現実がつくられちゃう」という言い方をしていますが、その仮想現実の中では、対話は十全に為されたことになっているのかもしれません。

私は、こういう原理的な部分から政治を考えることが、とても大事だと思っています。もちろん、現実に即した対応策をすばやくこなしていく政治家も必要です。しかし、こうした原理もあわせて意識していかなければ、なにかとても気持ち悪いことになるように思えて、仕方がないのです。

ところで。こうした政治情勢になって、なおのこと思うのですが、選挙権があるのに、選挙に行かない人の気持ちがまったくわからないのです。投票以外に、この状況の気持ち悪さをどうにか出来る手だてはないのに…。気持ち悪くはないのでしょうか?そうか、誰もがモノローグの時代を生きるなら、他者も世界もぼんやりとしか存在していないから、それほど気持ち悪くはないのかも、と思い当たり、また落ち込んでしまったりするのでした。それでも、選挙には行きますけれど(笑)。

*1:同じく7/14産経新聞の記事から引用すると、この小泉首相の答弁について、以下のようなコメントが寄せられています。「片山虎之助参院幹事長は“首相の答弁は大変丁寧で、今日はよくわかった。テレビ中継してもらえば良かった”と評価。公明党神崎武法代表も“首相の丁寧な考えが理解されていけば、(今後は)非常にいい流れにもなる”と述べた。/これに対して自民党反対派の荒井広幸参院議員は“中身が問題だ。言葉だけ丁寧にしても何ら変わらない。空虚に聞こえる”とこきおろした。」私には、どちらのほうが正論かは、自明のことに思えるのですが…。