ターネーション / Herbie Hancock

BGM : ハービー・ハンコック「Speak like a chaild」

Speak Like a Child

Speak Like a Child

何かの本で読んだか、または「処女航海」を聴いて同じミュージシャンのCDが欲しくなったのか、もう覚えていないくらい昔、何となく買って、あまり聴かずに放置してきたアルバムです。ジャケットがよい感じです。するすると夏の夜に流れていきます。

ジョン・キャメロン・ミッチェルの新作映画の俳優オーディション用に送ったビデオから、ジョン・キャメロン・ミッチェル、そしてガス・ヴァン・サントにその異常な才能と作品力を見出され映画完成に至った」(公式HPより抜粋)という、話題のドキュメンタリー「ターネーション」を見てきました。ニューヨーク在住の無名の俳優ジョナサン・カウエットが、自身の31年の生涯を、11歳の頃から撮りためた、自分や母・祖父母を被写体としたプライベート・フィルム&ビデオ映像を中心に、スチル写真や当時見ていた(影響を受けた)映画やテレビ映像の様々な断片をコラージュして描き出す、自分史ドキュメンタリーです。

何年にもわたって撮影されたプライベート・フィルムを素材に映画を作り上げるドキュメンタリー作家、というと、まずは(何度見ても胸が熱くなる、大好きな映画なのですが)「リトアニアへの旅の追憶」のジョナス・メカスを思い出します。ただし、「ターネーション」のジョナサン・カウエットジョナス・メカスには大きく手法が異なっています。

ジョナス・メカスは、まずカメラを他者や世界に向けます。親しい者たちに向けたカメラを通して、見つめ、移動し、記録し、思考し、欠落や無数のどもりとともに編集=記憶する、といった行為が、メカスのフィルムには刻み付けられていると思います。また、そのフィルムには、彼が亡命者である、つまりどこにも拠って立つ場所のない人間であるが故に、失われていくその場所場所の、一瞬一瞬を、ドリフトしていく刺激的な危うさ/危うい切なさが絶えず揺らめいていると思います。

これに対してジョナサン・カウエットのプライベート映像は、その多くで自分自身を被写体としています。自分で自分自身を映した映像を編集し、自分の過去と現在を語るのです。そこでは、ジョナサンとその母親の話を中心に、実際に起こった出来事が包み隠さず示されます。しかし、そうであるにもかかわらず、ジョナサン・カウエットの描き出す自分史は、一種のフィクションとしての性質を強く帯びています。嘘の過去を語っているわけではないにもかかわらずです。

以下、ネタばれです。

映画の前半、大変印象深い映像がありました。11歳の頃の映像で、化粧をしたジョナサンが、女優然としてカメラに向かい、妊娠中夫に振るわれた暴力を涙ながらに告白する妻、という役を演じているのです。そこには、演じること、女性になりきることへの熱中を見出すことが出来ます。10代半ばごろ、強いマリファナを吸ったことを契機に「離人症」となった、とジョナサン自身は映画内のテロップで語るのですが、実際は11歳の頃の女優魂から、彼の「離人症」的な傾向は見出せると思います。ゲイであることに10代の早い段階で気付いき、それを周囲には悟られないようにしていたこと、13歳で年齢制限のあるゲイクラブにゴシックロリータ風のファッションで扮装し年齢をごまかして入り浸っていたこと、そして演じることへの熱意、熱中、自分自身へ向け続けられるカメラ。それらはジョナサンにとって、自分を他者のように見ること、自分らしい自分を他者のように作り出すことが必要だったのではないかと想像させるのに十分な情報です。

言い換えると彼はまずは願望において俳優(自分ではない自分?)でありたかった、だからカメラの前で、自己像を積極的に演出していたのではないでしょうか。たとえばリチウムの過剰摂取で倒れた母親に電話するシーンを、わざわざカメラで撮りながら、その前で泣き顔になっていく、というのは、その事前にカメラをセッティングするという行為において、すでに一種のフィクションなのです。もちろん、すべての感情がフィクションである、というわけではなく、真実の感情がそこには大いにあったと想像します。しかし、真実の感情を、カメラの前で演じた、なぜなら彼は俳優だから、という言い方も出来ると思うのです。カメラにやや斜めに顔を向けた状態で、泣き顔を捉えさせる、その姿勢において、フィクションなのです。

さらに、編集という部分にも、フィクションは宿るといえます。この映画を、無数の映像や写真のコラージュを通して、俳優がフィクショナルに作り出した自己像(こういう風に見られたい、と思う自己像)と見ることも可能ではないでしょうか。実際、映画が、回想形式で始まり、途中で回想が始まった地点に追いついて、その後息子が母親を引き取る「クライマックス」に続く、という全体の劇的な構成を見ても、編集段階でドラマツルギーを考えていたことは間違いないと思います。また、その過程において、母親と自分の、心の病や虐待経験(母親のほうは、電気ショックの「治療」ではあるのだけど)を重ね合わせるような部分があったり、行方不明だった父親との再会というドラマ的に盛り上がるポイントを後半に挿入するなど、ドラマとして非常によく出来ています。つまりこの作品は、描き出される主人公ジョナサンの混乱に満ちた半生に引き比べて、同じジョナサンが作ったとは思えないほどの統覚をもって編集され、物語として端正に構築されているわけです*1

ですから、この映画を見る際には、その全体をジョナサンのフィクショナルな自己像として、それこそ「離人症」的に見直す必要があると思うのです。すると、家族関係の崩壊や幼児期に受けた虐待が精神に与えた傷、母親同様に心を病んでいることの不安と母親への強い思い、隠れゲイだったころの不安定さ、そして前述の「離人症」など、映画の中で示される情報のすべてが、ニュアンスを変えていくと思います。それらのジョナサンの過去は、彼が少年期から青年期にかけてみた(おそらく彼が現在も趣味的に好んでいる)無数のアングラ映画やホラー映画の映像の断片たち、また対になりそうなアメリカの表層的イメージを凝縮した健康的なテレビ映像のコラージュと密接に結びつきながら、全体がジョナサンの欲望、ジョナサンが望む自己像として見えてくるわけです。

ジョナサンは、その欲望を、矢継ぎ早に映像や画像を切り替えて構成されたコラージュの手法によって描き出すのですが、ここに、この映画の魅力の一つがあると考えます。単に、事実としての痛みを語るならば、もっとほかに手法があったはずなのです。しかし(美的な判断もあったのかもしれませんが)ジョナサンの描き出す自己像は、複合的な無数の映像・画像が同時に積み重なりとして示される。その一種猥雑さを帯びた混乱、それもまた欲望の問題ではないかと思うのです。そして全体としての欲望の自画像が構築されていく。あるいは、そうした映像のコラージュで示されるような混乱に、ジョナサンの欲望が育まれたのだ、という言い方も出来るのかもしれません。

ジョナサンの欲望として集積された多数の断片が、ハリウッド映画に見出せるものとは違う、アメリカの別種の風景を浮かび上がらせてもいるとも言えると思います(ガス・ヴァン・サントが「ターネーション」に反応したのは、そうした要素においてではないかと、これは推測に過ぎませんが、感じています)。一種の壊れた風景として広がるアメリカ…その意味ではハーモニー・コリンの「ガンモ」などと並べて考えてみると、面白いかもしれません。「ガンモ」と比べると、「ターネーション」は良くも悪くも物語として構築されすぎているかもしれませんが。

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しかし、この映画が、全体としてフィクショナルであることにきれいに収まっているかというと、そうではありません。この映画全体としてはフィクションであっても、それを構築する諸要素が、新しく撮影しなおすことなど出来ない、それ自体はどうにもいじりようのない厳然とした記録であること。そこにもこの映画の可能性が宿っています。集積された断片自体が持つ力ですね。集められた断片群は、再構築することが出来ます。その中で意味づけも可能です。そこからフィクションとしての自己像も作りえます。しかし、部分部分、一つ一つは改変できない、生々しさを持ってしまうわけです。このことに、ジョナサン・カウェットはかなり意識的だったのではないかと思います*2

印象的なのは、祖父母を映した映像、ジョナサンが捉えた飾り様のない日常の中の祖母や祖父(後半の、虐待を意識して電気ショックを受けさせたのではないかとジョナサンに問い詰められる祖父は、いささか物語に飲みこまれてしまうのですけれど)、またはリチウムの過剰摂取によって脳を損傷した母親がかぼちゃ一つで喜びはしゃぎ続ける空恐ろしいシーンです*3。それらは、ジョナサンがジョナサンの自己像を描くために必要な親しき他者の映像です。ジョナサンは意識して、それらの映像は、短くカットしたりせず、長く一続きのカットとして映像を見せ続けます。そうしたジョナサンの配慮によって、断片の一部は、フィクショナルに構築された全体、フィクショナルなジョナサンの自己像に対して、改変不能な記憶の生々しさを湛えたまま、全体のフィクションにおとなしく収まらない細部として残るのです。

だまし絵のようだ、というと判りやすい気がします。ジョナサンの自己像は、端正な美しき人間像ではないものの、映画のラストにつぶやかれるように、「混乱や虚偽に満ちていても、人生は美しい」ときれいにまとめることが出来るだけの美しさを帯びています。しかし、同時に、それはある程度コーディネイトされた物語であり、更に細部を見ると、その細部ひとつひとつには、納まりの悪いところがある。だまし絵の細部を見たら、全体の絵からは想像できない、別種の不気味さが浮上する、といった感じです。ジョナサンが、母親と同居をはじめたあと、母親と話すことを恐れているという発言がありました。いずれ自分もああなるのではないか、というその恐怖心には、甘美な悲劇的物語性(母と息子が寄り添って眠るラストシーン)と、かぼちゃのショットに代表される消化できない現実が同居しています。私はそこに、この映画の可能性があると思っているのでした*4

ところで。この映画には、こうした場所でブログを展開する無数の無名者の仕草に近いものが見出せるように思います。ブログが自分にとって重要だと感じている人は、この映画を見て、自分の欲望とは何なのか自問自答する材料にしてもいいかもしれません。あるいは、ブログなど書くのをやめて、ビデオカメラを買いに走ってもいいのかもしれません。

*1:その点でも、メカスとは大きく違うかもしれません。どんなドキュメンタリーも、編集という過程の中には、フィクションを不可避に孕む、というのは大前提ではありますが、メカスの場合、それを旅の持続・継続によって、フィルムと世界の関係が物語に回収されることに抵抗していると思うのです。一本の作品を越えてなお続いていくメカスの旅の形態は、その作品群を続けて見ることで見えてくると思います。「ロスト・ロスト・ロスト」「時を数えて、砂漠に立つ」など、とても美しい作品群を思い出します。タイトルは忘れてしまったのですが、ケネディ夫人とその子供たちと、海水浴に行く、あの美しいフィルムは、なんと言ったでしょうか?風の音が吹き続ける…。

*2:もちろん断片自体をCGで加工し偽の記憶を作れば改変も出来ますが、それでは映画の可能性を自ら握りつぶすようなものですし、その可能性を考えることは無意味だと思います。

*3:ここに前述の、11歳のジョナサンが自身を完全な女優と見なして演じているシーンも挙げてもいいかもしれません。そこには幼い自分という他者が事後的に見いだされていると言えそうな気がします

*4:裏腹に、もっともっとその可能性を追求してほしかった、とも思っているのですが…ジョナサン・カウェットとしては、物語的な整合性=自己像の方が比重として大事だったのかもしれないですね