ある朝スウプは / Giuseppi Logan

BGM : Giuseppi Logan「More」

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ずっと聴いてみたかったジュゼッピ・ローガンのアルバムを見つけたので早速ゲットしました。いや、なんか、理由もよくわからずに気に入ってます。情緒的なんだか、でたらめなんだか。ちんどん屋の現代音楽みたいな感じです。でも、ジャンル的には、一応ジャズコーナーにあったんですけれどね。どんな物語にも結びつかない、叙情性とでも言うか。花瓶に欲情する的な、理由のなさを感じます。物語のない感傷などありうるのでしょうか?この感覚はどこから出てくるのだろう?(笑)

ともあれ、気に入ったので、1stも探します。そして、改めてよく考えてみます。今日書いたことは、きっとあとで読み返しても、なんだかよくわからないでしょうし。

PFFでグランプリを受賞した高橋泉監督の「ある朝スウプは」を見てきました。一見に値する力作だと思います。東京では、渋谷ユーロスペースでレイトショー(21:10〜)のみの上映、東京以外の上映は(公式HPを見る限りでは)未定とのことなので、なかなか見るのも大変だとは思いますが、一つの才能が羽ばたこうとしている、その最初の段階に立ち合うのは、なかなか楽しいものだと思いますし、ぜひスクリーンでどうぞ!と、宣伝してみました。

「犬猫」の井口奈己オンナコドモフィルムズ/9月10日「犬猫」上映@テアトル新宿。詳しくは監督のブログをどうぞ)、「亀虫」の富永昌敬(OPALUC/新作情報の告知あり!)などもそうですけれど、ゆっくりでも確実に、新しい日本映画の流れを形作っていく若い才能が出て来ています。ただ、彼らを取り囲む環境はとても貧しい。映画はお金のかかるものですから、やはり一定以上の客が支持し盛り立てていかなければ、文化として成り立たないのです。しかし、その前段階の、彼らの作品を多くの人々に向け情報発信し注目させるだけの力が、もはやマスメディアに宿っていない。ですから単に見過ごされてしまう。もったいないことです。

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多額の宣伝費を持つテレビでCMの流れる映画だけが映画ではなく、映画の新しい可能性は、むしろもっと小さいところに萌芽するのだと思います。そういう才能をリスペクトするためには、自分から情報を探しに行き、進んで見に行き、そして良いと思ったら人に薦める、そんなことを繰り返して行くしかないのだと思います。その繰り返しの中で成熟し安定した映画文化を支える客層が育くまれていく、というのが理想なのだと思います。その過程には、教育とか、訓練とかに近いものも含まれるでしょう。自覚を持って一人一人が続けていかなければならないものです。

とはいえ、情報は必要です。そのためにも、硬直化したメディアの代替物として、ブログや2ちゃんねるなど、インターネットを介した草の根的な広がりに、私は一定以上の期待を抱いています。しかし、そうした草の根的な広がりが、真の意味で自律的なネットワークをマスメディアに対抗して作り得るとまでは思っていません。追従するにしろ反発するにしろ、マスメディアの強い影響下でそれは行われ、不可避に誘導されてしまうからです。また、個人による情報発信がどれほど増加しても、マスメディアになら可能な情報収集や調査・検証を個人レベルで行うことが出来ない以上、マスメディアは必要でもあるのです。

ですから、映画ファンの場合なら、良質な映画マスコミをどう見分け、支えていくかも大事だと思うのですが、これはとても難しいことでもあります。そもそも、今の時代にマッチした情報流通の仕方からして、混沌としているわけですから。

 ※

だいぶ話がそれてしまいましたが、今日は「ある朝スウプは」の話です。

通勤中にパニック障害に陥った北川は、無職となり、心のよりどころを求めてか、同棲中の恋人・志津には職を探すためのセミナーだと誤魔化しながら、新興宗教団体が主催するセミナーにのめりこんでいきます。北川が二人で貯めた貯金に手を付けて、宗教団体が販売するソファーを買ったと知った志津は、北川をセミナーにいかせまいとしますが…。秋の終わり、10月から、翌年の春、4月まで。時間と空間を自然と共有していたはずの恋人同士が、まったく共有できない部分を互いに見出し、徐々に膨らませていく、その痛みに満ちた二人の時間を描く作品です。

以下、ネタばれです。

そのソファーは、二人の生活空間の基調になっている落ち着いた色合いに似合わない、黄色くてかてかしたもので、狭い部屋です、ベラダンへ向かう窓のところを塞いでしまい、外に出るにはソファーをまたいでいかなければなりません。映画の舞台のほとんどは、この小さい二人の部屋で展開します。多くのショットで、画面の中央に、黄色いソファーが居座り続けます。それは、色感として違和感を残すものの、窓際の逆光のなかにあり、それほど強い自己主張をするわけでもありません。やはり多くのショットで、ソファーには北川が、ぽつんと座っていたり寝ていたりします。一人で座るにはやや幅があるのですが、二人で座るにはいささか手狭な感じのソファーです。

カルマを浄化すると北川が説明するソファーを志津は毛嫌いするのですが、ソファーを捨ててしまうことは出来ません。同じように、変わってしまったとはいえ恋人である北川を置いて部屋を出ることもできない。ソファーが違和感を孕みこんだまま、その場にあるのが当たり前のように部屋に馴染み始めるのと同様に、新興宗教という志津には受け入れがたい異物が混じりこみながら、同時に(朝、食卓に向かい食事をする二人の静かな時間を描いた映画の最初のほうにある長回しのシーンのように)二人は二人でいることに馴染んでもいるのです*1。そこには特異な時間が流れ出します。狭い空間の中で、決着がつかないまま、互いの受け入れがたい他者性と向かい続ける時間です。

もちろん、そのような関係には無理があります。だから、無数の暴発が起こる。ソファーの上で眠っている北川に、志津が食事だよと声をかけるが返事がない。どうしたかと思って何度も声をかけ、反応がないので毛布をめくって起こそうとする。起きているのに起き上がろうとしない。と、唐突に北川の手が志津の頭をはたく。上から下に向け、強く、手のひらで。志津は、何が起こったかわからない感じで最初は笑い声のようなものを立てるのですが、次に泣き始め、恋人を両手のひらで、上から下に力なく振り下ろし、叩く。「どうしてよ」といいながら。ここのシーンの痛みは、叩くという行為が、怒りを伝えるためではなく、片方は激しい拒絶、片方は相手に自分の存在を訴えるようになされ、断絶は(叩けるほどの距離にありながら)いっこうに埋まろうとはしないところにあるのです。

または志津の友人が遊びに来るシーン、北川と志津が、ほとんど意味らしい意味もなく、台所で向き合って延々と異常な笑い声を立てあうシーンも、一種の暴発です*2。あるいは、北川が部屋の真ん中でいきなり漏らし、それを志津が、(笑いというには泣き声に近い声で)笑いながら見つめ、北川が「だって志津が全部面倒を見てくれるのだろう」と答えるシーンなども挙げられます。

他人同士であり、一緒にいることが自然でもある二人は、どうにもならない他者性をそんな風に膨らませながら、暴発を繰り返しつつ、終わりに近づいていきます。志津が管理していた金を盗もうとしたのが見つかり、便所に閉じこもった北川を、部屋の外の窓からモップの柄でつつく志津。唐突に起き上がった北川は、便所の格子窓越しに志津と顔を突き合せます。真っ青な顔をした北川は、新興宗教にはまるなんて変だ、という志津に、じゃあ大きい宗教なら良かったのか、気持ち悪がっているだけで新興宗教がダメだという明確な理由などないじゃないか、と問い返します。結局、人は自分に必要なことを求めざるを得ない。新興宗教にはまるのであれ、それで幸せを感じるならば、とめる権利はない。モップの柄を握り合いながら、格子窓を通して顔を付き合わせる二人は、単に他人ならば、ただ受け入れがたい他者として距離を置けば済むだけの話です。相手にそれぞれの気持ちを伝える必要はない。しかし一緒にいることに馴染み、それが自然な二人だからこそ、決定的な断絶を前にしても、なお握り合うモップの柄が格子を貫いて二人をつなぎとめてしまう。そんな苛烈さが、この構図にはあります。

宗教団体にはまった男が、その恋人と分かれるまでの物語を映像化する。場合によっては2,3カットで済ませられるところです。怪しげな新興宗教にはまっているとわかったとたん、次のカットで女が男を捨て去っていてもおかしくない。そこでは、新興宗教は気持ち悪い、という、志津も抱いている前提がある程度共有されるからです。しかし当然その前提は、新興宗教にすでに入ってしまった人々を説得する根拠にはならないのです。だから二人の男女が別れもせず、信じるものも譲らないなら、物語は限りなく停滞するしかなくなります。そして、分かりあえない人間が向き合ったときに流れる時間が、物語の代わりに前面に出てくるのです。

こうした映画を支えていくのは、役者の演技力と、それを信用しカメラを向け続ける演出の姿勢なのではないかと思います*3。向き合う二者の緊張感がすべてなのです。その意味では、諏訪敦彦監督の二作、「2/デュオ」「M/OTHER」が思い起こされました。両者には長回しという共通点があります。これは演技の緊張感の持続を断ち切らず、濃密な時間を描き出していくための必然ではないでしょうか。他方、高橋泉監督の演技演出は、いくつかの点で諏訪監督と大きく違う点もあり、そこから高橋監督の作家性も見えてくるように思います。

第一に、カメラの前で演技が生成していくような即興性を諏訪監督が重視するのに対して、高橋監督の本作は、様々な巧みな伏線と構成力を見ると、かなりかっちりとした脚本が作られていたのではないかと思われることです*4。その上で、物語的には進展のない、停滞の中でただ向き合うことしか出来ない若い男女の時間を描き出すのです。そこには、かなり高度な俳優と監督の共同作業があったと想像します。ジャック・ドワイヨンの映画に通じるものも感じます。

第二に、長回しのショットが徹底してフィックスの画になっていることです。比較的引いた画が多く、特にたんすの上から俯瞰=誰の視点でもない映像は印象的で、恋人たちの果てしなくどこかずれていく様子を、延々と映し出します。また、時折短く、手持ちでアップを追いかけたショット(これも誰かの視線を代弁しないショット)が挿入されます。その2種類のカメラワークは、相互にそれぞれが優位に立つことがないように組み合わされています。二人のすれ違いを、途切れない長回しのカメラだけで捉えてしまうと、カメラ自体が、物語以上に堅固な権力になりかねない。アップだらけでは、感情という物語が主体化してしまう。それぞれのカメラの権力を極力削減し、カメラが映画を主導することを絶えず回避し続けたのではないか、と考えるのです。これは、カメラと俳優の間で生成する演技に一定以上の期待をかけていく、諏訪監督の演出と質的に違うと感じています。

以下は、ラストのネタばれです。

特にラストシーンのカメラワークは印象的です。春の日差しが窓から差し込み、木漏れ日となって、志津の顔に落ちています。いつものように準備された朝食、カメラは、食卓越しにフィックスで二人の食事風景を長回しで捉えていきます。

二人は今日別れ別れになります。久しぶりにスーツを着た北川は、おそらく出家のような形で、この家を去っていくのです。志津は、二人が熱海に行った思い出を語りだします。台風が近づいた、誰もいない海。志津は北川がそのとき嘘を言ったといいます。向こうの空に、雲の切れ間の明るい場所をさして、もうすぐ晴れると嘘をついた、と。

北川は、食事を終え、部屋を出ようとします。カメラは微動だにせず、彼の去った食卓と志津に向けられています。と、一度カメラの前を横切って玄関に向かったはずの北川が戻ってきます。北川の横顔だけが、カメラの右端に映し出されます。フレームの上にぎりぎりに彼の目元がきており、構図感覚は完全に崩れています。しかし、それはそれで正しいのです。彼らは、カメラのための身体、納まりのよい構図の中の身体ではなく、最初から最後まで、カメラにうまく納まらない、その納まりの悪さこそを、身体で示し続けていたのです。といって、そこでカメラの権力が消滅するわけでもありません。それはあくまで、カメラと演技のせめぎあいなのです。

志津は、当時、熱海の海辺に無表情で立つ北川を見ながら、何を考えていたのか知りたいと思った、と言います。北川は「本当に晴れると思ったんだ」と答える。志津は「他人なんだね」と呟くように言う。北川は最後の台詞を、漬け物を指でつまみ、口に放り込みながら言います。その食卓に対しての気軽さと、「他人」という言葉の残酷さが、この映画全体の縮図でもあり、反復にもなっているのでした。そこに、この映画の密度も生まれるのだと思います。

7/15の日記でも、切り口を変えて「ある朝スウプは」のことを書きました。)

*1:北川は宗教だけではなく、志津にも明らかに依存していて、志津の友達が部屋に来ている、しかしうまく相手が出来ない、仕方がないので、志津が台所に立つと北川も台所についていく、そんな飼い犬と主人のようなところが、二人の関係にはあります。

*2:このシーンに象徴的なのですが、北川は宗教だけではなく、志津にも明らかに依存しています。志津の友人と二人で向き合うのがいたたまれず、志津が台所に立つと北川もそれについて席をはずしてしまう、まるで犬と主人のような関係が描かれています。

*3:一箇所だけですが、北川が、台詞を言いよどむシーンでも、カメラは回り続け、どもりも含めて一つのショットとして採用していました。

*4:ただし、公式HPによると、「私の出演シーンでは台詞がほとんど決まっていませんでした。ポイント、ポイントをおさえてくださいというだけで自由にやらせてもらいました」などというコメントもあり、即興演出もなされていたようなので、確たる自信はないのですが…。