ある朝スウプは(2) / Astrud Gilberto

BGM : Astrud Gilberto「The Astrud Gilberto Album(おいしい水)」

おいしい水

おいしい水

1st「おいしい水」&2nd「いそしぎ」+3曲のまさしくおいしいアルバム。

南西の夜空に、遠雷が輝いていました。きっと激しい雨がまもなく来るのですが、今はまだ蒸した夏の夜です。アストラッド・ジルベルトをヘッドホンで聴きながら坂道を降りて左に曲がれば、すぐに我が家です。夜の曇り空が街灯よりも明るく輝きます。一瞬、街灯が灰色の影になる。遠くのビル群が黒く浮き上がる。ネガとポジが反転した様な感じです。軽い頭痛がして、熱っぽいのは、毎夏のことです。

T2「おいしい水」は、ディバンドバディバダバダバですから、アバジュベベアバジェベベーカマラで、夏なのです。当然、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲でした。ボーナストラックのT24「Let Go (Canto de Ossanha)」はメチャクチャ気持ち良く踊れそうな名曲で、ギル・エヴァンスのアレンジ。T14「Manha de Carnaval(カーニヴァルの朝)」もしっとり。「Berimbou」は相変わらず(?)名曲だなぁ。

昨日の日記でも「ある朝スウプは」について書きましたが、一つ、付け加えたいことがあったのでした。それはこの映画の都市のイメージ、「東京」のイメージのことです。

映画の冒頭、パニック障害を起こした北川が、医者にそのときの様子を説明する際に、西武新宿線のどこどこの駅で耐えられなくなって、電車を降りて…といった台詞がありました。こうした「場所」を正確に伝えることは、映画としてもとても大事なことだったのではないかと思います。山手線の複数のキーステーションから放射線状に伸びる郊外への鉄道路線は、その周囲に多数の都市生活者を擁しています。山手線の内部を仮に都市装置とすれば、その外側に動力源としての人が居住していて、それを運ぶ血管が四方に伸びる路線だと言えるでしょう。つまり、西武新宿線を途中下車したとは、そうした全体的な都市機能の外にこぼれてしまったということなのです。

二人が暮らす町は、細い路地が多く、東京でも比較的閑静な住宅街ではないかと想像されます。古く狭い木造アパートで、台所と、あとは一間のみ、手狭です。都心に通勤する、若いサラリーマンの現実的な生活レベルです。しかも、二人は共同で貯金もしている。切り詰めるものは切り詰め、結婚資金としていたのではないでしょうか。二人はともに両親に紹介しあってもいます。

北川が新興宗教にはまり込んでいく、それを志津がとどめようとするのが、話の主軸に違いないのですが、その背後で、職場移転に伴って退職した志津が再就職に苦戦するエピソードも積み重ねられていきます。二人の失業保険がほぼ同時期に切れることも語られます。そうした経済的な状況が、無職の二人の焦燥感を更に煽るともいえるでしょう。頼る実家もおそらく近くにはないのだと思います。「親」という存在が希薄な映画です。

そうした積み重ねの中に、「東京」というシチュエーションが浮かび上がってくる、と私は感じています。志津は、再就職に失敗して、アルバイトを引き受けるのですが、それは都内の空き地を写真で撮って回るというものでした。不動産関係らしいのですが、その目的は彼女には良くわかっていません。ただ、ひたすら都会の隙間のような場所のスチールだけが何枚も何枚も出来上がります。それは、多様な価値観に彩られた都市空間というイメージとは正反対の、しかしリアルな都市空間です。そこに象徴されるのは、都市機能の外側です。空き地同様に、志津と北川の部屋も、都市空間の隙間として、機能の外にあります。

ばらばらに生きている他人同士が無数にいる都市は、結局は、それぞれの個人が都市機能の中にいるか、その外にいるか、という形で分けられているのかもしれません。そして、機能の中にいれば、他人同士であれ機能する一部になるわけですが、機能の外に出てしまえば、あっけなく孤立するわけです。もちろん、山手線の内部に象徴される都市装置だけが、人間が生きるうえの基軸ではないので、そうした仕組みとは無縁に、生き生きと暮らす人もいることでしょう。しかし、結婚し、安定した生活を考えている二人です。たとえば勝手気ままなフリーター生活などは彼らの志向するものではありません。水商売という感じでもありません。すると、電車に乗って会社や学校に通う人たちの象徴する都市機能からはみ出たとたん、再就職を決めない限り、彼らはあっけなく都市の隙間に入り込んでしまうのです。

地方には、人間同士が互いにケアしあう緩やかなコミュニティがまだ生きている、というのも、一方で幻想なのだとは思います。しかし、親の存在、親戚の存在、幼馴染の存在、サラリーマン以外の生き方があるかもしれないといった転身の可能性、それらがすべて希薄になるという点で、やはり「東京」という機能は、二人に強く働きかけていると思うのです。

志津は、空地を撮影しているときに、北川が入信している宗教の信者を見かけ、そのあとをつけていきます。映画は、その無意味な追跡(つけていったとしても、その宗教団体に対して彼女が出来ることは何一つない)のシーンの間に、志津が撮った空地の写真をシャッター音とともに幾枚も挿入していきます。志津は、細い路地を縫って行きます。そこでは、都市の隙間が、たとえどれほど不気味で無意味でも、有機的に連結されていきます。新興宗教が、そうした隙間を埋めうる力を持っているとしたら、志津と北川の部屋、やはり一つの都市の隙間にそれが入り込むのもまた、自然なことだったのです。

都市機能に基づく都市のイメージだけではなく、こうした機能の外側にあるリアル。そこに「東京」を感じ取ろうとする映画というと、たとえば黒沢清の「アカルイミライ」、ホウ・シャオシェンの「珈琲時光」、ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」などが思い浮かびます。2作品も日本人以外の監督の名が挙がったことは、偶然ではなく、東京の機能の外から「東京」を見るうえで、異邦人であることは有効だったということだと思っています。また、 昨日の日記であげた二つの固有名詞、富永昌敬と井口奈己の作品なども挙げられるかもしれません。ジャン=ピエール・リモザンの「TOKYO EYES」や豊田利晃の「ポルノスター」といった映画も、少し前の映画ですが思い出しました。

そうした作家たちが東京の隙間に目を向けたのは、そこに機能=物語を越えた映画の可能性の領域を見出したから、そして同時にその隙間が、機能=物語と隣接しながら現実に存在する=リアルだったからではないか、と私は思っています。また、その多くが若者を物語の核にしているのですが、その場所は、別種の隙間、古き良き東京の下町とかではなく、つまり安穏とした場所ではなく、もっと不安定な場所で、それゆえに若者に似つかわしいからではないか、とも思っています。

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