いつか読書する日 / Paul Williams

昨日の日記で東京の隙間で生きるリアルと、それを映画として捉える可能性について書きました。それは現代の映画におけるアクチュアリティとは何か、という問いかけと、それにふさわしい対象としての「東京」が見出そうとしてのことでした。「いつか読書する日」は、そういう意味では真逆の映画です。長崎の町を舞台に30年以上前の恋心をくすぶらせ続ける男女の不器用な物語は、やはり新しさとは遠いと感じます。しかし、それがこの映画の価値を損なうとは思っていません。新しさではない場所で作られる映画もあっていいのだと思うのです。

泣かせる映画です。私はだだ泣きでした。もともと、不器用でもそれぞれの立ち位置で懸命に生きる人々、といったテーマが好きなのですが、加えて、映画として良質な演出が伴っているのです。

長崎は坂道と階段の町です。映画=運動が豊かになるためには、そこを人間がどう移動して見せるかにかかってきます。田中裕子は牛乳配達を生きがいにしている、という設定です。もちろん、そこには物語としての必然性がまずあります。恋愛の代替行為と言えそうですが、30年以上前から思い続けている岸辺一徳の家に牛乳を届ける、また彼以外にも、彼女の牛乳を待つ人々に届けることが、長年一人身で生きてきた彼女の、自分が愛し育ってきた町における存在意義なのです。しかし、同時にそれは映画的必然でもあるわけです。早朝、まだ明けぬ空の下、ライトを付けた自転車で薄暗い坂道を滑り降りてきた田中裕子が、牛乳屋の手前で自転車を降り、牛乳屋店主と車に乗り込むと、今度は牛乳瓶を抱えて、階段を駆け上り、車ではいけない丘の上の家々に配達に回る。坂道と階段を上に下に走り回るわけです。そういう運動を、この映画はとても大切にしています。そして、その田中裕子のとても50歳とは思えない運動能力が、坂道と階段の町で、二人の男女を遠ざけたり近づけたりするのです。

それから視線の交錯の演出の巧みなのです。恋愛ドラマです。互いに30年以上意識しあっていながら、なかなかそれを認められないまま来た二人です。朝の6時5分には必ず、牛乳瓶は牛乳ボックスに届けられます。そこで家の外に岸辺一徳が出たら、二人は毎日でも会えるわけですが、彼は出ない。カーテン越し、死の床にある妻のベッドごしに、かすかな音を聞くだけです。岸辺一徳は彼女がレジをするスーパーでの買い物を日課にしていますが、彼女を見つめるわけではなく、むしろ視線を避け、別の人のレジで支払いを済ませます。田中裕子は毎朝、スーパーまでの出勤を自転車で行うのですが、岸辺一徳路面電車を待つ駅の前を通り過ぎます。その後、岸辺の乗った市電が彼女を追い抜いていく。しかしここでも視線は交錯しません。恋愛関係を映画の中で示す最も基本的な演出は、この視線の交錯です。だから、どのような経緯で、二人が視線を交わすようになるのかが映画の転換点になるはずです。

そろそろ、ネタばれです。

二人を仲立ちをするのが、岸辺一徳の妻、仁科亜季子です。がんで、もう余命いくばくもない彼女は、介護する夫に、自分の死後、遠慮せず田中裕子と幸せになってほしいと告げるのです。彼女は、夫の話や様々なうわさ話から、二人買いまでも好き逢っていることを察知していたのです。また、彼女は田中裕子にもあおうとします。起き上がるのもやっとな体でありながら、夫が寝入った隙に、必死で、よろめきながらゆっくりと、点滴の器具を杖にしながら玄関へ向かい、牛乳瓶に手紙を差し込む。その、ベッドから玄関までの、短くて長い距離を仁科亜希子が埋めることで、岸辺一徳と田中裕子の距離は変わっていくのです(仁科が玄関へと向かうシーンが、一番のだだ泣きポイントでした。手紙を牛乳瓶に入れたとたんに、ほっとしたような笑みを浮かべるその表情にやられるのです)。

牛乳瓶の女性配達員に恋のドラマが秘められている、という発想自体、どこか時代遅れだとはやはり思うのです。しかし、決して若くはない田中裕子が、軽快ではないが重くもないしっかりとした足取りで小走りに、階段を駆け上りながら牛乳瓶を配り、空の瓶を回収し、また走り出す一連のシーンは、その運動において豊かだと感じます。しかしそれだけでは、岸辺と田中裕子の距離は永遠に埋まらず、視線も交わらないはずだった。その、田中裕子の運動量でも届かない最後の距離を、もはやまったく運動能力を失った仁科亜希子の必死の運動がつなげる。そして、二人の人間の視線は交錯し、ようやく向き合うことが出来るのです。

人の願いや生き様を乗せ、運動は、長崎という複雑に入り組んだ細い路地と坂道の町を一続きの場所としてつなぎ止めていきます。緒方明監督はそこに映画を見出しているのだと思います。そして、それはとても良質な、映画的な感覚だとも思います。

届けられない気持ちを、田中裕子ははがきにしたため、ラジオのパーソナリティに送る。リクエスト曲は「雨の日と月曜日は」で、歌うはカーペンターズ…ではなく、ポール・ウィリアムス。気恥ずかしいといえば気恥ずかしい。はがき、手紙、ラジオへのリクエスト、カーペンターズのヒット曲…どれもが古びた感触といえばそうで、50歳の恋愛話でなければ鼻白むところです。しかし、たとえばもし携帯電話を田中裕子が持ち歩いていたとしたら、彼女から坂道を駆け上る運動の必然性を奪ってしまうかもしれません。そもそも、テレビすらどこにも存在しないかのような世界なのです(映画の中で、一度も出てこないのです)。その(作為的な)貧しさが、手紙に文字をしたため、人に気持ちを伝えていくという切実さとなりもするのです。

友に捧げる詩

友に捧げる詩

緒方明監督は、「独立少年合唱団」と本作を見て感じるのですけれど、強く自分の世界を持っていて、それを高め、貫こうとするタイプの監督ではないかと思います(最後の最後まで、丘の上から長崎を見渡すショットを出さない、風景に甘えないところなどは、とてもストイックなものを感じます)。登場人物たちもそれに似てか、全員が芯に強い感情を秘めている人物が多く、最後にそれをぶつけ合うのでした。そこには確かに、映画があると思います。

ただ、それでも、きれいにぶつかり合えること自体がもはやリアルではないという「東京」の映画作家たちの存在。私はやはり、よりそちらに心惹かれます。それは決して、私が都市生活者だからという理由だけに還元されえないものだとも思います。

独立少年合唱団

独立少年合唱団

※DVDが出ていないようなので、サウンドトラックで代用です。

田中裕子が、昔馴染みのおばさんの家で、ビールを飲みながら酔っ払ってぐねぐねと落ち着かずに動いている演技が良いです。あるいはスーパーの休憩時間に準備体操をする姿。50歳の女性の、飾らない思い切りのいい動きです。ほかにも俳優は、認知症の老人を演じた上田耕一ほか、皆、素晴らしい。

あ、本日のBGMはそんなわけで、ポール・ウィリアムスです。お気に入りは、まずT1「Nilsson Sings Newman」。いかにもランディ・ニューマン&ニルソンな歌でいい感じです。次にT2「You And Me Against The World」。オリジナルはヘレン・レディらしいのだけど、私はこのアルバムの印象しか残っていないです。T6「雨の日と月曜日は」ももちろん好き。あ、歌いたくなってきた(笑)。一人でこっそり。誰も聴いていないし。このアルバムを買ったのは、おそらくまだ「自分で買ったCD」が、棚に20枚もなかったころだと思います。だから、けっこう思い入れがあるのです。