CAN「Ege Bamyasi」/ 映画批評・分裂

BGM : CAN「Ege Bamyasi」

エーゲ・バミヤージ(紙ジャケット仕様)

エーゲ・バミヤージ(紙ジャケット仕様)

CANは、かなーり好きです。ボサノヴァとか、ジャズを聴いている自分は、もちろんそれはそれでとても刺激的ですし、楽しいのですけれど、CANとかを聴いている方が、良くも悪くも自分らしい気がしてしまうのです。こういうのは、問題があるのはわかっているのですが…。

敢えていえば、CANのアルバムには、私が必要と感じる音楽の要素がまんべんなく入っているのだと思います。いくつかのアルバムを集めて、交互に聴く中で、自分の脳みその中の音楽スイッチを切り替える必要がない、元からいっぺんに複数のスイッチが押されるように作られている(ついでに新しいスイッチも知らない間に出来ているかもしれない)、そんなきちんと分裂しちゃっている感触が、とても嬉しいのです。

まあ、へんてこな部分もありつつ、ポップに楽しめるミュージシャンでもあるのですけれどね。…いや、違うのかな?(笑)そう思うのは、いろんなスイッチが入ってしまっているが故の信号認識の混乱による誤謬かしら。

そうそう、CANの音楽を聴いていると、CANのような音楽ももっと聴きたいのだけど、それだけではなく、ノンジャンルで、あらゆる音楽が聴きたくなるのです。欲望が増します。それも、とても嬉しい。

…今日は唐突に、映画批評の話です。別に、まじめに映画批評はなんぞやみたいなことを書く気はなかったのですが、ある映画について書こうと思って、しかしその前に前置きとしてこの文章を書き始めたら、何故か長大になってしまったので、独立させたのです。

このブログに書いている映画関係の記載は、未熟さはさておきまして、一応は映画批評を志しているつもりです。単に面白かったかつまらなかったかといった感想ではなく、映画ジャーナリズム的な知識を披露するのでもなくて、まあ一応は、映画の可能性って何だろう、みたいなことを考えて書いています。個々の作品について書いていても、私なりの映画史や、映画の現在とリンクするよう意識しているのです。

などと書いてみたのは、このブログを書いていくなかで、無数の感想、無数の映画情報が、さまざまな形でさまざまな場所に書き連ねられていることを改めて知ったからです。それ自体が悪い、というのではありません。ただ、文化は、個々の趣味規範とは別にあり、多数者が面白いと思うものだけが良いものとは限らないのは言うまでもないことです。また、情報は量ではなく、実際は質であって、更にどう使うか、ということが重要になってきます。たとえば、興味が単に多数者に曖昧に興味を共有されるだろうと想定されるものの情報だけで埋め尽くされていくと、映画について考えていく上であったほうがいい情報が、量の中に埋め尽くされてしまいかねません(もっというと、多くの場合、その多数者の興味の対象と想定されるものは、マスメディアと視聴者・読者が共犯的に作り出す幻想である可能性も多々あって、気をつけないといけないとも思っています)。

しかし、情報の質とは何か、それを高めるための選択眼と趣味規範とはそれほど違うものなのか、といわれると、グレイゾーンがある、いやかなり近いところにあるのも事実なので、偉そうに書きながらも、その境界を示すことは出来ません。ただ、情報の質を支えるのは検証である、と思っています。情報を、単に受け取ったまま流通させてしまうか、そのほかの情報と組み合わせながら検証し、その上で流通させようとするかに差が生じます。

情報だけではなく、批評というスタンス自体が、自己批判的というか、自己の論考を絶えず検証し、自注するようなところがなければ、成立していかないとも思っています。そのために必要なのは、複数の立ち位置から自分自身の論考を見直すような姿勢ですが、これが結構難しい。油断すると、同じようなことを同じように書きながら、硬直化した論考に映画のほうを押し込めよう、押し込めようとしてしまうわけです。感想であるならば、自分の好き嫌いでいいわけですから、自分の趣味規範に当てはまらないものはつまらないといって切り捨てればよいわけですけれど、批評の場合はそうはいかない、それが良いものか悪いものか、複数の視点から考え、捉えていかなければならないのです。

どんな映画でも、面白いと思う人がいる=いいところがある、という方もいらっしゃるようですが、これは批評的スタンスとはまったく違うと思います。やはり良くない映画、というのは厳然とあると思うのです。映画には、歴史があり(映画には、複数として捉えられる映画の歴史があり、単数として捉えられる映画の歴史もあり、その二つを同時に見据えるような映画も存在する)、その中で映画固有の可能性を目指してきた作品群があるわけで、それらの可能性を削減するもの、反するものは、やはり良くないと思うのです。あるいは、見る者の思考を一切停止してしまい、映画を自家中毒の道具に貶めることで、映画の可能性を一切放棄するような映画も、実際にあると思います。それらは、批評において、きちんと峻別して扱わなければいけないと思います。

とはいえ、こういう意識が強いほど、油断すると原理主義化し、批評の硬直化を招きやすい最たる部分であることも間違いありません。そこで、どう分裂した視点を持ち続けることが出来るか、単に意識のもちようだけではなく、スタイルの問題としても、そういうことが大事なのだとは思っています。

私が、このブログで、映画だけではなく、可能な限りほかの話題を同日の中に放り込んでいきたいと思っているのは、そうした分裂を保つためです。しかし、それすらあっという間に決まったスタイルとなってしまいます。この、興味の対象をなんでも詰め込むというやり方は、有効だとは思うので、今後も続けたいと思うのですが、同時にそれを突き崩すような機軸を、足し算の発想ではなく別の発想で、やっていく必要があるのでしょう。すると、個人的な場としてだけここを続けていくことの難しさに突き当たるのだろうとは思っています。

ところで「映画の可能性」とは、どういうものがあるのでしょう。一つは、「映画の可能性の中心」として考えるべきものがあります。私は、映画左翼としましては(笑)、新しい映画の可能性を絶えず見据えて、映画固有の可能性それ自体を考えていきたいと思うので、やはり可能性の中心とはなにか、という問いかけがとても大事なのですけれど、しかしそれだけでもつまらないとも思っていますし、現実の映画の可能性を削減しかねないとも思っています。たとえば、映画と映画音楽の可能性、という言い方をするだけで、映画の可能性とだけいうのとは別種の広がりを帯びます。映画とファッション、映画と食文化、映画とジェンダー、などなど、すでにジャンルとして確立されている組み合わせも多様にあると思います。さらに、実写映画とアニメの境界線とは、みたいな問いかけは、CGの技術の進歩にしたがって、まったく違ったニュアンスを帯びるようになり、時代とともに、その組み合わせの意義と内容が変わってきた部分です。

こうした無数に可能な広がりには、「映画の可能性の中心」をぼやかしてしまいかねない危険性もおそらくあるでしょう。しかし多少危うくとも、雑食でいきましょう、せっかくですから、と思うわけです。「せっかくですから」というのは「ブログだから」とも言いなおせると思います。私はここで、しばらくの間は、分裂しながらもバランス感覚を大事に、いろいろものを考えていけたらと思っているのでした。

ところで、映画の範囲を、「ハリウッド映画」と限定して考えたり「アメリカ映画」として限定して考えたりするのも、かなり有効な思考法だと思います(「思います」というか、そういういくつかの書物に影響を受けています)。

この2冊の本を読むと、かなりざっくりとした言い方をしてしまうのですが、共通して見いだせるのは、アメリカ映画またはハリウッド映画の内部に分裂を見い出し、映画(史)はその分裂による二重構造のなかで作られてきた、とする論考です(二者のニュアンスはだいぶ異なるのですが、分裂という点は共通です。またある種の分裂を見いだすために、意識的に映画の範囲を限定したのだ、という言い方も出来ると思います)。そしてそこに、蓮實氏の書物も樋口氏の書物も「映画の可能性の中心」をサルベージしようとしています。「映画」それ自体が、その可能性において、分裂という自己批判的な批評性を本質的に内在していることの指摘として読めると思うのです。私としては、この2つの書物同様に、映画(いや映画だけではおそらくなく、すべての)批評は、「分裂」というキーワードを抜きに考えていくことが難しいと考えているのでした。