CAN「Tago Mago」 / 妖怪大戦争

BGM : CAN「Tago Mago」

タゴ・マゴ(紙ジャケット仕様)

タゴ・マゴ(紙ジャケット仕様)

昨日に続けて、CANのアルバムです。これは脳内の夏祭りですね(笑)。そして、脳内に向けて解放されていく。それは閉じられているのとは違うのです。しかし、かっこいいなぁ。かっこいいなぁ。かっこいいなぁ。そして暑い。そうか、CANも夏の音楽だったのだなぁ。少なくともこのアルバムはそうです。

アナログ発売時は2枚組だったとのこと。後半は、飢餓海峡でした、なんか。いたこがうなりそうです。犬飼多吉が握り飯を頬張っていそうです。でも、踊ってもいい気もします(笑)。そして突然脱力もします。これはこれですごいです。

CAN、現在8タイトルが、紙ジャケット仕様にてリリースされています。私は、既に持っていた3枚に加えて、昨日と今日のBGMに指定した2枚を購入。どれもはずれなしです。詳しい情報はP-VINE RECORDS HPのCANコーナーまで!と、宣伝でした。

…しかし、ジャケットだけでも買いですね、これは。

飢餓海峡 [DVD]

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三池崇史の「妖怪大戦争」を見てきました。映画を一種のアトラクション化し、しかも秘宝館的なセンスも盛り込みつつノンストップ&てんこ盛りで攻め続ける映画でした。三池崇史の作品群には、びっくり寿司的な楽しさがあると思うのですね。しかも、単に巨大なネタにびっくり、程度では許してくれない。三池崇史が握ると、一見、食べ物とは思えない寿司が平然と並ぶ。それもたとえば赤いプラモデルの握りだったりする。しかもシャー専用ズゴック、つまりちゃんと海のものだったりもして、その上ちゃんと食べられ、食べたら蟹の味までする、みたいな面白さなのです。そうした変りネタのびっくり寿司の大盛り目白押し映画が、今回の「妖怪大戦争」だと思うのでした(と書いてはみたものの、すみません、たとえの面白さにおぼれて、まったく伝えられていないかもしれませんが…)。

こうした傾向は「DEAD OR ALIVE」シリーズや「極道戦国志 不動」など、比較的初期の頃からありましたが、そのころはところどころに大きな変りネタがあるという程度だったと思います。「殺し屋1」や「着信アリ」の頃から、全編これ変わりネタ尽くし的なアトラクション映画色が強くなったイメージがあります。

極道戦国志 不動【デラックス版】 [DVD]

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着信アリ(通常版・2枚組) [DVD]

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と書くと、三池崇史監督は変りネタ専門という風に響いてしまうかもしれませんが、「荒ぶる魂たち」や「新・仁義の墓場」といった作品の、青春映画としての(多少バッドテイストな味付けがあったとしても、調和の取れた)フォーマルな完成度の高さを考えると、それはそれで誤謬だと思います(とくに「荒ぶる魂たち」の、あれだけ多数の登場人物を一人一人ないがしろにせず、物語を構築し悲劇的なクライマックスまで盛り上げていく構成力の高さは注目だと思います)。

新・仁義の墓場 [DVD]

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変りネタを揃えれば揃えるほど、全体を一つの作品として構築することは難しくなるといえますが、おそらくそこで、三池崇史のフォーマルな資質、構成力は大きな力を発揮していると思います。ラストで大きく逸脱していく「DEAD OR ALIVE〜犯罪者〜」のような作品ならともかく、全編ネタ尽くしでいこうと思うと、そこに物語上の安定した枠組みがなければ、エンターテインメントに向かいづらくなるからです。三池崇史は、「妖怪大戦争」の場合は少年を主人公にした比較的簡略化されたストーリー(選ばれし少年が伝説の刀で悪の魔神を倒す、という大きな枠組み)を打ち立てて、そこから様々な逸脱を繰り返すやりかたで意外なイベントを構築していくという形をとっています。だからこそ、意味もなく少年を脅かすことを楽しんだり、悪の妖怪を倒すためではなく、戦いを祭りだと勘違いして妖怪たちが意味もなく集まってきても、どうにか物語は繋がっていきます *1。そうした危うさと裏腹の安定感が、三池崇史の人気のポイントではないかと私は思っています。

以下、「妖怪大戦争」「着信アリ」のネタばれあり。

ネタの連続が見る側を刺激し続けるためには、生理的な欲求をつつき続ける(そしてそれを同時に裏切って、意外な刺激を与え続ける)ことが大事で、そういう意味で三池崇史監督の最近の作品群を説明するのに一番近いのは、アトラクションのなかでも、特に「お化け屋敷」ではないかと思います。生理的なものの一つ、恐怖感を与える場所としての明示がまずあり、その上で、手を変え品を変え、客が予想できないびっくりを立て続けに演出してみせるわけです(意外さがなければ、退屈なお化け屋敷になってしまいます。また限られた時間に量的にも満足させられなければいけません)。「着信アリ」がそういう意味では最も「お化け屋敷」的で、映画の全体の物語は心霊ホラーの体裁をとりながら、幽霊たちは受け身の存在ではなく、あれこれ殺し方を工夫しながら物理的な攻撃を仕掛けて続け、突然ゾンビ映画になったりもする、そうした面白さに満ちています。トータルのバランスの取れた心霊ホラーの演出だけで突き進んでは、刺激が弱まってしまうという意識が三池崇史にあるのだと思います。

妖怪大戦争」は、表向きは少年の成長と冒険ですが、成長の中には性的なニュアンスも多く含まれます。それらのリビドーが生理的な刺激となりながら、妖怪という形で噴出し、一種の混乱と喧騒を巻き起こします。妖怪が東京の夜空で繰り広げる巨大なけんか祭りに、リビドーが無意味なまでに肥大化し、爆発するのを見出すことも出来るでしょうし、全体を(最後の浄化まで含めて)セックスの隠喩として捉えることも可能かもしれません(その意味では、豊川悦司栗山千明こそ主人公といえそうな気がします。女性の体を貫いて殺し、その向こうの母なる体内で再生を図る、みたいな文脈におきなおすと、面白いのではないでしょうか)。

そうした欲望の連続的な刺激を、かなり露骨に繰り広げながら、妖怪に転換されたリビドーたちは、少年を絶えず脅し続け、大人になることを促す、そんなアトラクション・ムービーなわけです。ちょっといけないアトラクションかもしれません(笑)。しかし、考えようによっては、ディズニーランドよりもずっと健康的かもしれません。欲望をいかにあけすけに示すか、という試みのほうが、私には、欲望をきれいに覆い隠すよりも、ずっと良いことに思えるのです。

映画の中で一番楽しかったのは、神木隆之介君が、魔人・加藤を倒すため、飛行機の羽にしがみついて東京に向かうシーンです。ハリウッド映画でも、上空の飛行機から飛び出してアクションを繰り広げるみたいなシーンが時折見られますが、いつも不思議に思えるのは、雲のはるか上空、零下50度とかの場所で、平然とアクションが出来ることなのです。凍るのではないか、なぜ凍らないのか。凍る凍らないは、実はことの本質ではなく、そもそも雲の上で飛行機から飛び出てアクションを繰り広げること自体が絵空事といえばそうなのですが、三池崇史はそこを逆手に取り、私の知る範囲では初めて、凍りながら羽にしがみつく生身の少年と妖怪たちを描いたのです。そして凍った少年と妖怪の姿をストップモーションにして「良い子はまねしないでください」のテロップがでると、場内爆笑になってました。確かに、まねしてはいけないですが、まねすることも出来ません。

いや、正しくは「良い子がまねしてはいけない」のは、この冒険それ自体かもしれませんね。エッチだし。しかし、してはいけない冒険だから、燃えるんだよね、とも言えるのだと思います。

ところで、こうしたアトラクション的な映画として、ハリウッドでは「ファイナル・デスティネーション」と「デッドコースターファイナル・デスティネーション2」の2作を思い出すのですが、この2作は、むしろアトラクションを持続する生理的な恐怖感が、死の恐怖ではありながら限りなく薄っぺらで無意味なのですね。こうしたハリウッド映画の一傾向と、三池崇史の映画を並べてマッピングしてみるのも面白いかもしれません。片方にはリビドーがあり、片方には一種の去勢的な無意味さがあります。そんなところからも、映画の現在なんてことが、考えられるかもしれません。

ファイナル・デスティネーション 特別版 [DVD]

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デッドコースター/ファイナル・デスティネーション2 [DVD]

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*1:いや、映画なんて、並べてしまえばなんでも繋がるんだ、という考え方ももちろんありますし、本来ならばらばらになっていきそうなものが危ういバランスとスピードで繋がっていくスリルに、映画の力を感じさせる、たとえば鈴木清順森崎東の作品群はあるのですが、三池崇史は別種の資質の持ち主だと思います。