Caetano Veloso / 愛の神、エロス

BGM : Caetano Veloso「Caetano Lovers」

カエターノ・ヴェローゾの日本独自の企画版です。「愛の神、エロス」のテーマ曲になっていた「ミケランジェロ・アントニオーニ」(曲名ね)も収録されてます。あんまりベスト版は、買いたくない(結局、気づくと、アルバムを買っていて、どんどん重複していくから)のですが、カエターノのアルバムが欲しい欲しいと思いながら、どれを買っていいやら迷い箸した末、とりあえずベスト版を買って、それを基軸に、アルバムを買っていこうと(選ぶのが面倒になって)決めて、さて聴いてみたわけです(アルバムタイトルのことなどすっかり忘れたことにして)。

CAETANO LOVERS

CAETANO LOVERS

T5「Quem ME Dera」が気持ち良い。アルバムは1967年の「DOMINGO」。それからT8「Haiti」(1995年「Fina Estampa Ao Vivo」収録)。これはキューバの貧困についてのポエトリーリーディングで、「ここがハイチ」とメロディアスに歌うところはとろけるようなのに、基本は熱く尖ってもいて、と、なんか、普通の感想しか出てきません。なんでしょう?ベスト版だからかな?(笑)「レオンジーニョ」(1977年「BICHO」収録)という可愛い曲も好きです。

T13の「Michelangelo Antonioni」(2000年「NOITES DO NORTE」収録)という曲も、本当によい曲なのですが、それよりも「So in Love」という英語詞の曲が気になりました。その訛りにおいて。歌詞だけ読むと、非常にストレートなラブソングなのです。それは、自国語ではなく外国語で書かれているから直球になってしまったという単純なものではおそらく無くて、訛りを伴って歌われることまで織り込んで、一つの曲なのではないかと思うのです。2004年の「A FOREIGN SOUND」に収録されているそうですが、このアルバムは全編英語詞らしい。聴いたことがないアルバムなので、一度聴いてみたいと思います。

しかしそれよりも、1960年代〜70年代のアルバムが一番聴いてみたいですね。90年代以降は、手元になくてもけっこう聴いているということもあるのですが…。

どこかにディスコグラフィが掲載されていないかなぁと思って、ネット回遊魚をしてて見つけたのが「CASA BoraBora」というHPカエターノ・ヴェローゾについてはここに詳しくありました。

愛の神、エロス」については、8/9の日記ウォン・カーウァイ編について触れましたが、個人的にはスティーブン・ソダーバーグ編が一番好きなのでした。(あ、一応…。この作品はウォン・カーウァイとソダーバーグ、ミケランジェロ・アントニオーニという3人の映画監督が、“エロス”をモチーフにそれぞれ短編を作り、一つにあわせたオムニバス映画なのです。公式HPはこちらです。)

以下、ネタばれです。

ソダーバーグ編は、時計会社の企画マンが、青いドレスを着た謎の美女と関係を結ぶ夢についてセラピストに相談する、という話です。でたらめなセラピストは、患者を寝かせて話させている間、窓から覗きをしたり、怪しげな手紙を紙飛行機で飛ばしたりとやりたい放題なのですが、そんななかで企画マンは、同僚のかつらが気になるといった話をつらつらとする中で、ずっと新しいアイディアが出なかったがふと目覚ましにスヌーズ機能をつけることを思いつき、満足する、という話です。ところが、実際は、そのセラピーを受けている場面こそが夢で、青いドレスを着ていた女性は彼の実生活の妻ということ、実はスヌーズ機能は彼の発案で既に商品化されていることが明かされます(その目覚ましで目が覚めるのです)。セラピストは、そのかつらをかぶった部下が夢の中では扮しているのでした。

この作品は、こうしてあらすじを書いても、何が面白いのかまったくわからないのがミソです(笑)。この映画を語るには、その中に仕組まれている映画史的なずれを見出すことだと思います。まず夢として出てくる青いドレスを着た女性のシーンが鮮やかなカラーであり、そこにはヒッチコック的なテイストも見いだせるかもしれませんが、ホテルの無機質な感じや揺れるカメラワークなどを見るとむしろニューシネマ以降のアメリカ映画のテイストの方が近いかもしれません。セラピストがアメリカで力を持ち始めたのはいつごろでしょう?映画としては、私が知る範囲でセラピストが大きく映画の中で役割を果たし始めたのは「普通の人々」でした。確かあれが1980年です。それ以前は、精神科医として映画の中に出てきていたように思えます。話を聞くと言うよりも、分析し研究する一種の探偵であったり、あるいは抑圧者として。「カッコーの巣の上で」が1975年でした。

ところが、主人公の企画マンの夢は、完全にフィルムノワール、1940年代か50年代のハリウッド映画の映像設計で、ブラインドの影が部屋を彩るモノクロームの映像なのですね。そこに、時代的な混乱が起こります。もちろん映画の中の現在は、カラーで示される方ではあるのですが、1940〜50年代の、ある意味端正な映像のイメージのなかで、悪ふざけ的に窓から紙飛行機を投げる、そうした穴を開ける行為が、結局は夢なわけですから、主人公の自問自答の中で行われるのです。性的な欲望を、2つの時代の映像的なイメージのずれと、そこに穴を開けるような動きの中で表現しようとしている、と、まずは言ってみます。しかし、実際目が覚めてみると、もうその欲望(出世欲も、美しい妻も)叶えられている、というのはかなり奇妙です。欲望は既に叶えられているのでしょうか?

欲望が、そうしたずれの中に生じるものだとしたら、既に欲望が叶えられているにもかかわらず、敢えてそれが叶っていないとする夢を見るのは、欲望の去勢を見いだせるのかもしれません。欲望それ自体が見いだせないところで、欲望をどう見いだそうとするか、「既に叶っている」というのは、実は欲望それ自体の欠落かもしれない、ということですね。

これを、映画の歴史と重ねてみると、もちろん「愛の神、エロス」は2000年代の映画ですから、ソダーバーグの描き出す映画史的な2つの時代のずれは、更に現在の視点で見直すと、もう一つのずれを孕みこむことになります。ハリウッドの黄金期のフィルムノワールの世界を、映像的には高度に端正に描き出しながら、薄っぺらなパロディにすること、そこには屈折した欲望(今は不可能な映像…例えそれを完全に再現しても、今それが映画になるわけではないこと)を見出すことも可能かもしれません。

そうした、エロスと映画の複雑な欲望の交錯によってこの小品は、何とも取っつきにくい映画にできあがっているのではないかと思うのでした。映画としての屈折した欲望として見直すと、夢が覚めて、すべての欲望は叶っていた、という映画の結末も、アイロニカルに見えるかもしれません。夢の中にこそ、欲望があったかもしれない、しかしそれは現実によって打ち壊されるのではないか、ということです。青いドレスの女は、確かにエロティックで、とても美しいのですけれど、そうした欲望をもっとも美しく語り得たハリウッドのある時代は、もはや既に失われてしまった、たとえばローレン・バコールは、もうどこにもいないというその痛ましさを思い起こすのです。窓の外を飛んでいく紙飛行機は、どこにも行き着きそうもないですしね。