水俣 患者さんとその世界 / アスベスト・トランス脂肪酸 / Getz/Gilberto

BGM : スタン・ゲッツジョアン・ジルベルト

ゲッツ/ジルベルト

ゲッツ/ジルベルト

夏の間に夏の音楽は聴き倒そうと思っています。「ゲッツ/ジルベルト」です。「イパネマの娘」です。ジョアン・ジルベルトのアルバムとしては、比較的気軽に聴くことの出来る、「流せる」アルバムです。といいつつもT4「Desafinado」T5「Corcovado」とか大好きだし、T6「So Danco Samba」も楽しいし、ぴくぴく反応しながら聴いてしまうのですけれど。ジョアンとアスラッドの「声」を聴く幸せ。

さて、いきなりですが、繋がらないようで、あとで繋がるようで、繋がらない話です。

アスベスト問題は、完全な公害だと思いますし、かつ国の失策(それも、土建業界の圧力に屈したといわざるを得ない、人命を軽視し、企業利益を優先した結果の失策)であるにもかかわらず、いまだに労災の範囲内で物事を進めようとしています。郵政民営化よりも、私としては、ずっとこうした問題のほうが大きく思えます(衆議院解散や郵政民営化については、8/118/19に書きました)。というのも、この問題は、年金制度の今後も不透明、セーフティネットも不十分なまま医療制度の変更で大幅な自己負担増となったことや、難病認定が大変おりづらくなったことなどともリンクしながら、国民の生命という一番ベーシックで守られなければならない部分で、平然と弱者を切り捨てる風潮になりつつある現政府の方針を、またしても感じ取ってしまうからです。

アスベストのように、事態が明白でかつ致命的なものですら対応が後手後手になる日本では、必然的に無為無策になってしまうのか、欧米では表記の義務化やマーガリンの禁止といった形ですでに社会問題化されているトランス脂肪酸*1なども、現時点では規制も表記義務も無い状態で、潜在的な害悪を撒き散らかしていても政府は実質放置してしまっています。ちなみに、日本マーガリン工業会の見解はこのようになっています。つまり、人体には悪いけれども、日本人は平均摂取量が欧米ほどではないから大丈夫、という理屈ですが、これって、かなり無理のある理屈だと思います。食生活は人それぞれですから、平均では大丈夫な値だったと(仮に)しても、一部の人がアウトなら、充分に危険な食品とは言えないか。少なくともマーガリンを取りすぎると危険であると、きちんと喧伝する必要はあるのではないかと思うのです。いや、何だって油分の取りすぎは良くない、という言い方もできるかもしれません。しかし、だとしてもバターと比べてどうなのか、といった比較は、少なくともされていないと、データとしてよくわからない。バターよりも顕著に体に悪いのだとしたら、マーガリンはたとえやすくても買うのに二の足を踏ませる食べ物となるでしょう。

と、これまたいたってまじめな書き出しなのですが、それなりに理由がありました。土本典昭監督の代表作の一つ、「水俣 患者さんとその世界」を見てきたのです。この映画を見るのは3回目だと思います。

「声を聞く」ということが、この映画を見る上で、とても大事なことだといつも思います。「声」とは、単に言葉の論理的な構造を意味するだけのものではなく、たとえば怒りや嘆き、涙や笑いが、様々な声音となって出てくるわけです。また訛りも重要です。不知火の海で生きる人々であること、同時に水俣病とともに生きている人々であることでもあるのですが、そのことが、完全に身体そのものと結びついていることを示すのが「訛り」だと感じるのです。それから、声そのものが持つ魅力ですね。これは訛りと渾然一体としてもいるのですが、猟師の人々の、焼けた引き締まったからだから発せられる声は、潮焼けした声なのでしょうか、独特のノイズを含み、どこか似通いつつ、それでいてそれぞれ個性的です。

声だけではなく風貌や身体も含めた存在の魅力、と言えるかもしれません。顔や手のしわ、画一化されない大勢の人々の顔だち。働き、食し、生きる身体ですね。また声や身体は不知火の海の豊かな自然と結びついています。そこでの生活の部分部分に宿る豊かさがあります。たとえば漁師の老人はたこを浅瀬で捕まえると、海面で個々が弱点なんだと語りながら、目と目の間を歯でかじって殺し、腰の針金に引っ掛けて、更に漁を続ける。次第に増えていくたこが、海中でゆらゆらとゆれながら、美しい運動をする。そうした部分に宿る、運動の、生活の豊かさです。

しかし、かつてその海こそが、まさに毒の海であったわけです。そこにこの映画が、豊かな運動、声、風貌、身体を描き出す映画であると同時に、別種の映画としてのアクチュアリティを持つのだと思います。単に問題意識だけに、それは還元されません。それは、視覚的に作用するからです。

水俣病患者にも、いろいろとあります。胎児性と呼ばれる患者は、深い印象を残します。多くは重度の脳の障害をおっている子供たち、以前はいじめにもあっていたようですが、この映画が撮影された1970年当時になると、水俣病の認識は広まっており、人々は胎児性の患者たちを受け入れて生きています。

しかし、映画としてはそこに、一種の混乱が生じます。健常の人々、一見健常だが水俣病に犯され、手の震えを押さえられない人々、そして胎児性の患者たち。そこには回復の仕様が無く人間的な健常さが奪われてしまった跡、傷を、そこかしこに見つけることができるわけです。それから多くの死者の位牌、遺影。白い丸い灰皿の上に手をかざし、手で線を描きながら、こんな風に娘の脳の2/3の表面に黒い穴がたくさん開いていて、と語る母親の、淡々と語る声は時折遺影のカットと重なりながら、この豊かな世界から奪われたものを示すのです。患者や遺族が生きている、そこには確かな豊かさが、不知火の海とともにあるにもかかわらず、同時に絶対にぬぐえない傷も映っている、その傷も含めて生活になっているということを、観客は映画を見ながら見つめるのです(あるいは、そこに映画が見出されている、ともいえるのです。映画の危うい可能性、とも言えそうな気がします)。

以下は、映画をご覧になってからお読みください。素晴らしい傑作です。

※もうプログラム半ばを過ぎましたが…。8/18のプログラムは特にお勧めです。土本典昭不知火海」と小川紳介三里塚・辺田部落」の上映。ともに大傑作です。
胎児性の少年の一人は、カメラが向けられても、それが撮影をする道具だと理解できません。彼には、よくわからない機械にすぎない。機械をいじくるのが好きな彼は手を伸ばしカメラをいじくります。たいていの人間は、カメラは自分を映すと知っていますから、敢えてそれに視線をやったりはしませんし、そういう意味では不自然なまでにカメラを無視することで、カメラの存在を透明化しようとします。あるいは、撮されることを意識した上で、あえてカメラを見ます。しかしこの少年の、まったくカメラの機能を理解しようとしないからこそ、カメラに向けられたまなざしは、私たちが見たことの無いまなざし、見られることを感知しないまなざしなのです。それは、単に水俣病が残した傷ということではなく、視覚として、映画として、水俣病が傷として示される瞬間だと思います。そこには、映画を見ることの本質的な危うさへのアプローチも含まれていると思います。

もうひとつ、この映画において、映画を見る視線を危うくするのは、チッソという工場がそこにまだあることです。多くの人間を苦しみ、殺した公害企業ですが、その存在も、そこで働く人がおり、また企業が賠償責任を持つ以上逆に、そこにいてもらわなければならない存在です。不知火の海から、時折映し出される工場の姿。そこにも豊かな不知火の海の傷があり、そしてそれもまたぬぐえないものなのです。映画を見るものを安全な場所においておかない力がそこにはあります。チッソ工場は、豊かさを圧殺する権力が屹立する場所のようでもあります。企業も政府も、その責任を十全に果たそうとはせず、チッソの出した補償金の受け取りには、今後一切の補償金を要求しない旨が記載されている、政府の腰は重く患者の訴えを受け止めようとはしない、そうした実態も映画は描き出しています。

水俣 患者さんとその世界」は、弁護士たちに裁判軽視につながるからと止められても、なお敢行された、水俣病患者たちの一株運動を緩やかに出はありますが物語の基軸にして作られています。遂にチッソ株主総会に、多くの患者が乗り込みます。いかにも企業の経営者然とした人々が壇上に並び、「水俣病の患者たちにまず発言させろ」という叫びとは無縁に粛々と議事を進めていきます。やがて場内は混乱し、壇上には多くの人々が乗り込んでいきます。一時、混乱が収まり、遂に社長が水俣の患者たちに向けてメッセージを話すという。第一声が「水俣の患者さんたちにおかれましては、大変気の毒に思います」という言葉なのでした。どっという声にならない声が上がります。その怒りは、この映画の中で人々の生活を、その傷とともに見つめてきた観客には、鋭く突き刺さるものがあります。大混乱の中で、土本典昭は一つの声を拾い出します。といっても、その声は、最初はただの叫び声に過ぎません。しかし、繰り返されていくうちに、次第に、意味がわかってくる。訛った、女性の、枯れた声が、おそらくチッソの社長と思われる人物に叫んでいるのは、両親を水俣病に奪われた子供の気持ちをわかってくれ、という訴えなのです。

相手の顔をじっと見つめながら叫んでいたのでしょう。「笑うな!」と怒鳴ります。「笑うようなことは何もいってねぇ。」言われた社長(とおぼしき人物)は笑っていないと弁明しますし、スクリーンからは、それが笑い顔だとは判断できませんでした。しかし、少なくとも、水俣の患者たち、遺族たちの表情の豊かさはそこには無いのです。一人間として患者に向かっている顔だとは思えない、表情のない顔です。そこでは人間としての声が、うまく、人間であるはずの存在に響かない、届かないことを、観客は見るのだと思います。

私は、この映画には、とてもよい意味で「怒り」があると思っています。それは、どちらかが善で、どちらかが悪で、といった図式化されたものではなく、人間であろうとするものが、そうであろうとすることを貫くための「怒り」ですね。私は、この映画を見るたびに、その「怒り」をもらって帰っているように思っています。また、そうした映画は貴重だとも思っています。

(しかし、まっとうなことを言っているはずなのに、自分の感情の部分に作用する要素について語るのは、なぜか気恥ずかしいものではあります。逆に、酔いやすい部分でもあるでしょう。どちらにしても、気をつけないといけないですね。言った方がいいことは、言った方がいいし、とはいえ酔ってしまえば、その判断は曖昧に、独善的になるし。)

*1:マーガリンやショートニング食用油などに含まれる、体内で非常に代謝されづらい油分。マーガリンやショートニングを使用した食品、油で揚げたスナック菓子にも含まれる。心臓病や動脈硬化アレルギー性鼻炎アトピーを誘発すると言われ、認知症になりやすくなるとも言われる。