自分を疑う / クライング・ゲーム / DCPRG

BGM : Date Course Pertagon Royal Garden「Structure Et Force」

あれ、amazonで見つからない…。仕方がないのでP-vineのHPにリンクしておきます。

菊池成孔氏が結成したジャズ・ファンク・バンドDCPRG。2枚ほど、アルバムが手元にあったと思いますが、とても好きです。やはり、こうしたざらついた感触のものに心惹かれやすいというのはあると思います。夏に辛いもの的な熱さです。しかし、その辛みは、材料が特定できない、何か複雑な香辛料を、複雑な過程で作られている。最良のカレーライスのようです。

これは、どう演奏するか、に、どう編集するかがかなり強く作用していたと思います。ユーモアと自省。自省といっても、何か悪いことをしたと言うことではなくて、自らを省みるというだけなのですが、今日は、そんな日記になる予定です。

このところ、意識して政治や政局について発言していたのですけれど、するとキーワードに反応して、やはり政治や政局のことをブログで書いている方々が見に来ていてくれたりするわけです。私としても、どういう人がこんなブログを読んでくれているのだろうという興味はあって、リンク元を辿っていきます。そして行った先から、またリンク元を辿って、といった形で、別段、統計的な見方をしたわけではないのですが、いろいろな発言をかいま見ることが出来たのでした。

そこで、ちょっと思ったのが、「自分を疑うこと」の必要性です。いくつかのブログを読んでいると、マスメディアの情報を分析し、批判する、といった作業は、随所で見られるのですね。それは、とても健康的で、かつ有効なことだと思います。ただ、自戒も含めて、全般的に比較的欠けていると感じさせるのは、自己の価値基準に対する検証(あるいは自己の検証が無くても、論理を支えられるだけの自立的な論拠の明示)の部分なのですね。

たとえば私も先日来いろいろ書いている「郵政民営化」ですけれど、賛成、反対、部分的賛成(あるいは反対)、以上のどの態度を取るのであれ、まず事実関係を検証するところからスタートする、これは多くの場合、共通の認識として持たれています。当然双方にメリットとかデメリットが挙げられるわけです。そのメリットとデメリットを引き比べて、どちらに賛成するか、反対するか、訂正すべきならどういう点だと考え指摘していくか(民意の伝え方はいろいろですが)決めていくわけです(こうした手続きがないとしたら、それはもう、単にものを考えるのをやめてしまいましたと宣言しているような人で、ここではそのことについて述べる必要はないと感じますから割愛します)。

ただ、ここで問題となるのが、その引き比べる段階で、価値基準としての自分の感覚こそが宇田川いい可能性なわけです。人によって、項目を並べたときのその項目のとらえ方、感じ方が、かなり違っていて、それが大きなバイアスとなって、検証をしているつもりが、検証になっていないというケースがありうるのではないか。その場合、やはり自己への検証が足りていないのではないかと思うのですね。

郵政民営化反対の論理の主軸のひとつに「アメリカが圧力をかけているので、この民営化は日本の国益ではなく、アメリカの国益だ」といったものがあります。もし、郵政民営化がなされればアメリカの資本に代表される外資によって文字通り「食い物」にされるのではないか。350兆円という、郵貯簡保の旧契約分は公社に引き継がれることで維持される(ということを昨日知ったのでした。不見識だなぁ)ので、それがそのまま外資にいくということはないらしいのですが、しかし同時に、では今後の分はどうなるのだろう、大規模な市場が開放されることには変わりないなかで、日本国内にあるはずのお金が海外に流出していく可能性は残っているのではないか、という危惧は拭えないのでした*1。しかし、ここではそうした論議は脇に置いて、いくつかのブログを読みながら気になったことの指摘に留めると、「アメリカの圧力がかかっている」=「いやだ」「ろくでもない」といった感触の文章をいくつかみつけたのです。これはどうなのでしょう?現在の資本主義は国際市場があって成立しているのですから、結果的に日本人が潤うなら、別段アメリカの圧力だろうとアメリカも潤おうと良いものはよいわけです。また、そう考える人たちからは、外圧でも小さい政府が成立するならいいじゃないか、といった形で、反対の論拠だったものが、賛成の論拠にも成りかねないわけです。だから「アメリカの圧力」が何故悪いのかまで言わないといけないと感じます(もちろん、アメリカの圧力と一言書くだけで、日本が潤わないことまでわかる人にはわかると言う人もいるかもしれません。しかし、それをきちんと言うためには、やはりもう少し補助線がないとブレが生じるのではないかと考えます)。

もし、説得力を持って反対を述べていこうとするならば、こうした安易な嫌悪感を無防備に使ってはいけないのだと思います。それはすぐに逆手に取られてしまうわけですから。郵政民営化賛成の論拠にしてもそうです。特定郵便局の利権や、自民党族議員の利権構造が圧倒的に不愉快な人にとっては、郵政民営化の解体は改革の第一歩に見えるわけです。しかし、それは自民党の解体の第一歩としては正しいとしても、国民生活を良くする第一歩なのかどうか。例え族議員でも、日本国を豊かにし、国民生活の水準を高め、破綻をなくすならば、政治家としてはむしろ優秀かもしれないわけです(もちろん、これは空論で、実際には利権が結びつくと、多くの場合は不効率な運営になりやすく、やはり利権構造は解体しなければならないのですけれど…ただ今回の「郵政民営化」のような各論においては、族議員の方が正論を言っているケースも結構あったと思います)。

このように、自分の感覚を含めて疑って、検証することも大事だと思います。これは別に、感覚を否定しろと言うことではありません。むしろ、自分なりの感覚はやはり必要で、そうでないと、何をするにも膨大な分析をしなければ成らず、とても世の中を生きていけなくなってしまいます。ただ、感覚はブラッシュアップしていかなければいけないし、また、感覚を働かせても、それを人に伝える上ではやはり検証と、その上で伝えるための補助線が必要です(公開日記とはいえ、ブログは私的な場所だから、というスタンスの人には、これは届きづらい意見かもしれませんが…)。他者の意見や言葉を自分なりに再検討するだけではなくて、自分の視点それ自体を自己批判的にずらしたり、切り離してまったく別の視点から見つめ直したりし、考える習慣が、そこでは大切なのだと思います。

と、ここでニール・ジョーダン監督の「クライング・ゲーム」の話です。DVDで見ました。

IRAの兵士ファーガソンスティーヴン・レイ)は、仲間の解放を当局に求めるため英国黒人兵ジョディ(フォレスト・ウィテカー)を誘拐監禁するのですが、元来、優しい性格のファーガソンは、頭から袋を被せられ息すらろくに出来ないジョディに同情して、袋を取ってやったりして人間的に接するうちに仲良くなっていき、自分が処刑されると思いきわめているジョディから、彼が愛した女性ディル(ジェイ・デヴィッドソン)の話を遺言として聞かされます。

以下、たいへん重大なネタばれです。映画を見てからご覧下さい。

処刑を担当したファーガソンは、逃げ出したジョディを打つことが最後まで出来なかったのですが、追いかけっこの末ジョディは、仲間のイギリス兵の車両にひき殺されてしまい、同時刻、IRAファーガソンが属する一団もイギリス兵の急襲を受け壊滅状態になり、ファーガソンはそんな自分の立場に嫌気がさしたのか、ロンドンに渡って名も無き一労働者として働く道を選びます。

ジョディの遺言の通り、ファーガソンはディルに会いに行くのですが、出会った二人はどんどん引かれ逢っていき、やがて当然の成り行きでベッドインすることになる、ところがそこで、ディルが女性ホルモンを売ってだいぶ女性的ではあるにしても、実は男性である(ペニスもちゃんとある)ことがわかるのでした。IRAを抜け出したとはいえ、カソリックファーガソンにとっては、ペニスのあるニューハーフはかなり衝撃の相手だったと思われ、思わずディルを殴ってしまい、自らは便所で嘔吐してしまいます。

そこには、彼の生理的な拒絶があるのですが、と同時に、イギリス兵と人間的に通じ合ってしまう彼は、ディルとも、人間的に深く結ばれていて、その時点で既に愛してしまっているのでした。こうして、二人の愛の物語が、映画の後半展開していくわけです。

この映画は、ある意味理想主義的に、他者を受け入れることで愛とする一組のカップルの物語です。しかし他方で、それはロミオとジュリエット然と、別にわざわざロンドンのニューハーフと元IRAの闘士にしなくても良いことではあって、そこでは固有の、ある意味極端な恋愛が展開されもします。更に、二人の間にはジョディという黒人兵士が、一種の仲介役として(あるいはファーガスに欲望をバトンタッチする存在として)現れます。IRAの活動に再び巻き込まれたファーガソンが、ディルを救うためにジョディが残した服でディルを変装させるのですが、これはファーガソンとジョディが重なり合いながらディルを守ろうとしていると見えますし、またディルは一途にファーガソンを愛するのですが、他方でジョディも別格の存在であって、ファーガソンを守るためにIRAの女兵士を殺すのですが、それはジョディを誘惑した女兵士への復讐も同時に果たしています。そのように、関係性は複雑にリンクしながら、その意味を多様にしていきます。女兵士は、たびたびファーガソンを誘惑していますから、IRAの物語としてスタートしたこの映画は、ここにきてある意味恋愛のもつれ、三角(あるいは四角)関係の映画へと、その多様さの中でシフトしてきてしまうのでした。ただし視線や恋愛感情だけではなく、銃弾や幻想(逢ったこともない女性にあらかじめ惹かれてしまう、その上相手は女性ですらなかった)もそこではやり取りされているのです。

ここには、アイルランド紛争を巡る、埋めがたい二者の距離の物語を重ねていくことが出来るだけではなく、同時にその距離を、安易に対立軸にしておこうとはしない姿勢も見いだせるのだと思います。実際、ディルの女性性とファーガソン人間性は、向かい合う兵士たち(男たち)の殺し合いという基軸を完全に解体していると思うのです。ディルとファーガソンの心が通い合う(埋められないはずの距離が埋まる)のは、イギリスとアイルランドといった対立軸(裏返しとしての反戦ヒューマニズムも含めて)とはまったく別の経路を辿ってのことだからです。ファーガソンとジョディもそうですね。彼らが親しくなるのは、決してファーガソンがいわゆるヒューマニストとしての信念を持っていたからではなく、ジョディが人としてファーガソンに魅力的だったからだと思うのです。

ここには、映画内部における一種の自己批判的な論理の回路を見いだせると思います。それもとても優雅です。ベッドの周りを彩る薄いレースのカーテンごしに銃を撃つディルは、その身振りの優雅さによって、向かい合う二者の間にありうる別種の可能性を提示しているのです。

ファーガソンの愛情は、ディルの身代わりに警察に捕まるという形で表されます。警察と銃撃戦をしてもおかしくないようなフェイドアウトをしていながら、次のシーンでは刑務所にディルがファーガソンの面接に来て、ラブラブなトークをするのでした。これはかなりのユーモアです。とはいえ危ういユーモアであって、潜在的にはもっと悲劇的な物語であった(ありえた)ものが、そうではない選択肢を与えられたに過ぎないとも言えるかもしれません。ファーガソンは、映画の中で幾度も銃を撃つように示唆されていながら、自分を殺しに来た相手を返り討ちにするのすら、ディルが代わりにやってしまい(しかもその優雅さで、対立軸をずらしてしまい)、最初から最後まで一度も銃を撃ちません。それも綱渡り的な死の、無数の現実が背景にあるのです。だから、この映画のハッピーエンドは、違和感がついて回ります。しかし、そこにこそ顕著に自覚的な自己批判性/物語を受け入れないだけではなく、自ら物語を突き崩す姿勢を見いだせるのかもしれません。

*1:この一文は、いったん掲載後書き改めた部分です。当初は350兆円も外資に晒されるようなウルトラ市場主義をイメージしていましたから。350兆円という金額は、ちょっと魔力的ですよね。過敏に反応してしまう。まさしく自分を疑うべし、ですね(笑)。検証不足していたことを素直に反省しています。しかし他方、350兆円は保護されているから大丈夫、というのも少し安易な気がするのですが、いかがでしょう。現在ある350兆円は脇に置いても、外資が大規模参入をした場合、やはり大規模な外資への流出が起こる可能性を本当に回避できるのか。引き続き、勉強していかないといけないですね。