サマー・タイムマシン・ブルース / 大貫妙子

BGM : 大貫妙子「SUNSHOWER」

SUNSHOWER

SUNSHOWER

名盤です。坂本龍一が全曲アレンジ&ディレクション。もちろん演奏も。ベースで細野晴臣後藤次利、ギターで渡辺香津美、コーラスで山下達郎などなど、豪華なアルバムですね。T4の「都会」という曲がとてもとても好きです。「その日暮らしはやめて 家に帰ろう 一緒に」とか歌われると、何もかも捨てて帰りたくなります(笑)。大貫妙子が歌うと、すごく踊れそうな感じで演奏された曲でも、不思議に脱臼させられてしまうように思います。脱臼とは…決してずれているわけでもリズムを踏み外すわけでもないからなのですが…おかしくはないのに、リズムに乗せられてもいない、という感じでしょうか。そしてその脱臼が不快なのではなく、むしろ奇妙なスリリングさにもなっているのです。もし、単に大貫妙子の声に併せた音だけのアルバムだったら、こうはならないのではないか。

T2「くすりをたくさん」T3「何もいらない」T5「からっぽの椅子」T7「誰のために」あたりはポップソングとして素晴らしいし、T8「Silent Screamer」〜T9「Sargasso Sea」あたりは、いま聴いてもかなり尖った感触の気持ちのいい名曲で、トータルアルバムとして、とても楽しく聴くことが出来ます。

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(それが保守的であれ反保守であれ中道であれ、どこか類似した思考装置を通って算出された)「意味」が周囲に満ちていた時代、なにか統一した価値のようなものが社会から見出せた(見出そうとみながしていた)時代には、無意味な喧騒を繰り広げることが戦略的に有効であったし、おそらくそうした喧騒を戦略的に生み出していた人々は、選挙のような場における不自由さ、20歳を越え選挙権がある以上、それから自由になれるわけではない、ということに敏感だったろうと思うのです。自由になれない場所があることを察知しなければ、無意味に自由な喧騒など作り出せませんから。

しかし、「意味」がどこかなし崩しになってしまい、「印象」が曖昧に前面に押し出される現在では、選挙のような本来的には「意味」を問う場で、むしろ無意味な喧騒のほうが保守的な力を強く働かせ始める、と言う奇妙な逆転が起こるのでした。何故なら「意味」には文脈が必要ですが、「印象」は文脈をどれほどあいまいにしても許されるからです。むしろ無意味な喧噪を巻き起こす方が、「印象」は強められる。

サマータイムマシンブルース」では、タイムマシーンを使っても、結局世界は変わらない、決められたことだけが起こっているということを描いています。歴史を変えないための大騒ぎも、すべては約束された出来事の一部で、過去に繰り返し飛んでも、何一つ変えられない。そんな風に、すでにすべてが行われ、すべてがなされてしまった場所での喧騒は、寒々とした空虚さにつながっていってそれなりに面白いのですけれど、問題はそうした寒々しさが、寒々しさとして受容されない、むしろ正反対のように見える可能性(また作り手も正反対だと思っている可能性)で、同じ本広克行の監督作「踊る大捜査線 THE MOVIE」シリーズを見ていても、強くそのことは感じます。

とはいえ「サマータイムマシンブルース」は、完全に無意味になるよう装置として作られているので、時代的な違和感(今こうした喧騒が有効なのか)を除けば、まっとうな寒々しさに満ちています。しかし「踊る大捜査線 THE MOVIE」シリーズは、その無意味な喧騒の中に、単一の主張を放り込むことで、まったく別の装置を作り出します。一見、反権力のように見えますし、無意味な喧騒でいろどられているように見えるのですが、実は、ヒロイックな中心(青島)が、これまでの権力の中心とは別のところに求められていて、更にそれが旧来の権力構造の中心へとパイプを持つ(室井)という形で、旧来の装置にも通じながら、中心は一見違って見えても、それまでの権力装置とそうは変わらないものが結局は継続されていきます。旧来の権力=反対勢力がなければ、改革の幻想は描けないので、まるでアメリカがアルカイダを必要とするのと同じに、旧来型の権力を青島は必要としている、とも言えるでしょう。スリー・アミーゴスに代表される、旧勢力、旧権力の側の人間たちを貶めることも忘れません。そして、一見逆転に見える価値転倒や無意味な喧騒が、見た目だけは新しい保守的な構造を強める働きをしてしまうのです。もちろん、それはかなりばかばかしい出来事です。しかし「覚悟」とか「反骨新」とか、ロジックではない(そして実はむかしから無批判にある)ものがそこではふんだんに盛り込まれていて、ばかばかしい転倒した装置を曖昧なまま強引に機能させてしまうのでした。そして、多くの人々の気持ちを、ひとつの方向に掲揚していくのです。

まだ、そうした転倒を可能にし、現世の価値を無意味に切り替えても平然としている過程にあるものが「宗教」であったのなら、理解しやすいのですけれど。これでは、単に物語を楽しむ観客のレベルの問題になってしまいます。無意味な喧噪の背後にあるものを察知するか、それとも無条件に楽しんでしまうのか。「踊る大捜査線」シリーズは大ヒットしています。それは、ある意味マーケティング・リサーチの勝利なのかもしれません。そして「踊る大捜査線」シリーズの大ヒットに見いだせる日本は、たぶん現在の日本のある種の傾向を的確に指し示しているのだと思います。