爆音サーフの夜「DOGTOWN & Z-BOYS」/ Cassiber

BGM : Cassiber「Man Or Monkey」

Man Or Monkey

Man Or Monkey

爆音で聴きたい音楽、ということでカシーバーをセレクトしたのですが、深夜なので、実際は抑えめです。いくじなしです(笑)。

このアルバムはかなり好きです。ハイナー・ゲッベルス(キーボード)、アルフレート・ハルト(サックス)、クリス・カトラー(ドラム)、クリストフ・アンダース(ヴォーカル)という組み合わせです。血管が切れそうなテンションの高さと、それでいてどこまでも冷静さと知性を失わないまま相互に触発しあう緊張感。高度に達成された、対話的な…。

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爆音サーフの夜、またはクレイジー・サーフ・ナイトの上映作のひとつ、「DOGTOWN & Z-BOYS」を見てきました。サーフボードをスケボーに乗り換えた不良少年たちが、Z-BOYSというチームを作り、新しい、スピード感・躍動感溢れるスケボーのスタイルを作り出し、その新しい可能性を押し広げていくのですが、あっという間にビジネスの世界が少年たちをのみ込んで行き、チームが持っていた相互的に刺激しあい高めあう幸福な一時期を消し去り、チームがばらばらになっていくのを描いたドキュメンタリーです。チームの選手たちの証言や、単なる取材ではなく、チームを見出し、彼らを讃え、反逆児としての文脈を付与しながら独自の地位に押し上げたカリスマ的記者の証言、また記者らが残した写真や記録映像で構成されています。

DOGTOWN & Z-BOYS [DVD]

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ロサンゼルス、1970年代、海辺に残された唯一のスラムのヴェニス、DOGTOWNが舞台です。廃墟となった遊園地の影の、桟橋の柱が海面に林立するサーフスポットで、危険な、しかし最高のサーフィンを楽しんでいたサーファーたち。彼らはスラムの不良少年たちやその兄貴分だったのですが、卓越した技術を持つものだけが集まり、一つのチームとなって、その浜を牛耳っていました(そのサーフシーンは総じて素晴らしく、波に揺れる、海面に突き出たくいの間を、波という不定形な/完全にコントロールできるわけではないものを頼りにすり抜ける様は、視覚的に端的に示される、スポーツの枠を越えた、もっと鋭くざらついた感触の危険な遊戯なのです)。波がいいのは朝のうちだけだったため、チームのメンバーは次第に海辺の坂道をスケボーで滑るようになり、それが場所を変えて学校の脇、アスファルトの斜面でのスケボーとなり、その中でサーフィンを応用しつつ極限の追求、低い姿勢で鋭いターンを繰り返す、新しいスケボーのスタイルを作り出していきます。そして、更なる刺激的な場所を求め、干ばつとともにあらわれた空のプールを使って、現在のハーフパイプの元になったようなスケボーの新しい時代を切り開いていきます。

しかし、全国大会で、それまで直立不動で乗るものだったスケボーのスタイルをひっくり返したZ-BOYSは、スケボーブームとともに、大企業にスカウトされていきます。その結果、彼らはあっけなく分解していきます。そして、成功した人間もいる一方で、麻薬に溺れ才能を費やし零落したものもいる。そうした光と影、というと月並みですけれど、の、現実が描き出されるのでした。

正直なところ、爆音を楽しむという意味では、「クリスタル・ボイジャー」の圧倒的なパワーは無いのですけれど、それでもこの映画は爆音でなければならないのだとしたら、不良の、革命の、映画だからではないかと思います。つまりは、ロックンロールなのだろうと。樋口泰人氏のチラシの解説まま、ですけれど。

特にプールに場所を移してからのスケボーの新スタイルを通して、スピード、躍動感、危うさ、そして達成地点としての地面から切り離されたような一瞬の無重力感…不良少年たちは、それら運動によって、新しい生き物として生き始めているのでしょう。その生息圏は、不良少年たちが勝手に見出した、社会の隙間隙間に(空のプールや駐車場にもならない斜面に)で、見出すだけではなく、満たし、洗練し、サーフィンのチューブの中のような、どこからも切り離された自由な空間が、そこには出現していたのだとも思います。ある意味・解釈として、少年たちの運動を通して、世界に無理矢理捻出させる、それがスケボーの力だったのではないかと思うわけです。

ただ、その初期的なパワーは、やがて失われるものでもあるわけです。映画を見る限りでは、ストリートにおける、都市の内部に新たな運動を植え付けていくゲリラ的な反転は、とうに・既に終了してしまい、企業は新しい生き物たちを飼いならしていくのです。現在のスポーツ化されたスケボーの美しい達成とはやはり違う当時の暴力的なものは、元チームのメンバーによって、どうしてもノスタルジーとして騙られてしまっています。いや、おそらくは、商業化の波が押し寄せなかったとしても、彼らが大人になっていく過程で失われていったのではないか、と想像します。

では、新しい動物たちは生き延びられないのか。おそらく生き延びるためには、敢えて・ここに、生き延びられる状況を作り出すことが求められていて、その一つのあり方が「爆音」である、ということなのだと思います。これは、「DOGTOWN & Z-BOYS」という映画作品の価値やスケボーの可能性からは、ちょっと逸脱した、逃げた言い方ですけれど。(「クリスタル・ボイジャー」の場合は、作品自体が爆音をはなから求めていて、それに爆音が応えた、という感じです。「DOGTOWN & Z-BOYS」は、敢えて爆音で上映してみた作品だ、といえるでしょう。その差は、やはりあるのです)

音楽であれば、敢えて・ここで、なすべきこと、なし得ることは、比較的見えやすいのかもしれません。しかし、スケボーというスポーツはどうなのか。やはり、開拓期の奇蹟は、どうしても一時的なものになってしまうのかもしれません。もちろん他方で、現在のスケボーの最高到達点としてのスポーツ化は、別種の可能性として広がっていると思いますけれど。

とはいえ、日本ですら、路上を歩く限りにおいて、スケボーはストリートへの抜け道を確保してもいるようです。それを可能性としてみていいのか、希望的観測なのかどうかは、門外漢なのでよくわかりません。単なる、スポーツとしてのスケボーが現在謳歌する可能性から切り離された、趣味としてのスケボーだけが、散逸し、高見を目指すような集団的な運動はわき起こらず、やわなスタイルだけが生き延びている可能性もあるからです。それはスケボーに、というよりも、路上でストリートライブをしているミュージシャンたちに多く感じてしまうのですけれど。いや、それとて、やはり一面的な見方で、若くて才能のあるミュージシャンは、ちゃんと出てきているとも思いますし、実際知っても居ます。ただ、おそらく割合の問題もあるのです。Z-BOYZが貴重だったのは、彼らはスケボー人口が増える前から、卓越した才能と、それを高めあう環境を持ち、先へ先へと進み得た、幸福な時代を生きていたからです。しかし、強く凡庸さが覆う状況で、圧倒的多数の凡庸さに混じった一部の才を見いだせないほどに、凡庸さを甘受してしまい鈍ってしまったらどうなってしまうのか、という危惧です。

「爆音」で目覚める快楽。単に大きい音とかじゃなくて、爆音ですよ。(爆)ですから。もう、そりゃあ、(爆)ですって。そうですね、半年か一年に一度、あのぶるぶるする器具や、鋭い歯先を持った器具で、歯垢の掃除を歯医者でして貰うように、思考や嗜好や志向を、この機会に爆音で新たにすべしと言うことなのだと思います。凡庸さを、そぎ落とさないと。とても難しいですけれど。