フレデリック・ワイズマン「少年裁判所」/ Scanner

BGM : Scanner「Lauwarm Instrumentals」

Lauwarm Instrumentals

Lauwarm Instrumentals

初めて買ったScannerのアルバム。以下に公式HPがありました。

私は、踊る欲望が、リズムによって裏切られながら、パロディであり、かつ焦燥感になるような、このアルバムの音がとても好きです。

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なみおかシネマテーク所蔵の(つまりはなみおか映画祭のために購入された)フレデリック・ワイズマン監督作「少年裁判所」を見てきました。現在、アテネフランセ文化センターでは、山形国際ドキュメンタリー映画祭の前夜祭として、様々な関連作を一挙上映していますフレデリック・ワイズマンは、言わずもがなの世界的ドキュメンタリー映画作家ですね。

裁判所を舞台にしていますが、アメリカの裁判所と言ってイメージされる大陪審の裁判ではなく、少年裁判所は裁判官がある程度の裁量を持って事件を処理していく、未成年の矯正と保護を主眼とした裁判所のようで、したがって判決に至るまでの流れも比較的シンプルというか、幾度も裁判を重ねていくという感じではありません。比較的最近作の「ドメスティック・バイオレンス2」でも、同様に比較的裁判官の裁量の大きい家庭裁判所を舞台にしていました。大陪審の裁判にずっとついて、ワイズマンが描こうとする「組織」を浮かび上がらせようとするためには、大変な時間と経過が必要でしょうし、これは想像ですが、撮影の自由裁量がかなり制限されてしまう可能性もあるのかもしれません。その意味では、こうした簡易な裁判所のシステムの方がワイズマン的な素材ではあったのだろうと思います。また、それだけではなく、大陪審の裁判が、おそらく持つだろう非常に儀式的なほつれ目のなさにたいして、比較的ライトな少年裁判所や家庭裁判所は、様々な人々の飾らない相貌をカメラに納めていく上でうってつけだった、とも言えるのだと思います(以前、ワイズマン映画祭のパンフレットで、蓮實重彦氏がワイズマンの映画における人々の相貌について書いた一文があったのを思い出します)。

例によってワイズマンは、シビアな題材を取り上げながらも、それを社会問題としてクローズアップする意思を持っていないようです。少年少女の犯罪問題を解決するためのシステムが「組織」としてどうなっているか、ということをつぶさに追いかけてはいるものの、少年犯罪問題の解決がどうあるべきか、といった主張はなされませんし、現状の問題点を「組織」の外部から批判的に検証しようともしません。ただひたすら、その「組織」がどう機能しているかを映像と音声の断片を構築していくことを通して解き明かしていき、「組織」それ自体を思考するという方向をワイズマンは選びます。それはリアルさと言うよりは、再構築されたフィクション=思考です(なぜなら、リアルな現実では、「組織」はこれほど明確な機能を、目の前にさらすことはないからです)。場合によっては本来あったはずの混乱をどこかで排してまで、映画においては「組織」を機能させているかもしれません。ですから、見ようによっては、これはワイズマンによる<少年裁判所>の理念的な設計図・機能解説書のようなものなのだと思います。

しかし、他方で、そこで実際に登場する、裁定を待つ少年や少女は、実際に問題を抱えた、実在の人間で、その意味ではこの理念の装置は、生身の人間を乗せていることにおいて特異です。ワイズマンは「組織」の機能を浮かび上がらせるために、非常にスマートに映像と音声を構成し、システムの機能こそを浮かび上がらせはしますけれど、それは決して実際それ自体から切り離されているのではなく、現実の人々が絶えずそこには含まれているのです。むしろすべてが再構築されなければ伝達できないという大原則において、その組織自体を思考する徹底が結果的にフィクションとしか言いようのないスマートさに昇華されていくのは、むしろ現実に対して最大の謙虚さの発揮である、とも言えるのかもしれません。と同時に、フィクション=思考としての純化と、人々の相貌の、相克をそこに見ることも出来るのだと思います。まるで彼らは、俳優のように、正しいタイミングで正しく、時に夫婦漫才のような掛け合いを平然と裁判官の前で演じたり(「ドメスティック・バイオレンス2」)、お役所の待合室で唐突に歌い出したりすら(「福祉」)するのです。

ところで、ではフィクションではなく現実をフィルムに移植することは出来ないのか、というと、ただカメラを対象に向けて回し続けるという方法が、有効な方法として想起され、それは決して(ある意味では)間違ってないのですが、しかし万能ではない、むしろそれこそが幻想である、といえます。そもそも、カメラの何百分の1も何千分の1も忍耐力のない私たち人間の、瞳の前の現実は、様々な余所見やわき見、注視と弛緩の繰り返しで成立しているのです。しかし、カメラはそうしたことなく、ただ見つめることが出来るわけで、としたら、長回しのなかに観客は、「カメラの過剰さ」をこそ見ているとすら言えるのです。そのことは、極端な例としてのアンディ・ウォホールの「マンハッタン」などを思い出せば、別段新たに整理し直すべきことでもないはずです。

このことは、ワイズマン的な編集・構築によるフィクションに対する対立概念としての長回し、ということを確認するために言い出したのではありません。むしろ、ワイズマンの作品の内部にある、長回しに、ここでは注視したいと思います。1台のカメラ、1本のマイクという基本的なワイズマンの撮影手法のなか必然的に現れる、人々に向けられたカメラの長回しにが示す、そこで起こっている真実を、実際に生きている人々の持つ力が、ワイズマンのフィクション=思考との相克をもっとも決定付けるからです。

以下、ネタばれです。

まだ小学6年の少女が、補導され、売春の疑いもあって、監督能力の無い実の母親の元においておくことは出来ない、というエピソードがあり、また重大な罪を犯した少年が、もはや少年裁判所の範疇ではないとして刑事裁判所に差し戻されるエピソードがあります。チャイルド・チャレンジという聖書を読んで神に目覚めることで更正させようというグループがあり、売春を繰り返す少女にあつく更正を訴える係があり、一時的に監督する預け入れ家族の元から、盗みを働いたために追い出される少年も出てきます。そして、刑事裁判所に送られれば20年の罪になりかねないところで、少年裁判所で裁かれたために施設に送られるだけですんだ、強盗犯の逃亡を手伝った少年も出てきます(ここだけ、カメラが2台あったようで、スリリングな切り替えしが行われています)。これら、それぞれのケースは、少年裁判所に来る人々がどういう人々か、というだけではなく、そこを経由してどこへ行くか、という様々なケーススタディをそれぞれのエピソードが示す形で構成されます。「少年裁判所」という組織のユニークさは、そこが裁定の場であるとしても、実は結論を出す場ではなく、主に更正を目指す以上、その場所をどう経由するかが問われる、言ってしまえば中間地点的な「組織」なのです。

ですから機能について思考される際には、「組織」の役割の範疇が、たとえば年齢(18歳まで…ただし共犯者が18歳以上で、犯罪が深刻な場合は、刑事裁判所に行かざるを得ないケースもあるらしい)、あるいは権限(犯罪立証・検証の場所ではない)といったことが絶えず問われます。多くは、それは筋道の通ったものです。とはいえ、映画の中で学校の教師に反抗してブラジャーを拒否した女生徒が、少年裁判所の面談まで持たされてしまうときに、年齢によって縛られ、無意味なルールでも子供のうちは大人の言うままに従わなければならないのか、と裁判所の女史に問い、女史が、そうだと肯定する瞬間に、この映画の「少年裁判所」という「組織」は危うく揺らぎもするのでした。それは、その「組織」自体の質的な揺らぎであり、「組織」を思考することで必然的に見出されたものだといえます。つまり、18歳、という青年と未成年をわける年齢、あるいは17歳という卒業の年齢は、それ自体は無意味なのです。そう、ただ便宜上定められているだけなのですね。そしてその根拠無き組織の権限範囲が、映画のラストでは、一人の少年の運命を服役20年と少年院送り数ヶ月の間で分かつのです。

「少年裁判所」という「組織」を思考することで、それの、危うさ(無根拠性・境界のあいまいさ)にも触れてしまい、しかし、そうであれ機能することを明確にしていく、と、ここにワイズマンのこの映画における固有の問題があるように思います。ワイズマンは、同一の手法で、「組織」をフィクションとして思考することを繰り返しながら、しかし、それぞれの対象によって、別種の「映画」を見出していくのではないか、と思います。その意味でつまりワイズマンの映画は、やはりもっとも謙虚な意味でドキュメンタリーなのかもしれません。対象が徹底して「映画」を規定していくのならば、ですね。

たとえば「BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界」であれば、やはり最後には、達成としての舞台に、映画は向かっていくでしょうし、「肉」であれば、気づけばホラーであり、西部劇でもあるという、奇妙な場所に映画を連れて行ってしまうのです。