チャーリーとチョコレート工場 / Dos Tracks

BGM : Dos Tracks(Atom Heart)「 :) 」

いや、本当に、ふざけた顔文字のアルバム名なのですよ(笑)。T1「Waiting For The Host」は、アナログのプロバイダ接続音が、やがてノイズへと変わっていくオープニングから、ノイジーな電子音のエレクトロで、力の抜けたユーモアを感じさせる、でもごりごり電子音って作品です。可愛いですが、いま聴くと、あまり盛り上がれないのは何故だろう?悪くはないのですけれど。「時代的」なものかなぁ。

 ※

ティム・バートンの最新作「チャーリーとチョコレート工場」を見てきました。1964年に書かれたロアルド・ダールの「チョコレート工場の秘密」を原作として、全体のビジュアルイメージから、原作が書かれた1960年代を舞台にした映画なのかと思い見に行ったところ、まったくそんなことは無く、テレビゲームを操る現代っ子も登場するなど、しっかり現代の映画なのです。しかし、それでいてぬぐえない、全体的な1960年代かそれ以前のビジュアルイメージは、ティム・バートンの世界自体が内包する、時間的混乱の症候であり、「知られぬ人」について書いたときに示したように、恐らくそこにはアメリカ映画における記憶という問題も深く関わっているでしょう。「猿の惑星」をリメイクした監督であり「エド・ウッド」の監督です。また、全体のビジュアルイメージと時代性の乖離、という意味では「知られぬ人」でも取り上げた「シザーハンズ」を思い出してもいいはずです。往年の吸血鬼俳優クリストファー・リーが歯医者、という設定も、映画と記憶の問題といえそうです(ある意味では、もっとも怖い歯医者ですが、虫歯を憎み、歯を大切にしているという点では、信頼にたる歯医者かもしれません)。

チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

エド・ウッド [DVD]

エド・ウッド [DVD]

PLANET OF THE APES 猿の惑星 [DVD]

PLANET OF THE APES 猿の惑星 [DVD]

吸血鬼ドラキュラ [DVD]

吸血鬼ドラキュラ [DVD]

以下、ネタばれです。

ところで「チャーリーとチョコレート工場」における特異な、奇妙な場所は、ジョニー・デップ=ウィリー・ウォンカのいるチョコレート工場だけではありません。チャーリー少年の住む家もかなり奇妙な場所だといえるでしょう。町外れにあり、立っているのが不思議なくらいに傾いた一軒家のイメージ。それ自体がファンタジーだと言えるからです。2組の老人夫婦が向かい合って一つベッドに横たわっている描写は、とてもキュートなのですが、皮肉屋だったり予言屋だったり少年に希望を与えたりするその老人たちは、魔法使いや魔女が姿を変えて現れているとも言えそうです。従って、工場のエレベーターが、町外れのチャーリーの家と、エレベーターによって乱暴に連結されてしまうシーンは重要です。さらに、映画のエンディングでは、チャーリーの家はチョコレート工場の中にあることになっています。ウォンカに、チョコレート工場を選ぶか家族を選ぶか、と問われたチャーリーは、家族を選ぶわけですけれど、貧しくとも子供思いな母親・父親、人生の豊かさを心の豊かさとして説く4人の老人たちの住むその家こそが、絶滅寸前のファンタジーだとして、工場と本質的に同じ場所にあるのだとしたら、この映画のハッピーエンドは、寒々としたフェイクとしてみることも可能になるでしょう。工場の中に移されたチャーリーのぼろぼろの家(それは当然建て直してはいけないものなのです)の屋根には、恐らくは砂糖菓子の粉雪が降り積もっています。

この視点から、チャーリーと一緒に工場に招かれた4人の少年少女が、それぞれの強欲によって身を滅ぼし、工場の外に何一つ得ることなく放り出される様子も、別の意味合いを持って見えてくる気がします。少年少女たちは、確かにひどい目にあっています。しかし、といってティム・バートンはそれを揶揄しても、改心を求めてはいません。ただ工場の外に排斥してしまうだけです。しかし、もしかしたら、本当に「町外れ」に置かれたのは、チャーリーの家と工場であり、4人の少年と少女のその後はともかくとして、実際には彼らが代表する世界が、彼らを取り囲むことに違いは無いわけでした。

しかし、それ自体に意味は無いチョコレートなどのお菓子は、それでも世界に供出し続けられていく、というところに工場の主であるウォンカと、そのパートナーであるチャーリーに残された可能性はあって、それは容易に映画作家ティム・バートンの仕事として置き換えられそうな気がします。

さて、工場とチャーリーの家が、同じく、社会の外=町外れにあるとして、この映画にはもう一つ、強制的に町外れに飛ばされてしまったものがあります。それはウォンカの父親(クリストファー・リー)の家です。少年時代のウォンカが、厳格な歯科医の父(クリストファー・リー)を嫌って、菓子職人となるため家出、しかし子供ゆえにどこにもいけずに戻ると、父も家も、アパートごと丸々どこかに消えうせてしまっています。チャーリーに家族の大切さを教えられたウォンカは、映画のラスト、やはり例のエレベーターで、その父親のいる建物へと向かいます。つまり、そこは連結されているのですが、なぜかその建物は、霧の中にぽつんと立っている。その説明はなされないのですが、ウォンカが自信の記憶に対して見せるナイーブさも含めて考えると、それは一種の墓参りのようなものだと言えるのかもしれません。クリストファー・リーのいる場所は、つまり記憶と死の世界であります。家族=父親は、ウォンカを愛していた(はずだ)、と事後的にチャーリーに教えられた、その幻想が、クリストファー・リーとの和解のシーンだったのかもしれないと思うわけです。

もちろん、それは見方のひとつであって、決め付けてしまうのもつまらないわけですが、少なくともウォンカは、再会した父と暮らすのではなく、映画の最後、チャーリーの家族の一員になっていることも見逃せません。

もちろん、前述のようにクリストファー・リーという俳優それ自体が持つ歴史も含めて、墓場のような場所での、ウォンカと父親の再会は、チャーリーの家、チョコレート工場が、工場から排除された4人の少年少女の属する町=社会ではなく、どこに連なる場所であるのかを、明らかにしているのだと思います。その水脈の遠い向こうに、たとえばトッド・ブラウニングの「フリークス」や「知られぬ人」があるのです。それが、どれほど「ビッグ・フィッシュ」的なフェイクな歴史のイメージだとしても。