ゲダリア・タザルテス / ホラー・エクスプレス ゾンビ特急"地獄"行

BGM : ゲダリア・タザルテス「Diasporas / Tazartes」(2 in 1)

Locus SolusのHPによると、「フランスの流浪の音響作家。テープ・ループ/カットアップ/コラージュとヴォイスで、野蛮で崇高で原始的で神秘的な音響交響楽を紡ぎ出す孤高の異才。」とのことです。外国語の歌を聴きながら、でたらめに、音だけを適当に声(というか叫び)に置き直して、歌っているような感じのヴォイスがすごく楽しく、また、何かの呪いのように、そのは以後で流れ続ける奇妙なループミュージックも素敵で、宗教的な祈りのようでもあるけれど、そのパロディのようでもあり、不思議なのです。神秘的という紹介も理解できますが、それは信仰において「神秘的」なのではなく、その確信において「神秘的」(なんの根拠で、これを行うのか理解できないが、実際に行われてみると、力ある行為になっている)。しかし、何故突然、トイピアノを使った、タンゴ曲が出てくるんだ(T4「Quasimdo Tango」)?流れが理解できない。でも、そのぶつ切れ感が、どこか映画のサウンドトラックを思わせる、奇妙な面白さもあります。振幅の幅の面白さというか。

「チャーリーとチョコレート工場」を見る前に、予習として、ユージニオ・マーティン監督作「ホラー・エクスプレス ゾンビ特急"地獄"行」を見たのでした。クリストファー・リーピーター・カッシング主演です。ミイラあり、ゾンビあり、悪魔あり、宇宙人あり、推理あり、サブストーリーで女スパイあり(しかしほとんど意味は無い)、コサックの一団が突然乗り込んできて犯人探しを開始するアクションシーンあり(これが意外に冴えている。とくにテリー・サヴァラスがナイフを敵に投げつけるシーンのかっこよさ。ユージニオ・マーティンはマカロニウエスタンの監督でもあるようです)で、だったらラブロマンスも盛り込めばと思って見ていると、突然悪魔崇拝に転んでしまう新婦が実は使える貴族の妻を愛していたことがわかるなど、シベリアの大地を突き進む特急列車の中で繰り広げられる、悪乗りとしか思えないてんこ盛り映画です。

ある意味で、むちゃくちゃな設定ではあるのですが、しかしこれだけの要素を盛り込めば、話のまとまりなどつかないことは恐らく作り手も承知していると思うのです。しかもクリストファー・リーピーター・カッシングという豪華ホラー俳優の競演させるのですが、それとて大した意味はなく、というのも二人は別に対決などしないし、一人でも出来る推理や探索を、二人でしているだけという感触が否めないからですが、そのようにしてただでさえ多い登場人物をさらに増やしただけだとすら感じられるのです。テリー・サヴァラス率いるコサック隊も、狭い空間にどやどやと大量に乗り込んできて、設定だけではなく、登場人物の顔ぶれもまた、無意味にてんこ盛りです。

つまり、最初から混乱は約束された状態で、それをどう映画としてまとめ裁ききるかという自虐的な試み(笑)とすら思えるのですけれど、その観点で言えば、この映画は必然的にこれしか終わらせ方はないだろうというラスト含めて、見事に自らに課した苦行をやりぬいています。しかも、その合間に、脳手術に代表されるグロテスクな描写もちゃっかり入れ込み、ミイラだかゾンビだかが、頭蓋骨をパカパカと無意味に開け閉めするシーンが挟まるなど、更なる脱線も繰り広げられます。

では、なぜこのような苦行がなされなければならなかったのか、その欲望の正体は何か、ということが気になるわけですが、これはよくわかりません(笑)。要素の順列組み合わせによる差別化というには、明らかにやりすぎです。ホラー映画の、様々な記号が堆積した山が、ただ目の前にあるから登ってしまったということかもしれません。それも、いかにもゴシックホラーの演出で、真正面から登るわけです。すると、これ以上はもういけない、黒沢清監督の言う「ゴシックホラーの臨界点」(この作品のDVDに寄せたコメントにあるのですが)が見えてきます。映画として優れているかどうかはともかく(いや、大変面白い映画なのですが)、映画史においてこの映画が何らかの意味を持つとしたら、そのふもとに、適度に調整された、突き抜けられないホラー映画を数多く擁していることかもしれません。しかし結局は、引き返せない山の頂に向かっていった「ホラー・エクスプレス…」の前に、それらは敗れて行かざるを得ないわけです。もちろん、その山にそもそも登る必要があったのか、という疑問は残り続けるわけですけれど。

「ホラー・エクスプレス」の山に、果敢にチャレンジし続ける稀有の映画作家ピーター・ジャクソンである、という言い方はどうでしょう?「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズなど、まさしく登頂不能な山(「指輪物語」の世界)を征服するという倒錯的な喜びが、絶えずその内側に孕まれていたように思えるのです。ほら、こんなものを映像化してしまったよ、という堂々たる倒錯、ですね。そして、次回作は「キング・コング」であるわけです。偽ドキュメンタリー「光と闇の伝説 コリン・マッケンジー」という作品も忘れてはいけないですね。重要なのは、偽ドキュメンタリーとしてしれっと嘘をついている箇所ではありません。その嘘で作られた、存在しない映画監督が撮ったとされる映画の断片が、まさしく「イントレランス」級の巨大なサイレント映画に「見えてしまう」その妄想が「真実」になる瞬間なのです。