[music][diary] 岡崎乾二郎 / チーズ・タルト・石鹸 / WrK

BGM : Toshiya Tsunoda, Hiroyuki Iida, Jio Shimizu, m/s「WrK」

耳鳴りみたいな電子音が微妙なうねりとノイズを帯びながらうねうねと続くT1(Toshiya Tsunoda)から、ひたすら気持ち良いです。機械で、複数のパターンを音にし、同時に鳴らし、ずれていくその時間を、ただただ聞く、という行為が、脳に与える原始的な力強さ。人間の脳は、こうした音からも快楽を生み出すことが出来るのだなぁと思うのでした。更に、この音の「装置」に目を向けると、それはとたんに/同時に知も含めた楽しさとなります。ステレオで、右左の音のずれが生み出すうねりを、正確に聞くために2つのスピーカーの中央にたって、正面を向いてまず聞き、更にその身体を左右に動かすと、それだけで別のうねりの可能性が生まれ、つまり、このCDを繰り返しかけても、ただの一度も同じ音を聞いてはいない(ステレオの音源であるならば、おそらくどれであれ、原理的にそれは起こっており、厳密にはステレオでなくても起こっている)と言うことが、仕組みの単純さ故に改めて認識できるわけです。単純な装置故に、無数の揺らぎの中にある、という感触の楽しさ。と、可能性。

フィルムセンターの成瀬巳喜男上映が、満席で行く場所に困り、そういえば古谷利裕氏の日記で、岡崎乾二郎展が開催中(10/8まで)という記事を読み、調べたらフィルムセンターのすぐ裏手でやっていたのを思い出して、急きょのぞきに行ったのでした。

と、こんな風に書いてしまうくらい、私にとって、絵画を見るということは、映画と比べ優先順位が低く、我ながらよろしくなく(というのも、映画ばかり見続けるのが知性に結びつくとは到底思えないから)、実際見ると、面白くて、たった数点の展示なのに、30分くらいはじっくり見ていて愉しい。だから、これはやはり、怠惰であるということなのです。

今の子供もするのでしょうか、私は子供の頃、木工ボンドを窓に塗り、形を整え、その上にマジックで色を塗って、まるで絵がプリントしてあるグミのようなものを作る遊びがあって、不器用な私はまったく不得手で、色付ナメクジみたいなものを作るのが精一杯だったのですが、凝り性の友人は、車とか、きちんと具体物を作っていました。木工ボンドは乾くと透明になるし、ガラスにはりつけたものは、比較的容易にはがれるし、学校の授業で余った分があるし、遊びやすかったのです。まあ、それと一緒にしてはいけないのですが、岡崎氏の絵は、絵の具がニスで固められ、キャンバスにはりつけられたような状態になっている部分があって(いや、そういう手順で書かれたわけでもなさそうなのですが…、そう見える)思い出されるのです。

いや、こうして子供の遊びとかに結び付けて語るのこそ、悪しきことですね(笑)。カラフルで、ポップでかわいくて、というのも事実なのですけれど、キャンバスの地が、かなりの面積を占めていて、その何も書かれていない場所(しかし、キャンバスの風合いが存在してもいる場所)のもつ力とか、単に、直感的なかわいらしさやポップさによって作り出せるものでないと思いますし、また、大きいキャンパスとその1/4くらいのサイズの絵が連作となっているのですが、大きい絵のモチーフの一部を、小さい絵にサイズを変えずに移植し(色は変わる)、しかし当然、サイズが小さい分、すべてを移植は出来ないから、いくつかのモチーフを選択し、別の配列で並べなおしていくわけです。「要約」という言い方が適切か不適切かは判りませんが、ともあれ、小さい絵は、大きい絵を参照しています(あるいは、大きい絵が小さい絵のモチーフを派生させている?またはその両方で、双方向の参照関係が見つけられる)。と同時に、そのモチーフの組み合わせ、色合いの変化、タッチの変化から、当然別種のものともなり、二者を並べてみると、片方のモチーフがもう片方のデジャブのようでありながら、同一にもならない、緊張感のある関係を保っているのでした。

と、岡崎乾二郎展を思い出していたら、そのカラフルな色合いの連想ゲームで、昨日しでかした間違いを思い出しました。渋谷のシネ・アミューズのあるビルと並びにある、新しく出来た石鹸屋さんに、チーズとタルトのお店だと思って間違ってはいってしまったのです。あの、色とりどりのおいしそうな石鹸。なお、この連想ゲームは、古谷利裕氏の岡崎乾二郎展評の影響を強く受けています。

さらに連想ゲームで、なぜチーズ&タルト屋だと思って、いさんではいってしまったかというと、まずタルトはキルフェボンの銀座店でこの間食べたマンゴータルトがかなり美味しくて、タルト熱が再び高まっていたのと、チーズは、神楽坂で見つけたチーズ専門店アルバージュで買ったチーズが、フレッシュも、ハードも、ブルーチーズも、めちゃくちゃ美味で幸せだったからで、その食の記憶が、ついふらふらと、石鹸屋に私を引っ張り込んだわけです。

恐らく、こうした、間違いも含めた欲望のうごめきは大切です。そうして、新しい発見をするわけです。しかし、石鹸は、我が家の薬用石鹸ミューズがまだ残っているので、少し買いたい欲も動いたのですが、我慢したのでした。