クレールの刺繍 / Giacinto Scelsi

BGM : Giacinto Scelsi: Chamber Works for Flute & Piano

シェルシ:フルートとピアノのための室内楽作品集

シェルシ:フルートとピアノのための室内楽作品集

最晩年のジャチント・シェルシ自身のピアノと、カリン・リヴィンのフルートによる、シュルシ最晩年の録音「クリシュナとラーダ」が収録されているとのことですが、例によって試聴して気に入って購入し、何回か聴いてきたものの、ではジャチント・シェルシとは何ものか、ということを調べようともしてこなかったため、何でアルバムの最後に入っているこの3分強の曲だけがこんなに音質が悪いのだろうとか、ろくに考えもせずに聴いてきたのでした。しかし、この曲、確かになにかひどく残る物があります。無辺の境地をさまよう(といって、どこかに行き着くことは最初から期待されていない)ような、霧の仲で足下も見えず、どこにもたどり着けないような感触。湿度や、温度、足下の地面の感触だけはわずかに・明確に残っている、というような…。あとは、主にカリン・リヴィンのフルートを中心にした1950年代のシェルシの楽曲が収録されています。アルバム全体、結構好きですね。

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ロベール・ブレッソンが…とか言い出すのは、いささか例として極端だとしても、とまれ手仕事というのは映画において、魅力的な存在です。手は、人体の中で、もっとも繊細な運動を可能にする部位ですし、映画(映像)というイメージ=運動を特徴としたもののなかで輝くのは当然だと言えましょう。ゴダールが…とか持ち出すと、またあれですが、ゴダールの映画、ぱっと思い出すのは「ヌーヴェルヴァーグ」ですが、結ばれた手と手の接続が生む力は、たとえば男女のキスが生む限定性・周囲に強く物語を算出していくのとは違う、制約的ではなく、決して簡単には物語化できない強いイメージ、映画的可能性を持っています。

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クレールの刺繍」は、まさにタイトル通り「手作業」の映画です。たいして好きでもいない男との間で望まぬ妊娠をしてしまい、匿名出産*1で親権を手放すつもりの妊娠五ヵ月半の少女クレール(ローラ・ネマルク)は、膨らんでいくおなかを隠しようもなく、スーパーのレジの仕事を休んで、腕を磨いてきた刺繍の仕事をしたいと、以前教わった教師の元を訪れ、雇ってほしいと頼みます。刺繍の師匠であるメリキアン夫人(アリアンヌ・アスカリッド)は、パリの有名デザイナーからも発注を受ける卓越した技術を持っているのですが、交通事故で息子をなくしたばかりであり、精神的に不安定な状況にありました。そうした二人が、刺繍という作業を通して、次第に心を近づけていく様子が描かれた映画だ、とまずは言えます。しかし、この映画の鋭敏な手の働きは、刺繍という作業でいやおうなしにまずクローズアップされながら、同時に、それ以外の様々なシーンで見出すことが出来ます。

たとえば、クレールが、刺繍の作業の丁寧な手作業とは正反対に、どこか思い切りのいい仕草でキャベツを根から切り取るナイフの動き。無口な人たちばかりのこの映画では、そうした作業のひとつひとつこそが、映画を推し進める力となっていて、働く、手紙を書く、食事を作る、そうしたひとつひとつの手作業のなかに、美しく繊細な刺繍作りの作業が織り込まれるという形になっているのです。

刺繍は、布に、視覚的な魅力だけではなく、「手触り」を作る作業だ、と言えるでしょう。メリキアン夫人が、クレールからもらったスパンコールに、一瞬手を滑らせ、刺繍された箇所を指先でなでるシーンは、とても印象的なのですが、彼女はただ、「見て」気に入ったのではなく「触って」、そのスパンコールを受け取ったのです。そのシーンと呼応するのが、メリキアン夫人の息子と一緒に事故を起こし、一人生き延びたギョームの顔のひどいかさぶたを、メリキアン夫人がそっとなでるシーンです。死んだ息子の残したバイクを、ギョーム(トマ・ラロプ。お気に入りです。美青年)に譲るメリキアン夫人は、自殺未遂なども起こすわけですが、そのなかでも次第に回復していきます。死んだ息子と重なる青年につっと触る、その手の「手触り」が、メリキアン夫人が息子の死を乗り越えて回復していく過程において、とても大事だったことは間違いないと思うのです。といって、ギョームが失われた息子の替わりになるわけではありません。ただ、そうした「手触り」が、人間同士の関係性として、淡くとも存在することで、人は回復していけるのではないか、と言うことです。

以下、ネタばれです。

自殺未遂をしたメリキアン夫人のところに、拒絶されながらも見舞いに赴くクレールは、ギョームに共に来てもらいます。彼を連れて行き、あわせてメリキアン夫人お化粧道具と服を差し入れます。そのクレールの気遣いは、田舎町にあってもおしゃれなメリキアン夫人にはとても大事なことだったはずです。化粧と刺繍との親近性も指摘しておくべきでしょう。そして装ったメリキアン夫人が、息子であり、異性でもある、若い男性の隣に座り、そのときは顔の傷ではなく、確かギョームの手に手を重ねるのでした。その「手触り」も、婦人の回復の重要なステップの一つだったのではないかと思います(単にクレールとの擬似的な親子関係や、妊娠をしていて他に頼るすべのないクレールへの同情だけではないのです)。

そのとき、どこか居心地の悪そうなクレールは、ちょっと離れて立ち、自販機か何かで買い物をしています。その微妙な三者の関係は、クレールが親友の兄であるギョームのことを前から好きだった(と思われる)からで、見舞い帰りの車の中で、ギョームがクレールの首筋に手を伸ばし、手を当てるときの男女の緊張感もまた、「手触り」が作り出す淡い人間関係の一つです。しかし、淡くともそこには心地よい可能性が予感されています(この一連のシーンの、クレールの節目の瞳が素晴らしくて、絵画のようなのです。整った顔立ちではありません。ちょっとかわいい、というくらいなのです。ただ、この節目だけは、素晴らしく形がいい。ローラ・ネマルクは、そのために選ばれたのかと思えるほどです)。

クレールとメリキアン夫人を結び付けていくのは、「手触り」ではなき手「手作業」の響きあいだと感じます。映画の最後に、共に一つの刺繍を完成させるべく、無言で作業にいそしんでいる二人の姿は、深い信頼によって結ばれたパートナーと見えます。それは直接的な接触以上に、深い結びつきかもしれませんし、作品を通して、実際に触れ合っているとすら言えるのかもしれません。前述のスパンコールの刺繍をメリキアン夫人が触るシーンでは、クレールの「手作業」のあとを触っている、という言い方もできるからです。

ギョームも心に傷を負った一人です。友人の死を自責しているギョームは、仕事をやめ、海外に出ることで自分を切り替えようとしていたのかもしれません。その中で、クレールにだけ見せる彼の柔らかさは、彼もまた、「手作業」「手触り」の人間として、メリキアン夫人とクレールの輪に加わっているからだと思います。釣りをし、農業をして、海外に行くまでの期間を過ごすギョームは、お別れパーティの席すらぷいとはなれ、魚釣りへ行ってしまいます。後をおってきたクレールは、魚を釣っているギョームの脇に座ります。吊り上げた魚の腹を手のひらでなでたギョームは、その魚を逃します。その手作業の大写しは、刺繍に打ち込む女性二人の手作業とは異なる強さがあります。

逃がしたのは子供を孕んでいるから、という理由を聞いて、クレールはその場を急に逃げ出します。匿名出産をしようとしている自分の中にある揺らぎ、子供を捨てることへの戸惑いが、そうさせたのだと思われます。その感情の暴発がきっかけとなって、クレールとギョームは結ばれるわけですが、「手作業」の響きあいと「手触り」をめぐる複数の手の運動があって、その結果、結ばれていく男女を、この映画では見出すことが出来ます。

そういえば、ギョームとクレールが久しぶりに再会をするシーンでギョームは、やや乱暴にジャガイモの皮を剥きながら、魚の餌を作っていたのでした。ギョームもまた農家の息子です。家庭内には他にも必要な手作業がいくつもあります。ギョームの母は、手馴れた感じでうなぎの皮を剥き、クレールは、ギョームの父と共に胡桃を砕いて、食事の準備をするのでした。そこには、平穏な時間が流れているのです。

逆に、この映画では、視線はどこか無意味です。娘が大きな腹をさらしているのを目の前にしながら、妊娠に気づかないクレールの母親(再婚をして、クレールとは別居)は、彼女に触れようとしないだけではなく、手作業自体も拒否しており(忙しくて、クレールの弟のハロウィン衣装をきちんと作り上げることすら出来ない)、それゆえにこの映画の「手作業」が繋げていく人間関係の輪からはずれ、ただただ鈍感なのかもしれません。

この映画の最も豊な可能性は、そうした手に宿るとして、だからこそこの映画は、刺繍それ自体を過剰に華美に描こうとはしていません。美しいことは美しいのですが、暗い作業部屋の中のわずかなきらめきを通して、その美しさをささやかに映し出そうとしています。それを、視覚的に不満だと言ったとたんに、この映画の「手」を見落としたことになるのだと思います。ミシンを動かすクレールの「手作業」の美しさ。それがこの映画の豊かさなのであって、結果的に出来る刺繍の美しさは、映画の美しさとは直結していないのでしょう。

細やかな刺繍の作業は、しかし、微細なもの、細部への鋭敏さを絶えずいざないます。クレールがメリキアン夫人の化粧道具をまとめているシーンで、ベッドに横たわった彼女が、華美ではないがセンスよく整えられた調度品に囲まれて見上げた明かりについたガラスの飾りが、わずかに揺れるのを見るシーンや、おしろいのパットを持ち上げたとき、空中にわずかに舞う白い粒子の広がりに、カメラを向け、映画をそこに見出していくこと。エレオノール・フォーシェという監督は、新人のようですが、その姿勢に、私はとても好感を抱くのでした。

*1:公式HPによると《母親が産院への入院の事実と身元を隠して出産できる制度。フランスでは伝統的におこなわれてきたもので、一説には1789年のフランス革命以前から、捨て子や子殺しの予防手段として定着していたとか。1993年に改正されたフランス民法典341−1条で、「出産に際し、母はその身元を秘すべきことを求めることができる」となっている。》との記載がありました。