シンデレラマン / John Fahey

BGM : John Fahey「The Yellow Princess」

Yellow Princess

Yellow Princess

ジョン・フェイヒーも、私にとって「必要な」ミュージシャンだなぁ。これは1969年の作品。定期的に取り出して、聴かずにはいられない。T4「March! For Martin Luther King」が好きです。暗殺の翌年のアルバムです。それからT5「The Singing Bridge Of Memphis, Tennessee」。主に労働を想起させる生活音、演奏されているギターの音を敢えてひずませたノイズ、口笛、その集積の面白さ。T6「Dance Of The Inhabitants Of The Invisible City Of Bladensburg」T7「Charles A. Lee: In Memoriam」の流れもかなり不気味です。T8「Irish Letter」なども、すっと秋の夜に流れていきそうなのに、良く聴いてると、何か不気味な口を開けている感じです。そもそも、これはただしくアイリッシュなのか?このアルバムは、後半の流れがたまらないです。

 ※

ロン・ハワード監督「シンデレラマン」を見て、案の定、しとどに泣いてしまったのでした。

ロン・ハワード監督「シンデレラマン」公式HP

そもそも、ツボなんです。挫折したものや社会的弱者が奮起し、小さくとも大きくとも、自分なりの理想や理念を持って立ち上がり、勝つにせよ負けるにせよ、良いと信じるもののために戦う…それはおのず、反権力的な物語になるわけですけれど。

しかし、こう書くととても単純な物語に見えてしまいそうですが、ロン・ハワードは、さりげなく複雑なことをやっています。1930年代初頭、大恐慌からいまだ抜け出せないアメリカが舞台です。どんどんと貧困のふちに追い込まれていくボクサーのラッセル・クロウレニー・ゼルウィガーの夫婦、その子供たちの生活の描写は、映画のほぼ全編において、まったくラッセル・クロウの試合のシーンと切り離されているわけです。たとえば妻も子供たちも、夫(父親)が帰ってくるまで、その試合の結果を知らない。試合会場に行かないだけではなく、ラジオでも試合の結果を知ろうとしないのです。つまり、試合の場と生活の場をつなげるのは、ラッセル・クロウの体一つとなります。そして、その二つに分かれている場の、どちらかがどちらかのサブストーリーをなすのではないのですね。両者はあくまで対等に進んでいきます。それぞれが、同等に「戦いの場」であるのです。生活の場では、ラッセル・クロウは妻や子供たちと視線劇を繰り返します。試合の場では、リングで向かい合う敵と視線劇を繰り広げます。そのバランスを如何に崩さないかが、演出上の重要なポイントだったろうと思われます。

以下、ネタばれです。

試合のシーンが、そのバランスの上で大事だったのではないかと思います。この映画では特徴的に、ボクシングの試合が視線劇として強調されています。敵の腕の動きや、フットワークの描写よりも、敵と自分が視線を交し合う、敵ボクサーの顔の正面を見据えるショットが印象的に挿入されます。これは、この映画がボクシング映画として、身体の運動だけを核とする映画ではなく、その試合の場が、隔てられた生活の場と重なり、一つの生活の戦いになっていくことを映画として目指していたからでしょう。最強の敵との試合の直前、ラッセル・クロウが8mmフィルムで敵の試合を見せられます。それを見せたコミッショナーは、敵ボクサーがすでに二人のボクサーを殺していると告げ、警告することで万一不慮の死がラッセル・クロウを見舞っても責任はないと言いたいのです。もし、ラッセル・クロウが、純粋にボクサーとして試合の場でだけ戦っていたのならば、そのフィルムは、脅威だったことでしょう。しかし、ラッセル・クロウはそのフィルムに、貧しい中で抵抗を試みあっけなく圧殺された友人の死を見ます(文字通りラッセル・クロウには、殺されたボクサーが友人になって見えるのです)。つまり生活の場と試合の場の視線は混濁し、一つの生活の戦いとして勝つべきボクシングが見えてくるわけです。その視線劇の混濁を映画のクライマックスに向けて次第に構築していくのが、この映画の演出の巧みさです。

本来は結びつかない家族や友人と視線劇が、クライマックス、試合の場の視線劇と重なっていくのは、まずラッセル・クロウが、死んでいった友人を自らと重ねながら、敵のパンチをかいくぐる、一連のショットに象徴されるでしょう。また、子供たちが初めて地下室で盗み聞きするラジオも、二つの場を接続し、酒場で、教会で、彼を応援する人々が会場の観客とも一体化しながら、二つの場を一つの映画として強く結び合わせるのです(ただし、直接的なメッセージ色もありますから。それが前面に強く感じられる分、演出の流麗さが阻害されている感じはしました)。

試合の場で痛めた右手を、生活の場では労働者として雇ってもらえるようギプスを黒く縫って隠したり、そうした生活の場の戦いで、激しい港湾の労働の成果から、左腕が強くなり、右手の強打しかなかったラッセル・クロウがボクサーとして成長、試合の場で生かされていったり、といった、ラッセル・クロウの身体の変化が、二つの場を行き来することで起こるエピソードの組み合わせ方も、とてもうまいと思います。

そのようなわけで、とても感動したのですが、同時に、こういうのって危ういとも思うのですよね。アンチ権力の庶民のヒーローは、容易に宗教的対象物になってしまうわけです。古典的に達成された、この庶民のヒーローの物語は、だから、簡単に権力の側に回収されかねない弱さを秘めています。誰もが、この映画のラッセル・クロウのようになれれば、新しく開けるはずの未来も、結局はラッセル・クロウに期待を託してしまうのです。彼の勝利を願って、教会で祈る人々の描写は、感動的でありながら(ラジオ同様に、重要な、二つの戦いの場を一つにまとめる機能を果たすといえるにもかかわらず)、少し引いてみると微妙です。

しかし、ロン・ハワードは、教会にまでラジオを持ち込み、血みどろの戦いを肯定するところも描いているわけです。そこに、微妙さを回避するための明確な意志が働いていた、とは言いません。ただ、それは映画的な正しさだと感じます。そしてそのラッセル・クロウの身体性には、安易にヒーローの物語に還元させない生々しさがあると思うのです。「ロッキー」シリーズのシルベスター・スタローンが、どんどんとその身体的生々しさを失って行き、単なる記号になっていってしまうようなことがないよう、抵抗しているといえます(けれど、そうした権力は強力であり、また映画は、別にそのありのままが見られるわけでもないわけでもない、と言えるのですが)。

マーティン・スコセッシは、その意味では誤解のしようが無い映画を撮るといえるかもしれません。「レイジング・ブル」のロバート・デ・ニーロを思い出しています。ロン・ハワードは流れるような演出の中に、そうした血みどろの身体を巧みに織り込んでしまうのに対して、マーティン・スコセッシは、まずその身体ありきだと思うのでした(スコセッシが、デ・ニーロに要求したような、過剰な身体改造を、ロン・ハワードラッセル・クロウに求めなかったろうし、また求める必要も感じて居なかったと思うのです)。もちろん、これはどちらの作家のほうが優れているということを、いいたいのではありません。しかし、この二監督の映画を、ともに見ていかなければ、簡単にアメリカ映画を見失ってしまうのだろうなぁとは思っています。

レイジング・ブル [DVD]

レイジング・ブル [DVD]