Town And Country「C'MON」/ せかいのおわり

BGM : Town And Country「C'MON」

C'mon

C'mon

このTown and Contryのアルバムはかなり好きだなぁ。どこにも行きたくない、二日酔いのあとの休日の午後に、最適です。T1「Hindenburg」から、一聴するとのどかな音が、次第にゆがみを与えられながら、しかし、のどかさというか、卓越したバランス感覚で、刺激でありながら、そのかどのひとつひとつが痛くないように丸められてもいる(知にだけは刺さるトゲだけど、感覚をさかなではしない)ところが素晴らしいです。改めて聞き直してみて、好きだと確認しました。なんとなく、最近は聞いてなかったのですけれど…他のアルバムも追いかけようかな?

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せかいのおわり」を見ました。風間志織監督の作品を見るのはこれが初めてです。

恋人に振られた美容師見習いの中村麻美と、行き場をなくした中村が頼る、苔盆栽の店「苔moss」に住み込んでいる幼馴染の渋川清彦が主人公。渋川は、中村のことがずっと好きなのだけれど、中村から見ると彼は友人以外の何者でもなく、渋川は満たされないままナンパしては女から女を渡り歩いています。そんな2人を見守るような存在が、両刀使いの「苔moss」店長・長塚圭史。更に中村麻美が美容師見習いをしていた店の客として出会い、改めて付き合いだす田辺誠一や、渋川がナンパしてきた安藤希らが、2人の主人公の「せかい」にかかわっていきます。

自分のごく身近な問題(主に恋愛)と、《せかいのおわり》(たとえば中村は世界を滅ぼす大洪水や、飛行機の大爆発を漫然と想像する)だけしかイメージできない、間にある社会や経済はどこか自分と関係ないもののように感じる(とはいえ、仕事は必要だし、美容師見習いをやめてしまえば、ウサギ、といってもバニーガールではなくガール・イン・バニー、にもなる)主人公たちは、ある意味、現在のリアルな若者像で、放ってとくと生きていけない(社会の中で自己の位置づけを確立できない)、(渋川が店で飼っている)閉ざされた世界の熱帯魚のようだといえ、彼らは彼らのカッコつきの(水槽の中の)「せかい」を、見ようによってはとてもはかなく生きています。ただ、彼らが熱帯魚よりも生きづらいと思われるのは、自分の身近な生活を充足させるために必要なものの一つに、恋愛があるからです。恋愛は、一つの水槽の中で3匹4匹いっしょに生きるのを難しくします(その恋愛感の「古典的な」イメージは、しかし必要で、「ぎゅーとして安心させてくれる存在」を求めている中村にとって、恋愛が1対1の安定した関係でなければ、よりどころとして成立しないからです)。

「苔moss」店長・長塚圭史は、微妙な立場を取っています。ある意味では主人公の2人を見守っている、2人の「せかい」の庇護者です。中村は、渋川を頼って「苔moss」に行くわけですが、実質、その店の経済を支えているのは長塚です。渋川は、彼の好意も含めた庇護を受けて、住み込みで働いているといえそうで、それが彼の経済を支えているようです。つまり、ほっておくと、この社会を上手く生きていけなさそうな2人が、長塚に場所を与えられているわけです。しかし、閉ざされた「せかい」の管理者として存在しているかというとそうでもなく、彼も緩やかな三角関係の参加者ではありますし、考えてみれば当然、長塚自身もこの世界の内側にいるわけで、ただ「せかい」を社会と両立させることが出来ている、というだけなのです。趣味と実益を兼ねて、ニッチな仕事ながら生計を立てていけている(らしい)のは、とても幸せなことかもしれません…と書いてみましたが、もしかしたら倒産寸前かもしれないし、なんとも言えませんけれど。この映画では、田辺誠一が子供の頃体験した落とし穴に落ちた経験(簡易的な死と再生)が、重要なモチーフとなり、見失った自分を再び取り戻すために、落とし穴に落ちるという小さな死が要求されていく(「せかい」をリセットする)のですが、それとは別に、中村が美容院で体験する落とし穴(社会不適合者として烙印を押されるような)も「せかい」と実は不分離な社会には、納得しがたくてもあるわけです。

以下、ネタばれです。

中村・渋川・長塚の3人に関しては、長塚が三角関係を半ば放棄しているので、相互に排斥しあうことはないにしても、2人という単位は中村にも渋川にも重要で、かつ田辺にも安藤にも重要となります。田辺のところに、別居中の妻・つみきみほが戻ったとたん、中村は居場所を失ってしまいますし、安藤は中村を追って出て行った渋川を見て、渋川が大事にしていた熱帯魚の水槽にハルマゲドンを起こします(ブルーベリーのアイスクリームをぶち込み、熱帯魚を全滅させる)。いっぽうで中村と渋川は、求め合いながら恋愛関係にもなれないので、2人の安定した関係を作り出すことが出来ません。

この映画の面白さは、「せかい」のイメージが恋愛=2人の論理において、簡単に死を迎えて、それを繰り返していくところだと思います。同時代的な「せかい」のイメージを、安逸に保護するのではなく、また社会と「せかい」の両立の難しさを、社会の側から見るのでもなく、「せかい」の小さな死と再生を通して、その危うさを露呈させながら、同時にリアルな感覚として肯定もしていく、ということなのだと思います。しかし、ブルーベリーに染まった水槽の毒々しい死が、もう少し強く表に出てきていたら、「せかい」のほつれ目から世界が覗く瞬間も描けたのではないかと思いますし、実はそれを少し期待しながら見てしまっていたので、若干残念にも思いました。死と再生が、約束された反復に過ぎないなら、「せかい」の危うさは安逸さに回収されていくからです。絶えず崩れていく、小さな「せかい」の脆さは、とてもよいと思うのですけれど。

そういう意味では、死の世界となった水槽を見て暴れる渋川を、キス一つで落ち着かせてしまう博愛主義者の長塚の存在が、この映画の重要な魅力を担っているにもかかわらず(3人という不安定な場所を継続させる力となっている)、同時にこの映画の限界を示す、一種の安全弁になっているとも言えるのかもしれませんね。

ところで「メゾン・ド・ヒミコ」と「せかいのおわり」は、ある意味よく似た「せかい」を共有する映画であり、同時に相互に批判しあうような位置にある気がします。「メゾン・ド・ヒミコ」は、その閉鎖的なユートピアのイメージにおいて、「せかいのおわり」の「せかい」の脆さ=リアルさを回避しているように見えますし、逆に「せかいのおわり」は、その社会の回避と「せかい」の死と再生の反復において、「メゾン・ド・ヒミコ」が織り込んでいる社会との深刻な亀裂を覆い隠しているといえそうだからです。しかし、その両立を目指すことは、大変やっかいなことなのだとも思います。なぜなら、その両立は、恐らく人を心地よくはしないからです。

そこに、ホラー映画監督という存在の必要性があります。黒沢清監督の「アカルイミライ」を、今思い出しています。

アカルイミライ 通常版 [DVD]

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