ローリー・アンダーソン

BGM : Laurie Anderson「Life On A String」

Life on a String

Life on a String

彼女のアルバムは、手元にこれしかないのです。他のアルバムも欲しいなぁ。こういう、どこまでもその聡明さにおいて、脳をクリアーにしていってくれる音楽が好きです。

テレビにふと目をやったら、現在9:11。「金色のガッシュベル」を放映してました。この数字の配列は、なかなかその意味をぬぐい去りそうにないですね。日に2回が来る配列だというのに、意識的になってしまいます。更に、ちょうど毎朝の乗り換え時が、この時間帯で、やたら時計を見ることもあって、毎日のように9:11という時間の配列を見ている気がします。

そんなわけで、10/2までICCで開催されていた《ローリー・アンダーソン「時間の記憶」》に駆け込みで行ってきました。

展覧会の入り口で、ローリー・アンダーソンは、自身が歌にした、ベンヤミンの「歴史の天使」を引き合いに出しながら、自身30年の回顧展の冒頭を飾るテキストを寄せています。その時代その時代の先端(テクノロジーという意味でも、アートという意味でも、その両方でも)に、道化として(あるいは道化であることで)かかわり、進歩が単線的な物語となら無い様に、そのとたんに価値を攪拌し、ひっくり返しながら、別のものへと結び付けて言ったローリー・アンダーソンは、道化であると同時に、むしろ戦士であり、切っ先の上で謡、踊り続けてくれた存在なのでした。もし、彼女のような存在がいなければ、私たちは進歩の風に吹き飛ばされながら、それが作り出す安易でフィクショナルな単線としての歴史に、思考を奪い去られてしまっていたかもしれません。もし、万一そうだったとしたら、私たちに可能なる文化的思考などは、もはやどこにも残っていなかったかもしれないと思うのでした。

素朴に手を合わせ、感謝してしまうのでした。こういう人がいてくれてよかった。という思いです。といっても、別にセンチメンタルな気分ではなく、展示自体は至って愉しいものです。踊ることで音のなるドラムスーツであるとか、めがねのフレームにマイクを仕掛け、頭を叩くとその音の響きを拾って鳴る頭パーカッションとか、口の開け閉めと息だけで調整する口内バイオリンとか、弓に、録音済みのテープを張り、弦の替わりにテープレコーダーのヘッドがついたバイオリンによる演奏とか、あらゆる時代の、ユニークなテクノロジーと文化の攪拌の歴史。私が一番気に入ったのは、写真を音声情報にして通信で送る、現代の目では非常にアナログなシステムの黎明期に、写真データを、バイオリンの弦を弓でこすることで少しずつ音声情報に変換し、送り、再現する、技術としてはまったく無意味に変更された装置(というのも、そうすることで、写真は縞々に覆われ、かつゆがんでしまい、正確には伝達できないから)ですね。それは、単なる意味が、様々な過程を経て、まったく別の揺らぎや中間性を帯びる可能性の提示であるというだけではなく、そのパフォーマンスで実際に弾かれているバイオリンの奏でる音は、写真を伝達するために、基本的には丁寧に同じ動きの反復で、同じ音の反復を目指されるのですけれど、手作業です、もちトンその音自体も揺らぎやノイズが混じりながら、ドローンとして心地よい音世界を構築し模するのです。その、無駄な、余剰に広がる、驚くような豊かさ、心地よさがたまらないのでした。

同時に複数の情報が集積して存在する、それを操作する人は、様々な切断やジャンプ(Aの情報を途中で切断し、Bの情報にジャンプする)を繰り返しながら受け取るといったイメージとか、インターネット時代のだいぶ前に、すでに、チープ&直接的な表現で示していたりするのも、作品として凄く刺激的だと思ったわけではないものの、興味深かったですね。

半ば開けられた扉のところに立ち、バイオリンの弓の動きを左右に振るその幅の限界が、扉によって規定され、柄が扉にぶつかるたびにリズム(パーカッション)になるよう、扉の裏側に音を拾うスピーカーが備え付けられた状況での演奏、というアイディアも、これは写真だけで見たのですが、実際聞いてみたいと思いました。素朴なことを言うのですけれど、なんというか、それをそのとき、そこで体験できなかったことに対する真剣な嫉妬心、みたいなものを強く感じる展覧会だったのです。

ローリー・アンダーソン―時間の記録

ローリー・アンダーソン―時間の記録

公式カタログ、可愛いし、面白いし、必携です。貴重なサウンドを収録したCDもついています。歌モノではないですけれど。