精神の氷点 / 四月の雪 / Iannis Xenakis

BGM : Orchestre Philharmonique du Luxembourg - Arturo Tamayo「Iannis Xenakis orchestral works - volⅠ」

Xenakis: Orchestral Works Vol1

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クセナキスも、何故か集めてしまう人です。自分で、何がそれほど気持ち良いのか、よくわからないのですが。

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大西巨人「精神の氷点」を読了しました。

精神の氷点

精神の氷点

これは悪癖なのですが、読書しながら、これを映画化したらどうなるだろうという想像を、ついついしてしまいます。この小説の復員兵・水村宏紀を演じるのは、女性を一目でひきつける力があり、それでいて虚無をたたえた美青年でなければならず、誰なら演じられるのであろうと考えるわけです。前も書きましたが、堀部圭亮とかとても好きなのですけれど、年齢的にだめですね。「この世の外へ クラブ進駐軍」以降お気に入りの松岡俊介…うーん、やはり年齢が。オダギリジョーならばあうのでしょうが、私の中でイメージする虚無においては、彫像的な顔の方がいいように思います。ブレッソンの「ラルジャン」の主人公のような顔がいいのです。といっても、あくまでテイストの問題で、もちろん、日本人で…。加瀬亮は、線が細すぎる気がする。とはいえ、戦後直後の日本という意味では、あの細さは正しいのでしょうか。どちらにせよ、みな好きな俳優なのですが…。

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女優は、3人のヒロインが必要になりますね。水村の寄宿先の、不実な夫との生活に倦み、青年・水村の悪意ある虚言としての純粋な思慕の情を信じて体を許し、しかしそこには肉欲しかなかったと気づいても彼を受け入れ続けた35歳の和風美人・素江は、やはり鈴木京香ではないかと思います。やはり人妻で、水村の寄宿先にやはり寄宿していた若夫婦の妻、弟のように接しているうちに、やはり悪意ある水村の誘導によって、抜き差しならない関係になっていく志保子。これは結構難しいですね。彼女は、戦後復員した水村と再会し、敗戦後、夫を失った彼女は体を売って生きており、更なる虚無に落ちた水村と、何ら未来の見えてこない彼一人残された家屋の、一日中締め切った暗がりで抱き合い続けるわけだから、多く、かつそこには一種の純粋さと欲望とが入り混じってなければいけないのです。ある意味、一番重要なキャストですね。長谷川京子がいいなぁと思うのですが、彼女はこうした映画には出なさそうですね。それから、原作では小さい役ながら、映画にするならば、もう少し膨らませておきたい、静代。水村の寄宿先の家事見習いで、水村に半ば強引に犯され、彼に心惹かれ、けれど冷たく突き放されて田舎に帰って嫁入りしていく女性です。原作では決して美しくはない女性として描かれていますが、ここは若く、幼い感じを残した女優で、かわいい人を配していいと思います。石原さとみがいいなぁと思います。

戦中・戦後、水村の精神を支配した、虚無感、精神を破壊する矛盾と、そこからどこにも行けない(逃げられない)現実は、戦争という具体的かつ強権的な暴力(対国外に対してだけではなく、対国内に対しても)の前に必然的に、強く生まれたわけですけれど、決してその時代に限ったことではなく、それこそ(形を変えて)現代でも有効であると思うのです。また、現代と戦中・戦後だけの話でも、もちろんなく、「虚無感、精神を破壊する矛盾と、そこからどこにも行けない(逃げられない)現実」を生きる無残な青春があったと思います。「精神の氷点」の暗い、男女が睦みあう部屋に、神代辰巳の傑作「赫い髪の女」を想起することも出来ますし、またそこを機軸に、神代辰巳という映画作家フィルモグラフィー全般を貫くある種の怒りを思い出しもします。青山真治監督の「ユリイカ」における殺人も思い出されます。柳沢光男監督の「十九歳の地図」も思い出されました。大島渚の名前も、思い起こすべきだと思います。

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しかし、現代では、たとえば犬童一心監督の「メゾン・ド・ヒミコ」風間志織監督の「せかいのおわり」でも描かれているように、その青春のイメージは、取り囲んでいるものに対しての怒りであるとか、抵抗であるとかがどんどん抜け落ちてしまっているように感じます。それらの作品を否定する気は毛頭なく、それはそれで、むしろ今の「実感」を描く必然性を帯びていると思うのですが、他方、戦争だけではなく社会そのもののが具体性をはるか過去にしていく過程が恐らくあり、自身が作った閉鎖域だけを世界として感じ、そのなかで自作自演の不安や焦燥を生きてしまう、それだけになってしまうと、やはり人は錯誤を起こすと思うのです。具体性を欠落させていても、実は社会は具体であり、それを掴めぬまま(思考せぬまま)、自身の「実感」の中で作り上げた閉鎖域がはぐくむのは、甘いロマンチシズムであり、そこでは思考停止の契機を絶えず帯びていってしまうからです。

そこで、ハードコアといってもよさそうな、水村の、殺人=実行まで含めた論理による社会考察は、今こそ有効である、といえるわけです。その意味で青山真治監督の存在は貴重だと思っています。しかし、では「精神の氷点」を映像化するに当たって、監督のイメージが青山真治監督かというと、そうではありません。個人的には、その殺人のシーンを見たいということも含めて、万田邦敏監督をイメージしています。万田監督の女性の撮り方が素晴らしいと感じているのもあります。

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ホ・ジノ監督の最新作「四月の雪」を見てきました。ホ・ジノというと、「八月のクリスマス」(長崎俊一監督によるリメイク「8月のクリスマス」も気になるところです)と「春の日は過ぎゆく」で、男女の恋模様を、美しい映像で、しかし痛みや切なさを伴った甘さの無い演出で描いた監督です。本作も、無用な台詞を排し、無言の時間、窓越しに見つめる恋しい人の姿に痛みをしのばせ、引いた遠景なども上手く用いながら、感傷的な物語にならないように、丁寧に演出しています。

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もちろん、同じメロドラマでも、ダグラス・サークが示す映画的な達成には遠いですし、最近の作品で言っても、ロン・ハワードの「シンデレラマン」のような優れた視線劇と比べてしまえば、窓越しに恋しい人を見つめる男女のたたずまいがちょっといいくらいのホ・ジノは、やはり見劣りしてしまうわけですけれど、その素直な演出と、あと俳優の演技を引き出す上手さが、見るものを気持ちよくさせるというのはあるのだと思います。すると、映画の出来を左右するのは、俳優の演技ではないかと思うわけです。

そこで、話題のペ・ヨンジュンの演技はどうだったか、ということになるのですが、私は「よくわかりません」といいたい。なぜなら、ホ・ジノは、非常に多くの場面で、彼の表情をやや後ろより横側から捉えており、カメラが正面に回っても、めがねのフレームで目元が見えなかったりもし、その胸のうちに渦巻いているはずの複雑な感情は、演技としてどう演じられているのか、今ひとつわからないからです。

以下、ネタばれです。

ペ・ヨンジュンの妻と、ソン・イェジンの夫は、不倫の関係にあり、旅行のさなか交通事故で、共に意識不明の重態となります。事故によって不倫関係に気づいたペ・ヨンジュンソン・イェジンは、不可避にかかわりを持つうちに、次第に惹かれあっていき、関係を結んでしまいます。自分の夫・又は妻は自分を裏切っていた、だから自分も、という気持ちもあったかもしれません。しかし、遊びではなく本当に求め合っていると気づいてしまうと、二人はどうしていいかわからなくなる。そういう複雑な、解決しようの無い感情を抱えた男女の物語です。もう一人の主演、ソン・イェジンは、その点だいぶ監督に愛されていて、アップの表情の中で言語化できない感情のゆれを湛えて見せるシーンが、いくつもあります。そういう意味では、日本だけではなく韓国でも、ペ・ヨンジュンは演技の俳優ではなく、無条件でいい男、つまり記号としての俳優なのかもしれませんね。だからこその、大ヒットなのかもしれません。劇場では、ペ・ヨンジュンのパネルの前で写真を撮るファンの方々か、たくさんいらっしゃいました。無条件に愛されるくらいでないと、スターといえないのかもしれないですね。

とはいえ、映画としては、「春の日は過ぎゆく」や「八月のクリスマス」のほうが、私としてはだいぶ好きです。これらの作品では、男女それぞれの複雑な感情が、それぞれ丁寧に描かれていたように思います。ああ、でも「八月のクリスマス」は、男性のほうがより中心ではあったかな?記憶が定かでないですね。