成瀬巳喜男(12)/ Iannis Xenakis(更に続く)

BGM : Hiroaki Ooi, Arturo Tamayo/Orchestre Philharmonique de Luxembourg「Iannis Xenakis orchestral works - Vol III」

Xenakis:Orchestral Works Vol.3

Xenakis:Orchestral Works Vol.3

そういえば、このアルバムの1曲目は、弾くと出血するピアノ曲として、ワイドショーで取り上げられていました。「Synaphai」ですね。いや、まあ、そういう情報とは関係なく、好きな曲です。厚い厚い。

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「芝居道」も成瀬巳喜男の芸道ものの一つです。したがって、もろもろの挫折はあっても最後には強者たちが勝利します。一箇所に集い、映画は一つの調和の取れた場を獲得していくまでの物語の構造は、「歌行燈」を思い起こさせるものです。ただし、「芝居道」では「歌行燈」のように幽玄の異常な境地まではたどり着かない、それは題材が能ではなく芝居だから、かもしれません。しかし、それが「芝居道」という映画の価値を損なうわけではなく、むしろ実験的で過剰な「歌行燈」とは別の、演出の冴えが「芝居道」にはあります。

日本家屋の空間を生かし、たとえば続きの二間の、開かれた襖越しにおける人間配置と、視線劇で、様々な人間関係をたくみに編み上げていく成瀬のうまさが、高度に達成されている一本だと思います(ある意味、成瀬スタンダードという感じです)。障子越しに通りを行くちょうちん行列を見るシーンの、はっとするほどの陰影の美しさが(日本家屋独特の、屋外への微妙な境界線の薄さとともに…縁側の映像への取り組み方も、そういう意味では重要だと思いますが)ぱっと描かれる一瞬、山田五十鈴の、愛する長谷川一夫をただ思うことしか出来ないいじらしさが象徴的に現れるいじらしさなど、1944年製作の戦意高揚映画、戦地に赴く男の無事を祈って待つべし、というプロパガンダの裏返しだとしても、やはり胸を打つわけです。

あるいは夜、芝居がはねたあと、細く暗い路地を頬被りして歩くむかしの恋人・山田五十鈴を、街灯のついた向こうの通り、車で通りかかった長谷川一夫がうしろ姿で認め、通り過ぎる一瞬に車を戻させ路地に目をやる、たとえばそうした一瞬の映像の冴えなども印象的です。

以下、ネタばれです。

日清戦争下の大阪・道頓堀。主演は興行師・大和屋役の古川緑波。観客におもねるのではなく、しかし時代に後れるのでもない、一歩進んだ真に時代に必要な芝居を打つことを信念にした興行師が、才能ある俳優・長谷川一夫を育てるために、未熟な長谷川には芝居に打ち込ませなければならないと恋人・山田五十鈴を説得、山田は古川の気持ちを理解し、嘘をついてまで長谷川と別れます。古川は、その心意気に打たれ、山田を支援するのですが、逆に山田は心苦しく重い、娘義太夫の道を捨て針子として生計を立てるようになると、黙って姿をくらまし長谷川を思って生きていくのでした。一方、恋人に振られ増長もした長谷川は、東京の興行師に誘われて古川の手元を離れるのですが、そこでつらい扱いを受ける中、奮起し、役者としても人間としても、大きく成長していきます。そして、ついに東京でも立派に主演をはれるようになったときに、東京への招聘も、敢えて長谷川に興行師が厳しくし芸を磨かせたのも、みな古川の指示であることを長谷川は知るのでした。大阪ではその頃、安易に戦勝気分を盛り上げるばかりの芝居ではダメだ、芝居は目学問、耳学問だと信じる古川が、勝ったあとの日本を示せる実のある芝居を見せなければと、大衆におもねらない芝居を打ち続け、ようやく観客もついてきたところであったにもかかわらず、いよいよ小屋主に見捨てられそうになっていました。長谷川は、大阪へと帰還し、主演を張ることで一座を盛り返すことに成功するのでした。

と、つまり三者三様の強者の物語なのです。成瀬の「強者たち」は、言い換えると通常不可能な距離をものともせず飛び越える人々であって、その意味で、時折唐突に、一つ場所に集まったりするのですが、映画のラストはもちろんのこと、山田五十鈴が、芝居が不評続きで落ち込んでいる古川の元に唐突に現れて、娘義太夫としての芸を久しぶりに披露し励ますシーンは、古川の娘が敢えて招きいれたとはいえ、その強者としての資質を示すものです。また、その同じ古川の居室が、映画のラストシーンとなり、そこに3者が集うのもまた、映画としての整合性の高さだといえるでしょう。また山田は「歌行燈」でもそうでしたが処女性が強く強調されてもいます。

この映画を以前一度見たときには、たとえばそうした「処女性」であるとか、説教くささが鼻について、あまり楽しむことが出来なかったのでした。しかし、改めて見直してみると、まず単に演出の冴えに打たれるわけです。そして、芸道ものという(時に異常なまでに)強者たちの世界を描く成瀬と、残酷さに満ちた亀裂だらけの世界を生きる弱い人々を描く成瀬とに、矛盾ではなく、必然性を帯びた二面性を感じもするのでした。