チャールズ・ブコウスキー / トゥルーへの手紙 / シガー・ロス

BGM : シガー・ロス「アゲイティス・ビリュン」(文字化けするので日本語)

アゲイティス・ビリュン

アゲイティス・ビリュン

たまにはこういうのも。こういうフィクショナルな繊細さも好きです。フィクショナルといっても、嘘、ということではありません。感情を、繊細に、丁寧に、飾り立てること、増幅すること。その作業のひとつひとつの中に、当然音楽があります。ただ、私はどちらかというと、ある種の増幅の装置が、現実を露呈してしまうような音楽に、より強く刺激を受けると言うだけなのだと思います。現実、といっても、別にそれは、重たさとは別の物です。現実でありながら、軽やかでもある音楽というのも、あると感じます。ただ、その中に、たとえば困惑や、生々しさも、同時にしかけられているだけです。たとえばデヴィッド・トーマスの音楽を思い出して言っています。あるいは、シガー・ロスとでいうならば、ロバート・ワイアットをあげる方がいいかもしれません。

とまれ、シガー・ロス、深夜に最適です。もっと真冬の方がいいかもしれませんが。

 ※

チャールズ・ブコウスキーのドキュメンタリーを見てきました。「ブコウスキー:オールド・パンク」です。

故人の親しい人間のインタビューを通して故人を描く、そういうドキュメンタリーの難しさを、この映画からも感じました。問題は、「配慮」が、様々な部分に作用してしまうことなのです。どこかで(たとえわずかであれ)安易な美化や、安易な物語化がなされたとたん、失われてしまうものがある、その難しさです。

たとえば、ブコウスキーが亡くなるときのことを、彼の最後の妻が、墓の前で胡坐を書くようにして座り、語るシーンがあります。緑多い墓地の、ブコウスキーの墓の前では、つつましい献花が風に揺れています。視覚的には、気持ちの良い午後と見えます。そんなロケーションのなか、アメリカの、知的アウトサイダーのイメージどおりのリンダ・リー・ブコウスキーは美しい方で、彼女がブコウスキーの死を語ると、決して嫌味ではないのですが、やはりとてもきれいに、死に際が聞こえてしまう。いや、聞こえてしまうのではなくて、恐らくそれが事実なのでしょう。しかし、そうしたブコウスキーの死に際の証言は、たとえばそこにあったはずのブコウスキーの死体と、本当に似ているのかどうか、と感じるのです。必ず死体をカメラに収めろとか無茶をいうのではありません。私が言うのは、ただきれいに死が語られてしまったとき、その言葉は、ブコウスキーの生涯や詩や小説に対して、距離を置いてしまわないだろうか、と思うのです。

美しい部分もあえて醜く描け、ということではありません。しかし、事実であれ、ただ証言をそのまままとめていっても、十分に優れたドキュメンタリーにはなれないのではないか、と思います。ドキュメンタリー映画というひとつのフィクションを作り上げるにあたり、必要なものはなにか、一種のバランス感覚をもって、監督は対象に向かわないといけない。バランス感覚といっても、間を撮って客観的に、中道で、というのとはまったく違うバランス感覚です。むしろ、積極的に、自身の戦いを繰り広げる覚悟を伴ったバランス感覚ではないか、と感じます。たとえば土本典昭監督のドキュメンタリーで言えば、その対象となる土地、水俣で、食べ、生きる覚悟であり、共に戦う意思を貫くことだと思います。「回想 川本輝夫 ミナマタ 井戸を掘ったひと」という素晴らしい作品を思い出します。また「ハーヴェイ・ミルク」という映画もありました。ロバート・エプスタイン&リチャード・シュミーセンという監督コンビは、映画作家としてはけっして特別に優れているとは思わないのですけれど、それでも「ハーヴェイ・ミルク」はとても素晴らしいドキュメンタリー映画です。恐らく素材の力が大きい。なぜなら、ハーヴェイ・ミルクという殺害されたゲイの政治家は、その回想をする人々(インタビューを受けるすべての人々)にすべてに、彼らがではどう生きていくかをたえず問いなおすような存在であり、インタビューを受けた人々は、ハーヴェイ・ミルクの解釈ではなくて、彼ら自身の戦いや克己を話していたからです。そして、誰もが自分のことを語りながら、ハーヴェイ・ミルクに代表されるひとつの怒りのうねりを作り出していくのでした。

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と、少しネガティブな書き方をしてしまいましたが、それでも「ブコウスキー:オールド・パンク」は一見に値する秀作だと思っています。生きて、動いているブコウスキーの映像がたっぷり見られるというだけでも、非常に刺激的ですし、詩の挿入の仕方なども、とてもかっこいい、ただ「配慮」含め、上手にまとめすぎている感があるのが、どこか腑に落ちないだけです。もっと割り切れなさがあっても良い気がする、ということですね。

ブコウスキーの映像で、特に私がしびれたのは声です。ゆっくりと、しわがれた声で、ブコウスキーは話す。酔いどれ詩人というイメージは、酔って、優れた詩を書いたからだけではなく、酒に焼けた声で、酔っ払いの独特なテンポで、それを朗読する、その声の魅力もあってのことだったのです。少なくとも、この映画を見れば、そうした認識になります。

以下、「トゥルーへの手紙」含め、ネタばれです。

少年期にどのように虐待されたかを、老人になったブコウスキーが、まだ残っていた彼の生家で回想するシーンなども、非常にインパクトがありました。あとは、別れた女性との思い出の詩を読んで、思わず涙をこぼすシーンも。強面な酔いどれ詩人のイメージに合致する部分、それから零れ落ちていく部分、それらを同時に、生き、動いているブコウスキーの映像が、まとっています。既成のイメージでは割り切れないのです。

ジョン・ダラガン監督がブコウスキー本人に直接カメラを向けることが出来たら、そしてそれを軸にこの映画を作れたら、もっと凄い映画が出来たのかもしれません。あるいは、たとえぶつ切りでも、他者の回想などなくして、ブコウスキーの記録映像と彼のテキストと、彼の最低限のプロフィールだけで構成されていたら、もっと素晴らしい映画だったかもしれません。ブルース・ウェーバーの「レッツ・ゲット・ロスト」を思い出します。チェット・ベイカー最晩年を捉えた傑作ドキュメンタリーですね。酒とドラッグで焼けた声で、チェット・ベイカーが、カメラの前で話す。その美しかった若き日の痕跡をとどめない相貌をさらしている。その、今ここにいる彼を機軸に、彼の半生を編んでいく。だから、ただただ割り切れない存在、解釈をはさまない存在としてのチェット・ベイカーがあるわけです。しかし、いったん死んでしまい、その上で回想に解釈を挟まないことは、とても難しいことなのだと想像します。土本典昭監督が、川本輝夫を回想しても、そこで解釈の問題がバランスを崩さないのは、土本がある意味川本と同じ戦いを戦ってきた(戦っている)からだと思います。しかし、それは数十年にわたる長い年月、土本監督が水俣にカメラを向け続けたが故の力です。

そういえば、ブルース・ウェーバーの「トゥルーへの手紙」も見ました。

こちらは、逆に、強く解釈の映画です。犬という人間のよきパートナーに、人間が理想のメッセージを託し、表現しているといえます。たとえば、犬や猫の首に平和を訴えるカードがぶら下がっているのです。犬がどれほど心から平和を訴えようとしているのかわかりませんが、しかし、それを首に巻きつけた人間に託されてはいます。つまり犬は、人間の意向を、疑義無く受け止める存在であるわけです。

ユニークなのは、ブルース・ウェーバー自身が、そうした一種の押し付けについて、自註的に映画の中で言及していることです。よきパートナーの犬は、たとえば「名犬リンチンチン」や「名犬ラッシー」(実は軍用犬だった)においては、理想的な兵士でもあります。命令を遂行し、人間:命令者を神とあがめる存在ですね。つまり、このパートナーは、平和主義者が飼えば平和主義のメッセージを、軍国主義者が飼えば軍国主義のメッセージをまとうのです。

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さらに、「名犬ラッシー」のヒロイン、エリザベス・テイラーウェーバーは言及し、彼女が一般的に持たれているセレブな変わり者のイメージとは違い、友人であるブルースの彼女のイメージは、エイズ撲滅の活動家である素晴らしくヒューマンな人だと、語られます。その二面性は、犬に対して同様、「解釈」とは押し付けと同義であるという風に見えなくもありません。犬(名をトゥルー=真実という)=人間の意向を受け止めてくれる最高のパートナーに向けての、ブルース・ウェーバーの手紙は、一種の自問自答としてみるべきなのでしょう。しかし、だとしたらこの映画は、かなりシニカルな反戦映画といえなくも無いですね。犬は、時には兵器なのです。

そんなわけで、サミュエル・フラーの「魔犬 ホワイト・ドッグ」を思い出しました。

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そうそう、キング牧師の演説の声が「トゥルーへの手紙」で流れるのですが、その宗教家としての彼の才能、というか声に、一発で耳を奪われました。なるほど、これは、聞き入ってしまいます。