成瀬巳喜男(13)/ John Cage: In a Landscape

BGM : Stephen Drury「John Cage: In a Landscape」

In a Landscape

In a Landscape

秋の夜に、心穏やかに危険なことを考える準備運動として。

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1966年、成瀬巳喜男最晩年の監督作である「ひき逃げ」は、成瀬の作品の中でも、もっとも不気味な作品のひとつです。映画の冒頭、パチンコ屋の店内を四つんばいですばやく移動し、拾った玉でパチンコを始める5歳の少年は、それに代表される動きの活発さ、保育園を脱走し、母親の静止も聞かず、隙間を抜け駆けていく天真爛漫な運動において、一見自由に見えるのですけれど、成瀬の映画です、「秋立ちぬ」や、最初期の「腰辨頑張れ」「生さぬ仲」といった作品でもそうであるように、決して子供たちは自由でなく、むしろ閉ざされた世界に取り囲まれていて、それを越えていくことは時には死を意味してしまうのです。成瀬は、親の庇護が無ければ生きていけない子供に、幻想としての自由などを与える監督ではないのです。かりそめの自由に気づかずに、過剰に運動を外部に向けて引き起こそうとすれば、子供たちは激しいしっぺ返しを受ける。だから「ひき逃げ」では、貧しいが、死んだ夫との間に残されたたった一人の息子を可愛がって生きている高峰秀子は、あっけなくその子を失ってしまうのです。ひき逃げをしたのは、自動車会社の重役(小沢栄太郎)の妻、司葉子でした。

以下、ネタばれです。

彼女は、不倫相手の中山仁を隣座席に乗せていたので、高峰の子供をはねたまま逃げてしまったのですが、このひき逃げのシーンがとても印象的で、ぶつかる、というよりも、まるでかすめるように子供を轢くのですね。確かこんなカット割だったと思うのですが…(ちょっと記憶が怪しいのですが)。

車の中で別れる・別れないの話をしている2人のカット(フロントガラスにはスクリーンプロセスで映し出された路上の風景)
→道端の斜面で遊んでいる子供たちのカット(ロング)、そのうちの一人が道路に飛び出る
→そして再び車内のカット(ここで、轢かれてしまう子供の顔を、正面で大写しにして…などという演出を成瀬はしません。フロントガラスの前を横切って車の端にかするようにぶつかって消えるその姿を一瞬写し撮るのです。急ブレーキの音はありますが、轢いた、という実感の無い轢き方をする)。
→急ブレーキの音に反応して庭先から家の前を通り過ぎる車を見る浦辺粂子視点のカット
→車中の男女のカット
→続けて車の中から振り返ってみるカット(カメラは車の位置から子供の様子を捉える)。子供は一度立ち上がろうとしてまたぱったり倒れる。

この、接触した実感の無さ、そして倒れている少年からやや離れて止まった車との距離感が、事故と死という出来事の深刻さを、一時的に留保し、不倫の男女の保身を優先させます。実際には立ち上がっていないが、動きはした子どもを見て司葉子は中山に「多分大丈夫よ」といって去っていく。もちろん希望的観測であり、事実とは異なっているのですけれど(次に子供が出てくるのは、遺体安置所で横たわっているショットであり、高峰秀子はそれを見て卒倒するのです。この死体の映し方も感傷を廃したもので、死に顔を正面から捉えたりしません。やや俯瞰で、目元や口元が良くわからない、もはや表情を失ったモノとして描かれます)。

こうした、他者に起こった深刻な出来事に対するエゴイスティックな距離のとり方は、この映画における司葉子周辺の人間関係を象徴しているのかもしれません。事故の加害者と被害者。そうした、本来なら濃厚で回避してはいけない係わり合いを、金で身代わりを立てて回避しようとする司とその夫は、たとえば夫婦という関係においても致命的な距離感を抱えています。いや、もしかしたら、仲の良い親子に見える司とその子供も、何か破綻していたのかもしれません。

なぜ、司の子供は、家政婦として家に入り込んだ高峰秀子になついたのでしょう?その理由は明らかにされませんが、じっと高峰を見つめる司の子供は、幼稚園にも行かない、友達のいない子供でした。母親が絵本を読んで挙げられないときに、代わりに読んであげる高峰の腕を、小さな手でしっかりと掴む子供は、やはり不鮮明な孤独を抱えていたのかもしれません*1

以下は、致命的なネタばれです。

この夫婦、家族の関係性の破綻は、仕事と出世しか興味が無く、自首しようとする妻を止め、身代わりを立てる小沢のエゴイズムだけが引き起こすものではありません。小沢は、よりわかりやすく現代人の象徴ではありますが、この映画で一番不気味なのは、子供を殺し罪悪感を感じていたとしても、自分の子供すら捨ててもよいと言い放つほど、愛人と自分との関係のほうが重大な、本質的にはどこまでもエゴイスティックな司葉子の、端正な美しさにあると思います。そして果ては子供を巻き添えにしての服毒自殺(子どもの死体は、まだ死体の異常さがわかるゆがみを見せて死んでいる司と違い、何かが首に巻き付いているらしいとしかわからない、人形のような物として、顔さえまともに映されない、という意味では、高峰の子どもの死体と似ています)。その司が最終的に下す判断は、高峰の子供を殺してしまった罪悪感だけでも、夫に愛人との関係が知られてしまった困惑だけでもなく、彼女をおいて去っていく愛人との関係の破綻が重要な契機だったのです。遺書の書き出しも、愛人宛だったことが印象的です。

不倫相手の中山仁は、大きな役ではありませんが、やはりとても不気味な存在だと思います。彼は、事故を起こした車に同乗じていた。子供が死んだことを知り、司葉子は罪悪感に襲われます。しかし、彼女に自首を促しもせず、あとになってから、彼女と別れる理由にそれを挙げる中山は、彼自身の事故に対する責任や義務をどう考えていたのでしょう?出世のためにニューヨークに行くという中山は、成瀬の映画における、海を越えていく存在=強者の一種なのかもしれません。彼は、すべてを他者の責任にして、自身の欲望のままに海を越えていこうとしています。小沢の勤める自動車会社の社長が、「ニューヨーク」出張から帰ってきたところで、次期社長を発表する、という映画の背後で繰り広げられる小沢の出世欲をめぐるエピソードと、中山の「ニューヨーク」は結びついています。

高峰は、恐らく何があっても、子供と無理心中をするタイプの母親ではなく、子供と共に生きていくために、どこまでも戦う母親だったと思われます。すべての愛情の対象を失ったがために、復讐しかすることがなくなった高峰は、エゴイズムが家族関係を破綻させている司葉子の家族とはまったく違う情の持ち主です。だから、すぐに司の子供にも情が移ってしまう。子供がじっと見つめると、つい微笑んでしまう。しかし、それでは死んだ自分の子供のことが割り切れない。高峰は司の子供を殺して、司に同じ苦しみを味あわせずにはいられないのです。その両極の揺れ幅を演じる高峰の演技は素晴らしいのですが、それはさておき、その高峰が一家に入り込むことで、この裕福な家庭に於けるカメラが映し出す端正な風景は、複雑なゆがみを帯びて生きます。直接的には、高峰の夢想があります。司への復讐のため、子供の殺害や小沢を誘惑する高峰の夢想が、露出オーバー気味の映像で現れ、それを高峰は、まったく同じ動作で実行しようとする。そうした殺意や悪意が、風景に与えるゆがみです。しかし、それは同時に、自分の子供と重なる司の子供への高峰の情愛を伴いもします。そして更に、高峰のそうした複雑な思いなどお構いなしに繰り広げられる、司や小沢のエゴイスティックな行動があり、端正に見えても元々一家が抱えていた歪みが、高峰の策略で浮き上がってきます。そしてその果てに司の心中があるのです。

この映画では、人間関係の中に存在する病は、あまりに深く、しかも相互関係の中で避けがたく存在しています。冷徹に、それを浮かび上がらせる成瀬の演出は、残酷極まりない。それは2つの子供の死の残酷さではないのです。その病が、癒えようも無いところにあります。

車は、成瀬において最悪の病なのかもしれません。「女の中にいる他人」「秋立ちぬ」でも思ったことです。あるいは、車が不気味な音を立てて走る道路は、成瀬の(死と深くかかわる)川や海が、転移したものかもしれません。高峰が、司の子供を橋の下から投げ落とし殺すことを夢想するシーンでは、橋の下が川ではなく谷底を走る道路であることを見出します。これは恐ろしい死の病です。道路は、川や海と違い、この世界に偏在しているからです。そして、そこからは抜け出しようが無いわけです。がん細胞のように、この世界を圧倒的に蝕んでしまっているのですね。

そういえば、この映画では車は、どこへも向かっていくことは出来ません。愛人と車に乗る司葉子は、家に帰る途中に事故を起こします。小沢のバイクのプロジェクトで、猛スピードで走るバイクは、しかし閉ざされたトラックをただ回るだけです。そもそも、スクリーンプロセスの車は、動いてすらいません。そして、道路を走る車は、どこに行くという目的をすべて剥奪されて、死の川の流れを形成し、この世界を縦横無尽に走り、誰も彼もをそのうちに閉じ込めていくのです。

そしてそのイメージは、司葉子一家の中を無数に走っている、もうひとつの死の象徴、ガス管とも呼応するでしょうし、そのガス管の、端正な表面の裏側にある死のイメージを感じ取ると、そこにこの一家の壊れた関係をも想起されるのでした。

高峰秀子司葉子の子供を殺そうとして、子供が寝た隙にガスストーブの火を消し、再びガス栓をひねります。耳を塞ごうとも聞こえてくるガスの「しゅー」という音にも、成瀬の世界における、避けがたく誰も彼もを支配する病の症候を見ることが出来ると思います。それは「女の中にいる他人」に結び付けて考えることも出来ると思いますし、また、成瀬の音をめぐる映画として決定的な「お国と五平」という傑作を思い出してもいいのかもしれません。

*1:ちょっと不思議な走り方をする子供です。両手を腰に、握ったこぶしで揃え、まるで軍隊で兵隊が上官の命を受け小走りで走ってくるような様子で、一直線に走るのです。何故か印象に残ったので…