成瀬巳喜男(14)/ 羅針盤「むすび」

BGM : 羅針盤「むすび」

むすび

むすび

いきなりアルバム自体とは関係ない話ですけれど、羅針盤を買う人のお薦めは、はまぞうでチェックしていくと、どうもムーンドッグらしい(笑)。いや、好きですよ、ムーンドッグ。だけど、そうなんだー。へーって思います。

どうも掴み所がないアルバムです。しかし、音はとてもいい。ちょっと聴き続ける必要がありそうです。T6の表題曲「むすび」とT7「とびら」がとりあえずいい感じ。

さて、そんなこんなで、成瀬巳喜男の話です。

以下、「銀座化粧」「腰辨頑張れ」「妻」「薔薇合戦」ネタばれです。

成瀬の映画において、空を見上げるという行為は、例外的なものです。無条件に広がる空は、恐らくは成瀬的な空間ではないのだと思います。しかし、だからこそ例外的に空を見上げるシーンでは、ひどく純粋な美しいものが達成されもします。たとえば、現存する成瀬の最初期の作品、「腰辨頑張れ」では、おもちゃの飛行機を病床の息子に差し出すことで、空を飛ぶイメージが映画に与えられ、子どもがずっと欲していたそのおもちゃが、子どもの命の回復と重ねられていきます。そして先日見た「銀座化粧」で言えば、香川京子と堀雄治が、夜空を見上げながら星座の話をして、心が通い合うシーンを思い出します。しかし、では空を見上げると、誰もが幸福になれるというわけでもありません。そこには、確かに幸福が見えるかもしれない。けれど、香川京子同様に堀雄治と夜空を見上げ、詩を語り合う田中絹代は、こんな男性と共にいられたらいいと思うわけですが、あっけなく香川京子に取られてしまうわけです。幸福は、空にある、というだけで、それが必ずしも得られるわけではないのです。成瀬は、その落差を積極的に演出するために、あえて本作では空を見上げるという行動を、香川と田中に繰り返させたのでしょう*1

しかし、それは他方で、田中が銀座というネオン街のまばゆさ、きらびやかな見た目=化粧の裏で、人間として生き、弱いながらも輝こうとしている存在がいること、つまり(中島みゆき的になってしまいますが・笑)地上の星的な存在があることを、堀に主張してしまうシーンからもわかるとおり、仕方のないことだったのかもしれません。田中こそが、子供を抱えながら身持ちを崩さず、銀座という場所で、どうにか生きている人間だからです。田舎の人間的な生活の輝きは、田中が都会に染まらないように庇護してきた香川に、やはりふさわしかったのだと思います。

「銀座化粧」は、成瀬の映画としては比較的判りやすい二項対立を行っていて、その分、香川と田中の立ち位置の違いが強調されているといえそうです。これに対して、たとえば「妻」という作品は、倦怠期を迎えた上原謙高峰三枝子の夫婦の危機を描いた映画ですが、その二者の関係を強い対立軸としてみることが難しい作品になっていて、むしろこちらのほうにより成瀬的なものを感じ取ります。単純には割り切れようの無い、細やかな複数の人間関係。正しくは「銀座化粧」も、田中と香川の対比を除けば、あとは銀座に生きる人々の細やかな関係性の映画としてあると言えます。

「妻」は、すでに互いに擦り切れたように感じている生活を、夫と妻がそれぞれの内面の声で明かすところから始まる映画です。夫婦の間の微細な出来事のひとつひとつ、たとえばお茶でうがいする妻の色気の無さに、夫がげんなりして、今と続く寝室にひいた布団の中で、ぷいと背を向けるといった描写を通して、生活の中に無数に走っている夫婦の間のひび割れを丁寧に描いて持続させていく映画なのです。もちろん、丹阿弥谷津子上原謙の浮気、という大きな物語の柱もあるのですが、その丹阿弥谷津子が身を引いてしまうと、あとは結局、二人で暮らすその空間だけが残ってしまいます。すると、確かな愛情などもはやどこにも見えない、ただ互いに共にいることはいる夫婦という風景が、最後取り残されてしまう。それまでは、間借り人の美大生・三國連太郎に代表される笑いに彩られた映画だったのが、物語の終わりにあっても、愛情や関係の確かさの再発見などを一切興味が無い成瀬の演出の突き放し方によって、冷え冷えとした空間に行き当たってしまうわけです。なるほど、成瀬の映画だなぁ、と思うわけです。

新聞を読めば、間借り人のパトロンの妻が、服毒自殺したと出てくる。その夫婦の関係が、上原と高峰の関係と、それほど大きく違うものなのかどうか。自殺したその妻は、夫の愛人と話をつけるために、高峰と上原の家にやって来るシーンがありました。それと同様に、高峰もまた、東京に来た丹阿弥谷津子の宿泊先を訪ねて、別れるようになじるのです。それで丹阿弥谷津子は身を引いたために、上原と高峰は、一つ屋根の下に変わらずいるといえます。しかし、それはひとつ間違えれば、まったく違ったことになっていたということでしょう。映画の前半、上原と高峰の家に間借りしていた夫婦は、妻が夫を捨てて去っていってしまいます。それは夫の稼ぎがなく、妻が女給をして夫を食べさせていたからです。それもまた、上原と高峰の、ひとつ間違えれば…の姿だったかもしれません。しかし、それらが物語として、それぞれの一応の決着を迎えるのに対して、上原と高峰の場所は、更に厄介であると感じます。夫婦であり、一つ屋根の下に住んでいる。しかしそれ以外の何も、二人の間には残されていない。その停滞のなかの、埋めがたいひび割れを、そのまま成瀬は示すのです。

「銀座化粧」と「妻」が、それぞれタイプは違えど、成瀬的な題材の作品であるとして、「薔薇合戦」という作品は、どこか成瀬的ではないものを、冒頭から漂わせます。そもそも、化粧品会社乗っ取りとか、会社から追い出された女史が別の化粧品会社を立ち上げて、市場を席巻するとかいうと、どうも全体的なイメージが成瀬的ではない。成瀬巳喜男の社会派的な側面は、不可逆的な時代の移り変わりの中で生きる市井の人々を描く、という形を多くはとっていて、こうした経済的強者の活躍(例え最終的に破綻するにしても)から描くというのは例外的だと思うのです。しかし、だからこそ部分部分の成瀬的な冴えが、浮かび上がる気がします。たとえば社長になった長女・三宅邦子の指示で政略結婚させられた次女・若山セツ子が、何一つ抵抗できず、あっという間に新婚旅行の電車の中にいるシーンの残酷さなどです。その次女が、本当は心惹かれながら、なかなか結ばれない、やり手宣伝部長の鶴田浩二のキャラクターなどは、いい男すぎて逆に成瀬的ではないというか、物語的には、彼はそういう役でないと破綻してしまうので、改編の余地がないのだと思いますが、成瀬の映画ですから、どこかダメであって欲しい(笑)、しかし駄目なところがないだけに、どうも腑に落ちないのです。

しかし、だからこそ駄目な男は徹底的に駄目です。三女・桂木洋子と同居しない結婚を敢行しながら、実は妻も子もあった男(配役失念・大阪志郎??)などは、最初は映画会社のスマートな宣伝マンという風体だったのに、途中から女性に金の無心をするだらしなさを見せたかと思うと、最後にはスキャンダルをばらすと強請るような男に成り下がりますし、またその妻はもっとすごくて、桂木のもとに突然現れると、夫のことをネタに更に金をたかろうとするのです。この、ふてぶてしい妻が桂木のアパートに現れるシーンは、本作の白眉で、赤ん坊を背負ったままあがりますよ、といって玄関に入ってくると、部屋の真ん中で子どもを背からおろし、無断でソファーのクッションを奪うと、その上に寝かせる、子どものいる母親の嫌な傍若無人さを最大限発揮するシーンの一連の演出は、なるほど、成瀬なのです。

それら、成瀬的なシーンは、この映画の全体の中では、むしろ停滞として働いている気がします。しかし、若山を殺しかける永田光男の過剰なシーンを始め、逆に物語全体を破壊しかねない男性の駄目さ加減に、ああ、成瀬だなぁと思うとも言えそうです(笑)。そうした、なだらかな展開を敢えて切断する驚きを敢えて映画にしていく成瀬の演出は、他の作品でも見つけられます(「薔薇合戦」でうまく行っているかどうかは別にして)。たとえば「三十三間堂通し矢物語」の長谷川一夫の弟役を思い出してもいいでしょう「まごころ」や「生さぬ仲」の祖母を思い出してもいいかもしれません。そして、「お国と五平」の山村聰ですね。「お国と五平」も見直したので、その話を書きたいのですが、また日を改めたいと思います。

*1:ところで、成瀬において打ち上げ花火は、幸福な風景を意味しているのですけれど、それは空を見上げる人々にとってであって、たとえば「女の中にいる他人」で、子どもたちが花火を見物するシーンでは、それを見物せず、その音の侵入を許しているだけの新珠と小林桂樹は、逆にどこまでも、幸福から切り離された存在となるのです。