靖国参拝 / エスケープ・フロム・L.A. / ジョン・カーペンター(ミュージシャンとしての)

BGM : John Carpenter 「Dark Star」OST

Dark Star

Dark Star

サイケなシンセからはじまる、ジョン・カーペンターのデビュー作「ダークスター」の、ジョン・カーペンターによるサウンドトラック。名盤です。あのへんてこ楽器の音も収録されています。ああ、気持ちいい。

さて、そんな雰囲気を頭にイメージしながら読んでいただけると嬉しいです(笑)。2005年10月17日(月)、小泉純一郎首相が靖国神社参拝をしたそうです。総選挙に配慮して8月15日は避けたと思われますが、信念の男としては、どうなのか、私には今ひとつ彼の言う「信念」がよくわからないのでした。それはさておき、テレビの報道を鵜呑みにしてしまうと、10月17日という選択や参拝の仕方にも、様々な配慮があったようです。参拝の是非を、今日は私は問題にしたくないのです。ただそうした「配慮」と、ジョン・カーペンターの映画を並べてみたいだけなのです。

もうだいぶ前ですけれど、クレイジー・サーフ・ナイト─爆音サーフの夜─の最後の1本、「エスケープ・フロム・L.A.」を見てきました。ジョン・カーペンター監督の傑作の1本です。「ニューヨーク1997」の続編にあたる本作は、今度は地震のため壊滅し、今や犯罪人たちの流刑地となっているロサンゼルスを舞台に繰り広げられるSFアクション。最初に見たときには、ピーター・フォンダカート・ラッセルのサーフシーン(地震の直後、深い谷間の底から、押し寄せてきた津波の波=文字通りビッグウェイブに乗ってサーフィンするのです)に、異常に興奮し、目頭が熱くなったものです。ああ、こういう大人になりたい、という切なる願いがふつふつと沸き起こって。それにしても、崖上を走るスティーヴ・ブシェーミの車に波の勢いで飛び乗ったカート・ラッセルはよいとして、手を打ち合って別れ、そのまま波の中に残ったピーター・フォンダは、いったいどこまでサーフィンしていったのでしょう?

エスケープ フロム L.A. [DVD]

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ニューヨーク1997 [DVD]

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爆音にふさわしい映画です。ジョン・カーペンター自身によるサウンドトラックの、まったり単調な音の響きが刻むのは、平然と後戻りできない道を進む(しかも世の中的にはとんでもない方向に向かっていく)者の胸のうちに響く、自身の意思としての足音のようです(この映画に限らず、ジョン・カーペンターの映画の音楽全般に感じることですけれど)。「クリスタル・ボイジャー」の場合、爆音の上映は、映画を見る・聴く快楽に直結していたのですけれど、「エスケープ・フロム・L.A.」の場合、爆音は、はじめから爆音のために作られていて、その自然さに爆音であることを忘れるという感じでした。いや、爆音であることでもちろん強まったものはあるのです。ただ、それは、おそらく、爆音でなくても、この映画を通して、見るものが自らのうちにおいて爆音に変換すべきものであったはずの音を、爆音上映を通して、はなから必要なだけの音量に高めてもらった、ということなのです。と、断言するのも、かなりインチキですが(笑)。しかし、いったいどういう確信があれば、こうした映画を作ってしまえるのか?

ピーター・フォンダのサーフィンと同様に、どこに向かうのかというのはさておき、とりあえずこの「魂」の問題と向かい合う、ということなのかもしれません。言い換えれば、どうこの「波」を乗りこなすか、ということなのでしょう。だとしたら、そこにあるのは確信ではなく、なすべきことをなすという当たり前の行動であり、その結果どれほどおかしな場所にたどり着いたのだとしても、それは必然的結果に過ぎないのです。だとしたら、そこで求められるスタイルは、動じずに、それを受け入れていくことです(その意味で、カート・ラッセルのスネークは最強です)。カート・ラッセルが、潜水艇のオーバーヒートなど気にせずに、無理やり高速で操縦するシーンも思い出されます。それは、結果的にどうなるか、などということは関係なく、いま、この乗り物で、最高のスピードを出すことが、「魂」の問題としてカート・ラッセルに必要だったということでしょう。

以下、ネタばれです。

あるいは、映画のラスト、世界中の電気エネルギーを消滅させてしまうカート・ラッセルの、全否定の身振りです。私のように、「世界中の電気が消えてしまったら、無数の事故が起こるだろうし、重い病気の人も治療が受けられないし、まずいのではないか」とか、結果を考えてはいけないわけです。そうではなく、どの権力に渡しても(アメリカの大統領側に渡しても、敵対するテロリスト勢力に渡しても)、それが「権力」を生き延びさせてしまうなら、「魂」の問題としてそれを否定する、そのためにはなすべきことをする、という正しいでたらめさです。

「魂」とは何なのか、ということなのですけれど、映画の最後、カート・ラッセルが拾い上げるタバコにあるように、それは「アメリカン・スピリット」と名づけられています。では「アメリカの魂」とは何か。その前提条件として、その「魂」はどうやら大統領とも国とも関係なく、文明とも平和とも関係ないようです。そうした権力や形式に囚われたものではなく、恐らくは地下水道で撃たれ足を滑らせたカート・ラッセルが、流されて谷間にたどりつくと、津波が来てサーフィンし、崖上へとたどり着くような、そうした、隙間を潜り抜け、又は跳ね上がって飛び越えながら、アメリカの中で生きながらえてきた「魂」であるのだろうと。まあ、それに気づくための「クレイジー・サーフ・ナイト」の連続上映なのだろうと思うわけです。

この世界に、穴=チューブがあき、そこを「魂」がサバイブしていくのです。

その「魂」には、当然、映画の歴史が深くかかわっていると思います。カート・ラッセルの足元には都合よく空き缶が転がっており、それを放り上げ、落ちたら撃つ、メキシカンスタイルだ、と銃口を向けた4人のガンマンに告げる。ピンチです。しかし、放り上げ、落ちる前にあっという間に(卑怯にも!)4人を撃ち殺してしまうカート・ラッセルは、別段、正義を生き延びさせようというのではないのです。空き缶を放り、そして殺しあう、その映画としての「魂」を、サバイブさせているわけです。潜水艇で、サーフボードで、バイクで、車で、グライダーで、ヘリコプターで、空や地下道や海の底をすり抜けて、スピードを上げ、突き進んでいく、そのスピード、複数の運動の形態、ロサンゼルス廃墟観光地めぐり的なフットワークの軽い運動も、映画の「魂」の問題です。単調な爆発が繰り返される映画など、ジョン・カーペンターは作りません。それは一種の権力の押し付けだからです。うねるような奇妙な運動が、スピード感を伴って様々に繰り広げられ、この世界の隙間や裏側に開かれた穴を、すり抜けていかなければなりません。

ところで管理統制された世界から再び人間を解放するスネークは、その名において旧約聖書の蛇でもあるのだなぁと思いました。あの蛇が、映画の闇をすり抜けて、生き延びている。

「どの権力に渡しても(アメリカの大統領側に渡しても、敵対するテロリスト勢力に渡しても)、それが「権力」を生き延びさせてしまうなら、「魂」の問題としてそれを否定する」…ジョン・カーペンターは彼なりの怒りで、アメリカを破壊していくわけです。ここで、アメリカの民主主義がおかしくなってきたのを、ここで「ゴースト・オブ・マーズ」(2001年)以降、ジョン・カーペンターが映画を撮っていないからではないか、と仮説を立ててみることにします。もちろん2001年には911がありました。2000年の大統領選で勝利したブッシュ・ジュニアは2004年再選を果たしました(「エスケープ・フロム・L.A.」のなかで、地震のさなか、一人だけテーブルの下に頭を突っ込んでいた大統領は、万事休した状況の中で、神に祈ると飛び出していったとき、私は、ブッシュ・ジュニアを思い出したのでした。どことなく似ていますよね。演じているのはクリフ・ロバートソン。少なくともクリントンには似ていない。正しくはブッシュ・シニアに似ていたのかもしれません)。2006年に向け、ようやくカーペンターは、2本の新作を準備しています。まじめな話、アメリカだけではなく、今後の日本の民主主義のためにも、ジョン・カーペンターをみんなで見る、というアイディアは素敵だと思います。そして、みんなして、革ジャンを来て選挙に乗り込みましょう。胸に、爆音で、ジョン・カーペンターの音楽を響かせながら、ですね。