羅針盤「いるみ」/ マリオ・ヴァン・ピーブルズ「バッドアス」/ フセイン大統領

BGM : 羅針盤「いるみ」

いるみ

いるみ

羅針盤のアルバムは、私の持っている3枚はどれも、全体としてまず聴いて心地よくできているのですが、その中に、とても気に入る曲があって(それは微妙な違いでそうなるようなのですが)、このアルバムだと、T5「足りないもの」です。

昨日の続きって感じですけれどマリオ・ヴァン・ピーブルズ監督が、ブラックパワー・ムービーの草分け、父メルヴィン・ヴァン・ピーブルズの大ヒット作「スウィート・スウィートバック」の製作秘話(?)を映画化した「バッドアス」を見てきました。

そこで思ったのが、映画のヒットの法則です。まず、手付かずのジャンルを開拓し、手付かずの客層を強く引き込むこと。これはビジネスとして有効です。しかし、ブラックパワー・ムービーの流れとしては、微妙なものがあるのかもしれません。「スウィート・スウィートバック」にあった《黒人社会の現実》や《怒り》は、結果、黒人映画のマーケットを活性化することで、あるジャンルが、それらしくあることによって成立する(それが絶えず求められる…つまり怒りの問題ではなく、繰り返しの問題になる)という衰弱の可能性を、その最初の時点から内包してしまったのではないか、と思うからです*1。マーケットが開拓されたら、それをどう維持するか、という問題にどうしてもつながっていく。これは、すでに存在しているマーケットに対して、どう距離を置き、闘争/逃走を繰り広げるかと大きく異ならざる得ない、例えばニューヨークにおけるジョン・カサヴェテスのスタート地点と、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズのスタート地点の差は、とても大きいのかもしれません。

例えばジャズ、例えばHip Hopというジャンルについて言えば、そこでの「黒人の戦い」は、既存の流れに対する闘争/逃走となり、新規に新しいジャンルを、新しくは無いルールで立ち上げるといった努力・闘いは不要だと思うのですね。しかし映画では、白人からまずは映画の物語を取り戻す必要があった。しかしそれでは映画として「新しかった」わけではないのです。では黒人を描く映画が不要だったかというと、絶対にそうではない。やはり作られるべくして作られたといえます。そこに、更に難しさがあります。

マリオ・ヴァン・ピーブルズが、父親が戦いを通して一切仮想敵ともしなかったもの(ジャンルをマーケット的に確立することで、閉塞してしまう可能性)の存在を大きく取り上げるわけに行かないのは当然です(何故なら、本当に格闘すべき敵があったのだから)し、興行的な勝利を映画の勝利と結び付けて語ることも、決して間違っているとは思いません。黒人が黒人の現実と怒りを映画にし、映画=ビジネスにおいても勝利する。これはとてもすがすがしいことです。ただ、そこにどう留保を付け、粘り強く慎重に考えていくか、これは、別にこの映画の問題として重視したいわけではないのですが、とても難しい問題だと感じるのです。…といったことを考えさせられる映画でした。

昨日は、イラクフセイン大統領(現・元?)の裁判が報道されていましたね。国際法イラクの国内法をつぎはぎにした、アメリカの影がちらつく政治的な法廷は、どのような裁決を下すのか。そもそも「政治的な法廷」は、正しく裁決を下せるのか。その「正しさ」とは何なのか。そして、フセイン大統領がクルド人虐殺において有罪だとして、ではイスラエルパレスチナ人虐殺において有罪ではないのか、ブッシュ・ジュニアイラク爆撃でウラン弾を撒き散らかしたことにおいて有罪ではないのか、まあ、そうした素朴な疑問がぽこぽこ浮かんでくるのでした。そのアメリカに賛同・協力してイラク戦争をサポートした日本、そしてそのサポートを判断した与党に票を入れた日本人、というところまで、当たり前のように考えは繋がってもいきます。ふぅ。

*1:だから、矢口史靖の「スウィングガールズ」は、その作用において「ウォーターボーイズ」とまったく同じ物語でなければならなかったのです、とか書くと唐突ですか?