タッチ / ダチョウ / 川本真琴

そういえば川本真琴は、今何をしているのでしょう。

BGM : 川本真琴「gobbledygook」

gobbledygook

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iPodに、カラオケで歌うための曲を放り込み中なのですけれど、いいのですよ、川本真琴。歌えないですけれど。いや、まあ、でも、いいか、入れちゃえ。えい。T2「ギミーシェルター」T12「桜」のシングルカットもされた2曲がやはり一番盛り上がりますが、ヒット曲になるにはあまりに「難しい」T6「ピカピカ」もそういえばシングルカット曲でしたね。商業的な要請には合致しなかったろうことは、容易に想像できます(実際売れなかったみたいだし)。でもその歌詞も含めて、まさに川本真琴の曲なのですけれど。こういうポップソングが生き残っていけないのは、やっぱり悲しいことではあるなぁ。

ブッシュ来訪にあわせてアメリカからの牛肉輸入解禁が進むのではないか、と言う報道を見ました。BSEだけが食の問題ではないので、この問題だけ過敏になる傾向はどうかと思うのですが、それと、他国の圧力に屈して食の安全という大原則を歪める、というのは別の問題ですね。

話が横滑りするのですが、いま自分の食生活の見直しをしていまして、まあ、確かに牛肉は美味しいですけれど、とはいえ健康を考えれば、時々の贅沢くらいに抑えようかなぁと。鶏肉中心にして、脂身は避けて…なんて感じで。そのようなわけで、唐突に聞こえるかもしれませんが、ぜひスーパーで販売を開始してほしい(もちろん安価で)と思うのがダチョウなのです。ダチョウ料理が好きなのです。好きといっても、そうたくさん食べる機会があったわけでもありません。最初は渋谷の某店で、物珍しさから食べたのですが、あの鉄っぽい(?)赤み肉の味にはまりました。それから数回ですかね、食べたのは。なかなかメニューにダチョウ料理のあるお店は多くないですし。

調べてみると、日本オーストリッチ事業協同組合(JOC)というのがありました。「今なぜオーストリッチ(ダチョウ)なのか」、という記載が面白かったですね。以前から小耳に挟んではいたのですが、なるほど確かに比較表を見ると他の食肉よりもヘルシーです。そのうえ(好みは別れるのかもしれませんが)美味しいし、素晴らしい!と思うのです。ダチョウ肉の飼育・流通が進むことを、切望します。

このJOCのHPの手作り感もいいですね。まだこれから始まる産業に参加する人たちの手探りする様子を重ねて見て、そう感じるのですけれど。これはバイアスのかかった見方です。

ところが更にいろいろ調べてみると、新しい市場を担う魅力的な「商品」として、国外では過剰な投機商品化したこともあるようですし、また国内でもダチョウ詐欺といった奇怪なことが起こったみたいです。独立行政法人農畜産業振興機構(ALIC)のHPで「ダチョウ」を検索してみたところ、オーストラリアでは一時期、540万円の値をつけた種鳥が9万−18万円(1999年)になったといった記載も見つかり、なるほどなぁと思うわけです。食料という生活に必要なインフラを構築する必要がある一方で、そこに新たに開ける市場は、過剰に期待されるがゆえに市場自体が経済実態を伴わないまま商品化されて、過剰なお金のやり取りが生まれていき、そしてどこかで破綻する。また、当然そうした中で詐欺なども起こってくる、ということなのでしょう。ただ問題は、それが最低限必要なインフラ構築の足を引っ張るということですね。

と、ダチョウの話ではすまなくなりそうです。いろいろなことに当てはまりそうですから。

犬童一心監督は「タッチ」を作るに当たり、アニメのファン、コミックのファンに、この映画をどう見せるかを、かなり綿密に考えたのではないかと想像します。コミック、あるいはアニメにおける、いくつかの決定的名場面をそのまま再現しよう(たとえば高架下で、過ぎ去る列車の窓から漏れる光を浴びながら、朝倉南=長澤まさみが、上杉克也の死を受けて激しくなくシーンなど、構図まで含めてアニメのそれを彷彿とさせるショットです)、多少スマートでなくとも、コミックの基本設定はそのまま生かしておこう、といった姿勢に見え隠れしています。そして何より、ユンナがカバーしたアニメ主題歌「タッチ」を、どこで使うかについては、かなり意識的であったと思います。

それは、恐らく制約でもあったはずです。ところが、その制約の中で、あえて映画を成立させる、というのが、犬童一心のこの映画におけるモチベーションだったのではないか、と想像しています。恋愛の視線劇(三角関係)と、甲子園という目標に向かってプレイをする上杉達也と、それを見守る朝倉南や上杉の友人たちという二重の視線劇、しかも球場の中心に立つピッチャーという存在が、前半と後半で、双子の兄弟で入れ替わるというのは、思えば確かに映画的な可能性を帯びていたのでした。それを、あだち充的な、べたな持続(それは凄く高度な芸風でもあるのですが)を避け、有名なエピソードは残しながらも、ダイジェストにはならないよう、いくつかの主要人物にはあえて踏み込まず(たとえば新田明男と朝倉南の関係は、まったく踏み込まれない)、逆に原作ではそう大きな役ではない原田正平(RIKIYA:主役を完全に食ってしまう演技でした)を、友人代表のような存在としてキーパーソンに変更し、物語の分散を避けるなど脚本上の工夫を丁寧に行っていると思うのです。そして、上杉克也=死者の場を上杉達也=生者が、遺志を引き継いで取って代わるというモチーフゆえに、その双子の母親(吹風ジュン)が、朝倉南とは別種の視線を上杉達也に向ける存在としてクローズアップされていくのも、やはり映画的必然でしょう。

制約の中で、逆に映画を見出していく、そんな犬童一心監督の健康さが、心地よい映画なのでした。