この胸いっぱいの愛を / 椎名林檎「唄ひ手冥利」

BGM : 椎名林檎「唄ひ手冥利」

唄ひ手冥利~其の壱~

唄ひ手冥利~其の壱~

カラオケで歌おう(でも歌えない)シリーズ第2弾です。この2枚組みでは、Disk1のT1「灰色の瞳」でスピッツの草のさんとのデュエットがまず印象的。長谷川きよしも好きです(笑)。それからT3「小さな木の実」T5「白い小鳩」、Disk2は宇多田ヒカルとのデュエットT4「I Won't Last A Day Without You」。カーペンターズですね。本気でどれも歌えないじゃん(笑)。

塩田明彦監督というと「どこまでもいこう」「害虫」「カナリア」と、動物と大人のちょうど中間の、思春期にある少年少女の危うさを、俳優たちの演技を巧みに引き出しながら演出する監督であり、また同時に女性が、エロティックな引力・求心力でその世界の中心を占めるかのようにスクリーンに強くあるのを示す監督であり(たとえば「害虫」「カナリア」のりょうの美しさは印象的ですし、「ギプス」の佐伯日菜子、エロスを伴ってはいないですがやはり圧倒的な存在としての「カナリア」の甲田益也子なども思い出されます)、そして、その二つが接続され、少女が大人になっていくのを描く(たとえば「害虫」の宮崎あおい、「月光の囁き」のつぐみ、「ギプス」の尾野真千子)監督でもあると思います。

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エロティックな引力・求心力を発生させる女性とは、彼女が彼女であるだけで何かの確信を帯びている、それ以外の何者にも変化しない(後戻りできない)ような存在です。つまり「女は女である」でしょうか。しかし、その強さが、人間的な弱さを排するわけではありません。むしろ、無数の揺らぎがある。しかし、後戻りできない以上、彼女たちは、彼女たちであるしかない、そんな場所に置かれるわけです。

では少女たちはどうかというと、彼女たちは「「女は女である」女になる」わけです。その後戻りできない変化が、塩田明彦の描く少女たちであると思います。時には少年であっても、「カナリア」の石田法嗣などは、まさしく後戻りできない変化を蒙って、エロスとは別種のものですが、強い確信を帯びて前に進む存在と言えそうです。

そうした、塩田明彦の(主に)女性たちに見られる不気味な存在感を、「この胸いっぱいの愛を」ではミムラが担うわけです。バイオリンを弾くシーンでの、彼女の有無を言わさぬ立ち姿の美しさに、塩田明彦の映画が、まずはあると思います。または、出産を控えた臼田あさ美の存在感ですね。しかし、そうした存在を描く映画としては、この映画の主軸はぶれているとも言えそうです。むしろこの映画は、強く存在する女性の周囲で、それをあがめる男性の、女性の輝きに惹かれる影のような、亡霊的な存在を描いている、と言えそうです。

以下、ネタばれです。

正確には亡霊的、というか、伊藤秀明ら4人の20年前に戻った人間たちは、飛行機事故で全員死んでいて、過去に戻ったことが映画中盤で判る、つまりまさしく亡霊だったわけですけれど。愛するミムラを死の運命から救うために伊藤秀明は亡霊になって戻ってきたといえそうです。が、この映画が奇妙なのは、当初の伊藤の記憶では、ミムラこそ少年時代に死んでおり、つまり彼女も記憶=亡霊のような存在なわけです。そして、伊藤自身も亡霊だとしたら、種類は違えどこの映画は、亡霊たちの集う映画なのですね。その亡霊の国を抜け出して、ミムラが生き始めるまでを描いている。つまり彼女は、前に進んだわけです。とはいえ、歴史が変わりミムラは生き続けるものの、彼女の真に愛する存在は、20年前に出会い、そして現在は死んでいる伊藤秀明なのです。だとしたら、その幸福は、実は亡霊たちの集う場所=愛し合うすべての人々がいる場所のイメージが、映画のラストシーンを飾るのです。彼女は、生きている限りそこには戻ることが出来ないのでした。あるいは、そこを抜け出して、生きてきたわけです。ここにこの映画のアンビバレントなところがあり、愛の物語でありながら、その土台自体が危うい世界を提示しているわけです。ミムラが生きるこの世界は、愛の世界ではないということです。すでに対象は失われているのですね。そして、20年前にタイムスリップする前の伊藤にとっても、ミムラは失われた存在だったわけです。

こうして塩田監督は、「黄泉がえり」で曖昧に愛の物語として成立させてしまったものを、自らつき崩したのかもしれません。

ところで「月光の囁き」で言えば、水橋研二が、つぐみをあがめる存在としているのですが、このあがめる存在としての水橋は、実は非常に強くもあります。むしろ、つぐみを支配していたのは、つぐみをあがめる水橋であった、水橋のためにつぐみはあがめられるに足る存在へと自身を変えていくわけです。その意味で、共犯的・主犯的な存在である水橋と、「この胸いっぱいの愛を」の伊藤秀明勝地涼は通じる部分もあります。伊藤らは、亡霊として20年前に舞い戻っており、思いを遂げると消え去る運命にあります。しかし、自分が消え去ってしまうのだとしても、愛する存在のためなすべきことをなそうとする点で、やはり強い意志を持っているわけです。ただ、二者の欲望の葛藤としてある「月光の囁き」や、この世界に対する受け入れがたさを暴走させていく少女を描いた「害虫」に対して、「この胸いっぱいの愛を」は欲望において弱い気はします。亡霊の世界であれ、ユートピアが存在してしまうのは、塩田監督らしくない、とも言えるかもしれません。「カナリア」のラストで、ZAZEN BOYSの音楽の中、石田法嗣谷村美月が歩いていく先に広がる世界、あるいは「害虫」で宮崎あおいがたどり着く世界の、過酷さと、それに対して少年少女が示す強さに、私はより強く塩田明彦監督の可能性があるのではないか、と思うのでした。

フェリー乗り場で、慕うミムラの命があとわずかと知った少年が、東京の母親の元へ逃げていこうとするのを、伊藤秀明が引き止めるシーンの長回しとか、うまいなぁと思ってみていました。子供が子供の力いっぱいで、引きとめようとする大人の、抱きしめる手を引き離そうとする、大人は、傷ついている子供の心を最大限配慮しながら、それでも引き止めつつ励まそうとする。そういう二者の関係を、身体の動きで切実に表現していこう、ここは長回しだよね、という作家としての、塩田監督の良質さに打たれるといいますか。そういえば、「黄泉がえり」でも、草なぎ剛竹内結子伊勢谷友介が海岸で遊ぶ長回しのシーンは、良かったのを覚えています。