ふたりの5つの分かれ路 / キリンジ

BGM : キリンジ「3」

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カラオケで歌おう(でも歌えない)シリーズ第3弾(笑)。このアルバムはやっぱりT6「エイリアンズ」ですね。偏愛。あとはT1の「グッディ・グッパイ」、T3「アルカディア」。でも、全般的にまとまりのいいアルバムだと思います。キリンジは、これともう1枚持っていますが、どうも、買い進めていく気力が出ないのは、このアルバムだけで充足してしまうからかもしれません。

フランソワ・オゾンの最新作「ふたりの5つの分かれ路」を見ました。正直なところ、この邦題から私は、アラン・レネの「スモーキング」「ノー・スモーキング」のような作品、つまり「あのとき、こちらの道を選んでいたら、こういうことになったはず」といった映画か、またはロジャー・ミッチェル監督「チェンジング・レーン」のように、「あの時こういう道を選んだからこうなった」というような、分岐が、1組のカップルに5つ訪れるという映画を想像していたのですけれど、見てみるとだいぶ違っていました。というのも、この映画では決定的な分岐は描かれておらず、替わりに、幸福なはずの出会いや結婚の時にも、離婚のときにも、男女の関係は、ただただ不安定で不確かである、ということだけが繰り返されているからです。その繰り返しを、離婚のエピソードから出会いまで、5つの人生の節目に合わせてさかのぼる形式は、フランソワ・オゾンらしいアイロニーだと思います。

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以下、ネタばれです。

最初の3つのエピソードまでを見る限りでは、離婚に至るカップルが、出会いの時点の幸福から、不可逆的なすれ違いを経て分かれていくまでを描く変化の映画と見えるわけです。離婚直後、最初は合意で、しかし最後は元夫が元妻をレイプするような形でセックスするエピソードにおける、心を互いに残しながらも決定的な拒絶が宿るエピソードが、次に、夫の兄とその男性の恋人を招いたパーティの一夜のエピソードにうつります。そこでは、離婚に至る決定的な理由かどうかはわかりませんが、夫婦が以前、乱交パーティに参加し、夫が妻に、一緒に参加するならと促したのに断られ、妻は夫だけに参加しろといい、夫は参加、妻はそれを見ていたという告白が夫婦からなされます。そして、その次のエピソードでは、胎盤の異常で急きょ出産することになった妻が苦しんでいるさなか、恐れからか立ち会おうとしなかった夫のエピソードがあります。と、ここまでであれば、男女が次第に心を離していった過程と見ることも可能です。

ところが、その次のエピソード、夫婦の結婚の晩、酔いつぶれてしまった夫を置いて、興奮冷めやらぬままホテルの外を散歩する妻が、偶然居合わせたアメリカ人の男性に強引にくどかれ、つい関係してしまうのを見ると、つまりこの夫婦は、結婚のときから、そうした危うい踏み外しをしていたとわかるわけです。そして、最後、出会いのエピソードでは、未来の夫は別の女性とバカンスに来ていて、偶然未来の妻に出会ったことが描かれるのですが、そこでは結婚はしていないにしても、未来の夫がそのとき付き合っていた女性とすでに倦怠期を向かえており、新しい出会いを待っている状態だったとわかるわけです。つまり、映画の最後、離婚のエピソードは、別の組み合わせにはなっているものの、この最初のエピソードとループになっています。そして、男女の関係は、いつでも、どこでも、このように不安定な状況を繰り返しているんだ、というアイロニーが、メロドラマと生理的な生々しい感触を微妙に織り交ぜたオゾンらしい演出の中で、浮かび上がるわけです。ラストシーン、遊泳禁止の海に連れ立て入っていく、未来の夫婦の姿は、ですからその時点で、すでに別れにいたる男女の現実を象徴していたわけです。

それは第2番目のパーティのエピソードと、最後の、出会いのエピソードの相似性からもわかるでしょう。たとえば、夫が乱交パーティの話の中で、妻と一緒なら参加するといい、しかし妻に拒絶されて一人で参加した、と語られるのですが、最後のエピソードでも、未来の妻に誘われてバーに行くかどうか悩んだとき、男は当時付き合っていた女性に、君も行くなら、と同様の台詞を口にします。また、ベッドの上で共に読書をしている倦怠期の男女のうち、女がベッド脇のスタンドを消して一人寝てしまうと、つまらなそうに男も後をおって自分の側のスタンドを消し眠るシーンが、男女の組み合わせは変わっても、まったく同じで反復されるわけです。

つまりは、すべては等しいエピソードの連続に過ぎない。ただ、それを、あえて露呈させるために、離婚から出会いにさかのぼるという形式をとる「アイロニー」に、私としては硬直したものを感じてしまうので、どこか苦手な映画にはなっているのでした。私は、たとえ同じことを繰り返してしまうにしても、先の見えない茫洋たる未来へと進んでいくような反復のほうが、より魅力的に思えるからです。魅力的、というよりも、倫理的というのでしょうか。