銀河ヒッチハイク・ガイド / サンボマスター

BGM : サンボマスター「新しき日本語ロックの道と光」「サンボマスターは君に語りかける」

新しき日本語ロックの道と光

新しき日本語ロックの道と光

彼らは、何というか、驚きの対象では少なくとも無くて、まあ、クオリティというか、やっているなぁ、という感じで聞いているものですから、やはりこの2枚で充足してしまいそうです。好きですけれどね。カラオケ的には「新しき日本語ロックの道と光」の「この世の果て」「人はそれを情熱と呼ぶ」、「サンボマスターは君に語りかける」の「月に咲く花のようになるの」「青春協奏曲」と、けっこう直球なところが好きですね。

ダグラス・アダムスの著名な原作(でも例によって読んでないのです)を、原作者自身の遺稿脚本を元に映画化した、「銀河ヒッチハイク・ガイド」を見ました。

バイパス工事のため、我が家が破壊されてしまう寸前の主人公アーサー(マーティン・フリーマン)は、親友のフォード(モス・デフ)から、地球はあと数分で破壊されると聞かされ、実は宇宙人だった彼と共に、宇宙船にヒッチハイクして難を逃れる。そして、銀河ヒッチハイク・ガイドの著者であるモス・デフと、宇宙で知り合った頭が二つある宇宙大統領ゼイフォード(サム・ロックウェル)や、彼にナンパされ宇宙船に乗り込むことで偶然命拾いしたアーサーの憧れの女性トリリアンズーイー・デシャネル)、人間の思考回路を付与された試作ロボットで人間らしい典型としてなんでもネガティブ・シンキングなマーティン(声:アラン・リックマン)らと、宇宙船《黄金の心》号で旅をする作品です。

あまり期待しないで見たのですけれど、非常に面白かったのでした。それはたぶん、この映画の価値攪拌の仕方が心地よかったのです。単にブラック・ユーモアというだけではなくて、人間の世界がすがすがしいほどに大事にされない、徹底して軽く扱われる。その前提/仮定は有効だろうと思うのです。

以下、ネタばれです。

まずは映画の冒頭近く、あっけなく地球が破壊され、かけらも残らないシーンのカタルシスのなさ。それから、実は人間の世界が、生態コンピューターで、高次の存在である鼠たちが、人間を使って「究極の問い」の計算をしていた(鼠によって作られたというだけではなく、本質的にそこで起こるすべてが演算に過ぎなかった)といったことからわかります。地球のスペアまでが登場し、地上の人々まで復活すると、人間っていったいなんなのだろうってことにもなるわけです。世界や人間存在を肯定する、一応は共有されていそうな前提を、ばかばかしく反故にしてしまうわけですね。(なお、地球で2番目に優秀な生命体はイルカで、彼らは絶えず人間に地球の危機を知らせていたのに、人間がそれを理解できなかったため、地球は滅びたのでした。そのエピソードを紹介する「イルカの歌」はかなりかわいいです。)

では、人間の世界の外、見知らぬ宇宙には意味があるかというと、宇宙にも官僚主義もあるし、権力闘争もあるし、エゴイスティックな男性とそれに辟易する女性という取り合わせもあるし、つまりあんまり変わらないのでした。つまり、そこにもたいした価値は見出せません。《黄金の心》号は、究極の価値を探す旅をしているのですけれど、それが見出せない、それどころか、どうやら意味は大したことはなさそうで、あったとしても期待しているものとは違いそうだとわかるというのは、失望というよりは解放なのでしょうね(まあ、見ようによっては、無意味だが存在することには、かなり怖い深淵が広がるわけですけれど)。

主人公のアーサーは、地球が崩壊するほどの大冒険の割には、大して人間的成長などせず、人生にも恋愛にも不器用な人間が、いくらかましになる程度なのです。どことなく「ハイ・フィデリティ」のジョン・キューザックを思い出しますね。つまり、あの映画のレコードショップ店店主と、アーサーの迎える「危機」には、実は大差が無いのかもしれません。つまり何か大文字の価値などどこにもない、しかしその意味の無さには、個人の生き方としては「意味がある」のです。

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しかし、とはいえ宇宙は必要です。どこにいても(地球も宇宙も)同じ世界に過ぎないから、他方で(目先だけでも)どんな新しさもでたらめさもありうる「外」へ向かって冒険をしていかなければならない、だから逆説的に宇宙は広がっていくのではないかと思うのでした。そしてそのためにアーサーは、この世界に私たちを繋いでいる規範を、破壊し、逃げ出さないといけないので、この映画は帰還の映画にはならず、アーサーは地球と人類と自分の創造主を殺し(といっても鼠だけど/いろいろな意味でアンチ・クライストですね)、宇宙の果てのレストランを目指すのでした。見ようによっては、そうしたささやかなアーサーの抵抗心がまずあって、地球すら、その希望によって破壊されたのかもしれませんね(トリリアンも偶然救われている、なんてあたりのご都合主義を考えても)。

頭の後ろを撃たれて倒れているマーヴィンのショットが印象的です。都合よく展開する映画の中で、マーヴィンの後頭部にあいた穴だけが、妙に取り返しのつかない感じを与えます。いや、本当は、この映画には随所に、一種の気持ち悪さ、取り返しつかない感触がちりばめられてもいます。アーサーがトリリアンと再会するシーンで、アーサーが現れたと知ったとたんトリリアンが、ゼイフォードとの関係など無かったかのように、さっと服を着替え同時に心を切り替えてしまうような、ちょっとした演出にそれは現れます。その意味でも、世界はどこであれ変わらないと言えます。ただ、総じてはご都合主義ですから、その取り返しのつかなさが、すべてユーモアにしか見えないというだけなのです。破壊される地球だって、スペアがあるならば、たいして問題は無いのかな(?)とか思ってしまうわけですしね。

解放され少し軽やかな気分になって(といって、地球全体が一度破壊されたりもしているけれど、まあ、それはさておいて)、けれど、とはいって、宇宙に飛び出たとしても「世界は変わらない」。あれ、どこか、ジャ・ジャンクーの「世界」にも通じそうな話になってきた気がします。それは、また改めて