私の頭の中の消しゴム / TORTOISE

BGM : TORTOISETNT

もろもろ爆破してしまいたい。

TNT

TNT

T4「I Set My Face To The Hillside」とか好き。いかにも映画好きな発言かな?はぁ、今の精神状態にあうなぁ。

映画において、観客をどう映画に巻き込んでいくか、という手法は、いくつか考えられます。観客が、様々な自分の経験や希望、憧れなどを渦巻かせながら、感傷をたっぷりと味わえる時間を留保してあげる、その材料をゆっくりゆっくり客席に投げ込んでいく、という方法が、そのひとつです。その場合、物語は、お約束の繰り返しでかまわないのです。むしろ物語が負担にならないほうがいい。また、映画の演出も、ゆったりと、あまり複雑なことはせず、愛し合う男女がただ愛し合っているというのを、涙目の相互のアップとか、抱き合っているショットとかで示していけばいいわけです。そして「愛している」といったキーワードは、出来るだけ引き伸ばし、出来るだけ劇的なタイミングで言わせたいわけです。その観客の涙の快楽を、徹底的に満たそうとした結果できあがるのが「私の頭の中の消しゴム」のような映画です。非常に達成度の高い作品と言えるのではないでしょうか。

ところで、私は映画を見ながら、ニック・カサヴェテス監督の「君に読む物語」を思い出していました。あの映画は、劇場で困ったほど泣いてしまったのを覚えています。考えてみると設定は似ているのですよね。認知症の愛する女性と向かい合うって話です。もっとも、「私の頭の中の消しゴム」は若年性アルツハイマーですから、老年に入って認知症になった「君に読む物語」のジーナ・ローランズと比べて、かなりかわいそうな気もしますが。

「君に読む物語」の回想シーンでは、若いカップルの肉体は、とてもみずみずしく躍動し、力強く求め合っていました。逆に、この映画ではその肉体に目を奪われてしまって、ゆっくりと感傷に浸るというよりも、その唐突だったり急激だったりする感情の高ぶりを、目撃するという感じだと思います。もちろん、恋愛の経験があれば、その経験との呼応関係もどこかで結ばれていくのですけれど、重要なのは、その細部の演出ですね。お約束の、感傷を十分に受け止めるような方法ではなくて、若いカップルがただ惹かれ合い、愛し合う過程を、しかし個別の粒立ちの中で描くこと、制度やルールをただただ若い肉体の運動や熱量の力ではみ出ること。ニック・カサヴェテスは、例えば観覧車にぶら下がるライアン・ゴスリングに、例えば道路の真ん中でレイチェル・マクアダムスを通して、そうしたものを演出していたと思うのでした。そこには、たとえ共感という言葉でくくられるにしても「私の頭の中の消しゴム」とは異なるものがあるように感じます。

私の頭の中の消しゴム」と「君に読む物語」だと、あとはラストの差が大きいかもしれませんね。「君に読む物語」は痛いです。まあ、細部を大事にするほど、現実が顔を出すものなのですけれどね。