成瀬巳喜男(15)/ Luc Ferrari「Cellule 75」

BGM : Luc Ferrari「Cellule 75」

関係ないですが、今日、「秋立ちぬ」のなかで主人公の少年が居候する家の兄がギターで弾いていた曲が、何の曲か判明しました。松尾和子和田弘とマヒナスターズの「グッドナイト」。早速覚えないと(笑)さらに、検索の過程で和田弘とマヒナスターズのメンバーの一人である三原さと志氏が、コーネリアスこと小山田圭吾氏の父親であるということも知りました。へー。

Cellule 75

Cellule 75

なんとなくエッチなのを(ジャケが)。このアルバムで、リュック・フェラーリを聴くようになりました。といっても、手元には3枚くらいしかアルバム無いのですけれど。ピアノとパーカッションによるミニマル・ミュージック。なんか、変な焦燥感があります。

松竹蒲田の監督としてキャリアをスタートさせた成瀬巳喜男フィルモグラフィーを見ると、時代劇というジャンルは例外的ですが、「お国と五平」は、武家の妻とその従者が敵討の旅にでて、あてどなく敵を探しさまよううちに愛し合うようになる物語であり、その男女の関係の垣根(封建社会化における、主人の妻と従者の愛)と、流浪という題材は、なるほど成瀬の題材だと納得できるのです。敵討ちといえば聞こえが良くとも、結局は未来の見えない状況に送り出されてしまった2人です。そのあてどなさの中で、武家の妻・お国(木暮実千代)とその従者・五平(大谷友右衛門)は、旅費の節約で別々の部屋での宿泊が難しくなり、一続きの二間に分かれて泊まるようになる、やがて病に倒れたお国を看病するために五平がお国の眠る蚊帳の中に入ったり、あるいは従者としての思いを示すためにつとお国に近づいたり、足の弱いお国がよろけそれを五平が抱きとめたりと、二人の距離を近づけて行き、(封建社会の)主従の垣根が次第に崩れて行き、男女の近しさが芽生えていくのです。

以下、致命的なネタばれです。

成瀬は、家屋の空間を生かして、二者の位置関係を丁寧に丁寧に演出し、雨に降り込められた旅館における二者の濃密な時間などを通して、ついに二人が結ばれてしまうまでを描きます。その演出の冴えは、他の作品同様成瀬が得意とするところです。しかし、この映画では、男女の関係を決定するのはそうした視覚的にわかる距離だけではありません。むしろ、距離を無効化するといえそうな、お国の夫の敵でありお国の以前の恋人でもあった友之丞(山村聰)が奏でる、尺八の音があります。この尺八が、とても不気味なのです。

元々お国の恋人だった友之丞は、彼女を呼び出すために尺八を吹いて家の外に誘っていました。つまり、尺八は内外の距離をあっけなく埋める道具だったわけです。その尺八の音をお国は、いく先々で耳にします(実は友之丞本人の演奏であり、彼は恋しいお国をおって、後をつけていたと終盤判る)。お国と五平の、距離感をめぐる男女の緊張感が、その尺八の音によって変質し、お国を過去の記憶へと誘います。お国は、自身が言うように、決して恋しい人間と結ばれたわけではありません。友之丞には愛想を尽かしたものの、といって夫とむつまじい夫婦だったわけでもないのです。尺八の音は、友之丞と夫を思い起こさせるわけですが、そこには美しい、大切な記憶など無かった。彼女にとっては、敵討の旅が終わらずに、二人で旅を続けることが真の喜びとなっていたからです。その意味では、尺八の音=過去は、二人の旅を可能にするものでもありながら、お国と五平の間を妨げる、第三者の侵入でもあったわけです。

これは記憶の中にしか美しいものが無いまま、戦後日本をさすらうしかなかった「浮雲」の男女と、ちょうど逆のことなのかもしれません。敵討という特殊なきっかけを得て、2人は封建社会の制度から切り離され、個人と個人として男女が愛し合う可能性が、浮かび上がってきたわけです。しかし、実際には尺八=過去は、2人を開放してくれません。たえず、二者の関係をゆがめるように、空間を越えて忍び込んでくる。更に尺八=過去はあっけなく具体化することで、より不気味なものとなります。お国と五平が結ばれた翌朝、友之丞は隣の部屋で2人が男女の仲になったのをすっかり聞いた上で、五平が出た隙にお国の元に現れ、これでお前たちに敵討ちの理由はなくなっただろう、というのです。

元から封建社会武家社会に馴染めず、刀よりも尺八だった友之丞としたら、命は惜しい、しかしお国は恋しいで、未練たっぷりで二人をつけてきて、二人が結ばれたことに気づいたのでした。そして、武士社会に戻らずにただ個人と個人としてお国と五平が愛し合うのだとしたら、もう敵討ちの必要はないと考えたのです。この友之丞の打算は、「三十三間堂通し矢物語」で家名を守るためにはどんな卑怯も働こうとした男を思い起こさせます。その現実的な割り切りの前では、封建社会や敵討といった制度は、なし崩しになってしまう。お国と五平が、男女の美しい緊迫した距離感で崩していくものを、別種の物でなし崩しにしてしまうのです。

しかし、五平は、むしろあくまで敵を討つべきだと考え始めたのでした。お国と結ばれないのならば、いとしいお国とどこまでも旅を続けるため、敵が見つからないことを望んだ五平ですが、今はお国と愛し合っている。ならば敵討を果たし、出世し武士になった上で、晴れてお国を妻に迎えよう、と。もちろん彼の行動は、主人の敵を打つといいつつその妻と上を通じる時点ですでに矛盾をきたしています。しかしすべては自身とお国の幸福のためにすることとして、封建社会における矛盾を問題としていないのです(それは若さでもあるでしょう)。お国は、あとをつけてくる尺八の音が友之丞と知っても、しばらくは五平の心変わりを願って黙っているのですが、どうしても友之丞と向き合わないと(つまり過去と向き合わないと)五平が納得できないと知り、ついに友之丞を討つ決意をします。

しかし、そこで明かされるのは、友之丞=過去と向き合えない理由、お国が以前、友之丞と情を交わしたことがあったという秘密なのです。主従の関係にあったときから憧れ、ついに愛し合うこととなったお国が、実は不貞の女だと知った衝撃は、「浮雲」の男女の過去が二度とよみがえらない夢であるのと同様に、五平が思い描いていた未来図を、徹底的に破壊してしまったのではないかと思います。五平は、友之丞を倒すことで、過去を清算し、未来に向かうことが出来ると考えていたわけです。しかし、友之丞を殺したあとも、五平の耳には、聞こえないはずの尺八の音が聞こえ続ける。つまり、過去は、お国と五平の間に、永遠に横たわることになったのです。

五平は、お国が以前、友之丞と約束の合った仲だと知っていました。ですから、尺八の音を聴いて過去を思い出すお国に、思わず、従者としての垣根を越えて、どのように尺八を聴かされていたのか、問いただすシーンがあります。それはこのラストシーンと呼応しながら、印象的なシーンとなります。この映画の中で、男女の間でなされていた緊迫した接近は、同時に、尺八の音の侵入に絶えずゆがめられていたわけですが、その音が示す過去とは、つまりお国の不貞であったことに、映画の最後、気づくからです。

お国と五平は主従の垣根を越えることで封建社会という社会規範をなし崩しにしてしまいました。敵討をなしたとはいえ、同時にお国は不貞の女であることを知られ、二者の間にあった純粋な夢も破壊されてしまった。そのあとで二人が進む世界は、恐らく何一つ寄る辺ない世界です。それは「浮雲」の戦後と、やはり似ているかもしれません。友之丞の尺八が聞こえるといいながら、一人薄野を足早に進んでいく五平を、足弱のお国はどうにか追いかけようとしています。その2人の距離に成瀬があるのだと思います。これは「乱れる」のラストの、男女の絶望的な距離感にも繋がりますね。そのことについては、改めて書きたいと思います。

ところで後期の成瀬を考えていくためには、「お国と五平」に顕著な、成瀬の空間に不愉快に侵入する音について見落としてはいけないのだと思います。それは、「女の中にいる他人」にも顕著であると思いますし、またやはり「乱れる」の冒頭、スーパーの街宣カーが流し続ける「高校三年生」の繰り返しのメロディにも通じていると思います。