ドミニク・オーヴレイ / Luigi Nono / 真夜中のヒゲの弥次さん喜多さん

BGMは、Luigi Nonoの「Voices of Protest, Vol.1」

Nono;Voices of Protest

Nono;Voices of Protest

しりあがり寿の《弥次喜多》ものの最新作が発売されたので、早速購入しました。しりあがり寿は不条理漫画を現実からはみ出していく欲望としてよりも、現実の切なさや痛さを露呈しつつ不条理的に処理することで美化し癒す、という方向で、ずっと続けてきているのだと思います。しかし、だとすると、その継続自体が、とても痛いことであり、読み続けることも、また痛くなるので、時折世界を破壊し終わらせないと、やっていられなくなるのではないかと考えます。それを過度に評価しすぎると、足下を見失いそうですが、しかし私は、それを続けていく果てしなさの「リアル」には、多少なりとも共鳴してしまうのです。

真夜中のヒゲの弥次さん喜多さん (ビームコミックス)

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東京日仏学院で開催されていたドミニク・オーヴレイの特集上映に通っていました(既に終了)。恥ずかしながら彼女の名前は知らなかったのですが、日仏のHPの紹介によると、マルグリット・デュラス、ブノワ・ジャコ、ヴィム・ヴェンダースペドロ・コスタクレール・ドゥニの作品の編集として知られる人だそうで、IMDbでDominique Auvrayを検索してみたところ、他にもそれぞれ1作だけですがバーベット・シュローダーや、ベルトラン・ボネロ*1の作品も手がけ、今特集でも上映されるフィリップ・ガレルの「自由、夜」(最愛の映画の一本ですね)の編集も手がけているとのこと。また、カンヌで賞を取った諏訪敦彦監督の「Un couple parfait(仮題:パーフェクト・カップル)」でも、IMDbによれば編集を担当しているようです。

ヴァンダの部屋 [DVD]

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監督やカメラマンを軸に、映画を見る習慣は日常的にありますし、また、例えばパウロ・ブランコ*2のようにプロデューサーに注目して映画を見ることもありましたし、Why Not Production*3など製作会社も気にしたことがありますが、編集者を機軸に、ということはありませんでした。しかし、ドミニク・オーヴレイがペドロ・コスタの「溶岩の家」以降の作品の編集をすべて手がけているとか、例えばそうしたことが、デュラスの映画の編集者であることと隣り合いながら(理由などさやかではないのだけれど、しかし)腑に落ちてしまうと、映画の共同作業的な性格の軽視(監督の特権化)を通して、映画(史)を見がちな狭量さみたいなものに、当然のように行き当たるのでした。

とはいえ、やはり監督を機軸に映画を見ていくのは「有効」ですし、新たに編集者を機軸に映画史を捕らえなおすべしといった変な力瘤を入れる必要も無いでしょう。ただ時々は、そうした当たり前のことにガツンと殴られてみないとすぐに頭はポンコツになるのだなぁと思うのです。

なんて書いていて、今度はマルグリット・デュラスの映画(史)に対しての位置づけなんてことに思いをめぐらせるわけです(ペドロ・コスタとデュラスをつなぐ接点としてのドミニク・オーヴレイが重要なのは、マルグリット・デュラスの映画(史)に対しての位置づけが、ペドロ・コスタという作家をいま、どのように見ていくか、ということに、強く作用することも指摘すべきでしょう)。ドミニク・オーヴレイの特集で、彼女が手がけたすべてのデュラスの監督作、「船舶ナイト号」「トラック」「バクステル、ヴェラ・バクステル」を見ました。と言いつつ、「船舶ナイト号」は途中で前夜の寝不足に襲われうつらうつらしてしまったものですから、あまり云々出来ないのですが、それはさておいて、「トラック」です。ゴダールの「勝手に生きろ/人生」を見た人ならば、なんとしても見ずにいられない作品ですね。私は、今回で二度目だったのですけれど、この作品に寒々と広がる光景(その光景を見つめながら、映画の中の男女は主に愛について語りあい、多くの挫折や喪失、不在を孕みながらも、安易な諦念に落ちるのではなく、といってむやみな希望も提示されない。そこに「ある」としたら、おぼろげだが強い欲望。もちろん性愛だけの問題ではなく、広がる光景=世界に向かう…)に強く心奪われます。

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この映画には、そういえば、トラックに人間が乗り込むシーンを欠いていたのではないでしょうか。映画の冒頭、青いトラックは、あたかもそれ自体が生き物であるかのように、ブルルとエンジン音をうならせて、おもむろに動き出します。そして、夕暮れの海辺や幹線道路を、どこに向かうのかわからない、同じ場所をぐるぐるしているのかもしれないという錯覚を時に与えながら、走るのでした。トラックの運転台にカメラはすえられ、それが、運転席に座る男性運転手の視点なのか、それとも助手席の、ヒッチハイカーの女性の視点なのかはわからないのですけれど、しかし乗用車とは明らかに違う/ずれた、多くの人が見たことの無い視点から、世界をもう一度見直していくなかで、男女の会話は進んでいくのです(カメラは、運転手も、助手席の女性も、後ろで寝ているらしい交代の運転手も撮さない)。愛や、挫折について、生活について。この男女が愛し合っているわけではなく、しかし、恐らくは何らか惹かれあうものがあるということでしょうか。あるいは、カメラは遠景で、トラックがどこともつかない道を(遠くから見れば)ゆっくりと走る様子を捉えます。そのどこでもない場所というイメージが、やはりスクリーンを見る私たちを揺るがすと言えます。

男女の声は、ジェラール・ドパルデューマルグリット・デュラスの声で、この映画の台本について、二人が打ち合わせのようなものをしているという設定になっています。二人が向き合い、台本を手にしているショットが、トラックの映像の合間に挟まっていきます。トラックの荷台で話し合う男女の会話だけで、映画になるのかどうか。少なくとも持続は、デュラスのテキストの質によって支えられることでしょう。その意味では、ある意味でこの作品は映画の内側で模索された可能性の延長戦にある作品ではもちろんありません。なぜなら、テキストの力がまずあるからです。その映画とテキストの「距離感」もまた、実際のトラックの映像と、その映画について打ち合わせするデュラスとドパルデューの映像が、「1本の映画」としてつなぎとめられていく中に現れると言えるでしょう(ドパルデューは最初、その台本が映画になるか懐疑的ながら、台詞のやり取りをデュラスと積み重ねていく中で、実際には映画を作り上げていく=ダイアローグが持続していくわけです。もちろんそれもふくめて「演出」だと言えるわけですが)。その「声」は年齢を越えます。確かにデュラスの声であり、年齢を刻んだ彼女の姿がカメラの前に現れるにもかかわらず、トラックが走るその映像の中では、ドパルデューのような「魅惑的な男」(と、デュラスが、ドパルデューに言うのですけれど)であるトラックの運転手にふさわしい、革命が不可能な世界にまなざしを向ける、しかしどこか挫けてはいない美しき妙齢の女性を、確かに思わせるのです。いや、それはデュラスがたとえ映っていても、ドパルデューとのダイアローグの中に宿る美しさです(テキストの質の力も当然大きいです)。この映画からは、デュラスの精神の若さ・強さを見ることも出来る、というと月並みでしょうか。またデュラス&ドパルデューの映像とトラックの映像の間にある二重性を見出し、その間の距離が、「声」という素材の年齢の曖昧さによってそれでもひとつに結ばれるのを見る、とも言えるかもしれません。

女が、「海が見える」と言うのだったか、「オーシャン」と書かれたネオンの見える宵闇の中、バイパスにいたる方向転換の道筋なのか、ぐるりと円を書いた通りを回って、トラックがゆっくりと進むシーンの美しさ。「オーシャン」の看板は二度、トラックの前を通り過ぎていきます。

「バクステル、ヴェラ・バクステル」は、裕福で魅力的だが妻を、というよりも女性を本当には愛せない、しかし妻をどこか必要としており…浮気するときには必ず妻に金を送り、電話をする…、それにより妻をもっとも縛りつけている、そんな夫を持つヴェラ・バクステルが、夫との軋轢の記憶のある別荘地で、新しい別荘を買ってもいいかどうか、愛人とバカンスに行っている夫からの返事の電話を待っている。彼女には、以前関係を結んだ記者(ジェラール・ドパルデュー)がい、彼を誘ってきてはいるものの彼と合う気はせず、新聞記者から彼女の話を聞いた名も知れぬ女(デルフィーヌ・セイリグ)が、彼女は物語には何の関係も無い部外者なのですが、にもかかわらずヴェラを尋ね、生活感の無い、最小限の家具だけ並んだ別荘にひとりいるヴェラと、夕暮れに向かう中、会話を交わす、という不思議な設定の話です*4

ヴェラと夫との電話越しの会話は、夫が声だけの存在である(彼の愛人も、いる部屋も映像として現れるのに、彼自身だけは現れない)ことによって、決定的な隔たりをヴェラとの間に作りますし、愛は無いが関係を持った記者との関係にしても、結局二人は映画の最後まで逢う事が無い、この映画で、姿を見せて会話を交わす男女は、関係の無い(間に愛の問題がない)男女のみなのです。ヴェラは、愛する存在(それは夫であり子供でしょうが、子供たちも画面には現れず、夫との関係は危機的である)から明確に切り離されて別荘の中にいます。そこにいることをあえて選ぶのは、彼女自身でもあり、それは謎の女(セイリグ)が言うには、死んでしまいそうな圧倒的な孤独です。

この映画では、ほぼ冒頭から、映画の最後まで、同じ音楽がひたすら繰り返し流れ続けます。森のどこかで開催されているパーティの音楽という設定で、場所によって強弱はあるものの、確かセイリグによって「誰もこの音からはのがれられない」と語られるように、エキゾチックでジプシー的な、ダンスソングは、永遠に響くかのように響き続けます。それは、走り続けるトラックと同じように、この世界の不気味な広がり(その中で孤立した人々は見る/聞くことを避けられない)を指し示すのかもしれません。幻想的な何かではありません。むしろ、現実的な世界です。そこでは、<小切手><金(100万)>といったもの、登場人物の誰もが価値を感じていないにもかかわらず、それらを通してしか係わり合いが成り立たないものが、人間の関係の間に置かれています。つまり、意味はなくただ世界は広がっている。そうした孤独です。ヴェラ・バクステルにしても、「トラック」の女性にしても、すべてを語るわけではありません。またヴェラの場合は、嘘も多く混ざり合ってもいます。しかし、その<嘘>も価値なく、人との間にあるとも言えます。そうして、現実的な孤独や挫折が、確かに語られているのです。

現実に対する思考として、デュラスの映画において、その音楽は響き続ける。その単調な反復の貧しさ。その世界。それはセイリグの台詞のひとつ、魔女の伝説の始まりは、漁で何ヶ月も戻らない夫を待つ女性たちが、森の共同生活の中で、孤独から草や木に語りかえるようになったところからだ、という言葉とも通じます。現実の貧しさに魔女が生まれるのです。

ドミニク・オーヴレイが監督をした「マルグリット、あるがままの彼女」というデュラスのドキュメンタリーも見たのですが、この中で魔女の一説については(失念してしまったのですが)、何かからの引用であることが明かされていました。このドキュメンタリーは良い出来で、先日見たブコウスキーのドキュメンタリーで感じた「足りなさ」が、ここにはあると感じたのですが、しかし実際には、ドミニク・オーヴレイが編集者として、必要なものを必要なものとして集め、切り抜いただけ、という言い方が正しいのかもしれません。または、映画の冒頭で語られるように、デュラスとオーヴレイが、共に映画を作った記憶を共有していることも大きいのかもしれません。彼女たちは同志であった。それがオーヴレイにこの映画を可能にする権利を与えていたのではないかと思うのです。

映画のほとんどが、デュラスのインタビュー映像や記録映像、写真、彼女の伝記的なテキストの朗読*5、デュラスの監督作の映像をつなぎ合わせて作られています。構成も特別、奇を衒ってはいません。おおむね時系列に従っており、まずは、幼少女期のデュラスの生活について、デュラス自身が語っている映像や、テキストが紹介され、それから長じてパリに来て、共産主義運動に身を投じて一活動員として働いたことや、その挫折、小説家・文筆家としてのキャリアの開始、映像でルポルタージュを撮る仕事から(動物園や女囚刑務所の女所長のインタビューなど。女所長に扉を開け放ちたい欲望に駆られないか尋ねるシーンが印象的です。この二つの映像は共に、閉鎖と開放を巡っていますね)、映画や舞台の演出へ、といった流れが追いかけられていきます。

しかし、こう整理しても、実はそれぞれの時代の自身について語るのは、様々な時代のデュラスの映像であり、テキストであるわけですから、実は、記憶は複数の時間の響きあいとして、映像の中に刻まれており、かつオーヴレイはそれにかなり意識的だったのではないかと考えます。現在の時点からの回想というニュアンスは避けられ、可能な限り記録映像だけでつなぎ止めていくのは、現在と過去といった単純な区分けで、記憶を均質化しないためだと思います。デュラス個人史の時系列の中に並べられた、バラバラの素材、複数の時代のデュラスから、一貫したデュラスの思考が見出す。例えばそれは、親から放置された貧しさの中で、思考を育んだこと、母親が20年かけて溜めた金を騙し取られ1銭の価値も無い土地を買わされた記憶、今でも共産主義者であるが革命は来ないと言う事、あるいは、ホテルと海辺の両方で満杯の客を解決する3つの方法*6を語るデュラスの、示唆する4つ目の方法(すべてを破壊する)らのデュラスの言葉が、響きあいながら示されるわけです。そして、部分的に差し込まれるデュラスの映画の断片やテキストの断片を通して、更に、この映画とは別に存在する独立したデュラスの作った映画や書物らとも、響きあっていくのです。その、編集者としての倫理が、正しさを感じさせる映画だ、と思うのでした。

*1:「テレジア」「ポルノグラフ」の監督。ただしこの2作はドミニク・オーヴレイの編集ではない。

*2:私が気になる監督だけ挙げるのでも、イエジー・スコリモフスキー、クリスティーヌ・ローラン(「恋ごころ」などジャック・リヴェット作品の脚本家としても知られる)、シャンタル・アケルマンマノエル・デ・オリヴェイラ、アラン・ターネル、ジョアン・セザール・モンテイロセドリック・カーンペドロ・コスタヴィム・ヴェンダースロバート・クレーマー等々をプロデュースした/しているプロデューサー。

*3:「魂を救え!」以後アルノー・デプレシャンが作品を作る母体としていると思しき製作会社。フィリップ・ガレル「白と黒の恋人たち」など近年の作品や、クロード・ランズマンの「ソビブル、1943年10月14日午後4時」、グレッグ・アラキの「NOWHERE」「ドゥーム・ジェネレーション」(グレッグ・アラキ、まとめてDVDにならないかなぁ)、1本も見てないのだけどずっと気になっているアレクサンダー・ロックウェルの作品なども手がけている。

*4:新聞記者は、ヴェラの夫にそそのかされてヴェラと関係を結んだだけでなく、バカラの借金のかたでもあったという風に私は捉えていたのですけれど、日仏のHPによると、ちょっと違う解説になっていて、よくわからなくなってしまった。もう一回見て確認したいなぁ。

*5:ジャンヌ・バリバール担当と確か字幕にあった気が…なんか記憶力が弱まっている(笑)。

*6:1、海辺の客を帰す 2、ホテルの客を帰す 3、海辺の客とホテルの客を入れ替える。