蝋人形の館 / Iancu Dumitrescu

BGM : Iancu Dumitrescu & Ana-Maria-Avram「EDMN-1004」

EDITION MODERNの1004。ホラーです。なんか、ホラー映画のたびに、イアンク・ドゥミトレスクです(笑)。手元には3枚アルバムがあるのですが、どれも好き。時々、地響き系が聴きたくなるのです。

だいぶ前ですが、黒沢清監督が作品をセレクトした「映画はおそろしい ホラー映画ベスト・オブ・ベスト DVD-BOX」の発売記念で、収録作のひとつの「生血を吸う女」の上映会がありました。黒沢清監督と中原昌也氏の対談付きでした。そのことについては、このブログでもいろいろ書きましたけれど、昨日「蝋人形の館」を見て、その対談を思い出したのでした。つまり、ホラー映画においては、蝋人形の中には人間の生身が入っていなければならない、のです。なぜ、それは大前提なのか、考えなければいけません。

そこでまずは「蝋人形」の歴史です(笑)。 「蝋人形の館」公式HPのトリビアのコーナーを見ると、医学上の必要からその歴史はスタートしたようです。ただ、いきなり疑問なのは「蝋人形は医学的な必要から誕生した。研究に使用する死体の保存のため、蝋解剖模型が作られたのが蝋人形の原型である。死体を蝋人形化する手法は17世紀にヨーロッパで完成された。」という表記。こう書かれていると、死体を固めて蝋人形化したかのようですが、調べてみるとそういうことではないようです。医学の進歩のため、遺体解剖の過程を蝋人形師に作らせた、というのがどうも正解らしい。つまり人体標本ですね。ただし、ボローニャの人体解剖博物館では、本物の骨をベースにはしているらしいです。イタリア語なのでわけが判りませんが、こちらがボローニャの人体解剖博物館のHP。あ、こっちは英語版がありますね、ラ・スペコラ動物解剖博物館のHP。しかし、どうであれ、まだ墓に行く前の死体、生者と死者の境を越えたばかりの死体と深い係わり合いをもつことで成立しているのが蝋人形だと、このルーツからもわかります。

そしてやはり、蝋人形館といえばマダム・タッソーですが、マダム・タッソーことマリー・グロショルツはフランス人で、トリビアにもあるように、フランス革命当時、有名な死者のデスマスクを取って生首の蝋人形を作ったらしいのですね。それは、医学ではなく歴史として死者を記録することでもあったのでしょうけれど(時の権力者に命じられて作っていたとのことですし)、しかし同時に、視覚的には、死者を保存するというイメージも帯びたのではないかと想像します。つまり、ミイラ的なものですね。蝋人形が、残酷な歴史的シーンの再現という形で展示されやすいのは、その歴史的経緯や見世物的性格の問題でもあったでしょうけれど、潜在的には、その本質にある死のにおい(それ自体の死との近さ)があったと言えそうな気がします。

「生血を吸う女」でも、出てくる蝋人形は、歴史上の残酷なシーンの再現でした。ホラー映画に出てくるわけですからごく自然といえば、自然ですけれど。東京タワーの有名な蝋人形館にも、拷問人形集があるそうですね。残念ながら、私はいったことがありません。

あと、その死体=蝋人形を、実際には持って回れない死体の替わりにイギリスまで持ってわたったマダム・タッソーが、30年にもわたってイギリス各地で巡業し大成功を収め、1834年にはロンドンのベイカー街で有名な蝋人形館を作り、これは今日でも行列の出来るアミューズメントパークとして知られているなど、興行的な成功も収めたわけです。死=蝋人形(再現)→興行。こうした図式を描いてみるだけで、蝋人形がいかに映画に近しいモチーフかは、明確だと感じます。

更に蝋人形から「死蝋」という言葉も思い出します。死体を水中や湿った土中に置き、空気が遮断された状態/腐敗が妨げられた状態にすると、脂肪が変性して蝋化、白色ないし黄褐色調となる、永久死体の一形態です。こちらに、非常に有名な死蝋化した少女の写真が掲載されています(人工的に作られたものらしいです)。なお、全身が死蝋化するには約1年必要とのことです。この死蝋という現象について、蝋人形師たち、あるいは蝋人形のホラー映画を作った映画作家たちが、インスパイアを受けていたかどうかはわかりません。ただ、蝋のなまめかしさ、というのは重要かもしれません。簡単に液体になり、暖めて触れば、形を変幻自在に変えるもの。特に溶けかかった蝋には、奇妙な生々しさがあります。植物性のものですが、それは脂のもつなまめかしさと言えるのではないかと思います(「蝋人形の館」では、蝋で女性の乳房を作る過程が描かれています。乳首をくわえるショットの、溶けたろうと手との関係が生み出すなまめかしさが印象的です)。

まとめると、蝋人形は、別段映画監督がその中に死体を押し込まなかったとしても、その成り立ちから死・死体そのものとの密接なつながりを帯びており、単なる死者・または生者の再現ではないのです。ただ、映画=視覚においては、その成り立ちが決定的なのではもちろんありません。視覚的にある種の生々しさを帯びる、マネキン的ではない、蝋=脂の生々しさが重要なのではないかと。そして一瞬であれ、それが生きているように見える(見えるように目指され作られる)、しかしよく見れば、それが「死」であるとわかる。その人形が死者を模している、という意味の死ではありません。人間は絶えず動くのに対して、蝋人形は、機械仕掛けで多少単調な動きをしたとしても、例えば細かく皮膚が動くといったことはないわけです。それは人間という動物に擬せられた静止体である、つまり生きているかのように見えることを目指された死体である、という意味での「死」です。あらかじめ代替物である人形との差異がそこにあります。その困惑が、再現/実在した死者の記憶と通じ合いながら、蝋人形の独自の存在感になるのだと思うのです。

だから映画において蝋人形は、「中に死体がはいっている」では足りない、「中に死体がはいっていなければならない」となるのだと思います。蝋人形は、その視覚(外見)において、本質的にその内側に死体を詰め込んでいないといけないのではないか。何故なら、その外見がすでに、生と死を、その表面に湛える矛盾物だからです。だから、蝋で封じ込められる死体は、その矛盾を解消する数少ない手段なのです。このとき、「蝋人形の館」も「生血を吸う女」も、非常に正しいと感じるのは、死体に蝋を塗って蝋人形にする殺人者たちには、例えば死体を隠すとか、例えば死体を保存するとか、そうした真っ当な動機=意味が付与されていないことです。それは、蝋人形は死体に蝋を塗って作らなければならないという、説明不能の欲望でしかないようです。殺人者側にその必然性がないのだとしたら、その欲望は蝋人形というもの自体が誘発するものだったのではないでしょうか。

蝋人形の館」が映画として素敵なのは、この無根拠性です。「悪魔のいけにえ」で、どんどん殺されていく若者たちは、殺人者たちの、まったく人間的ではない別種のルールに巻き込まれ殺されるわけですけれど、それでも殺人は、破壊的であり、アンチモラルであり、つまりは(食人も含め)まだ欲望になりやすいと思うのです。しかし、死体を蝋人形にする、というのはどうでしょう?その過程は複雑です。ただ殺すことが目的ではない。むしろ殺すことよりも蝋人形にすることが目的化されます(生きたまま蝋人形にされる青年が印象的です)。では、中身のはいった蝋人形が欲望の対象なのか。しかしそれをフェティッシュな欲望ととらえるにしては、屈折の仕方がどうも適切ではない気がします。蝋は、再現と保存の道具です。現実のフィクション化です。それが現実の死体と近しくならなければならない、というのは、混乱した欲望の逆流、蝋人形というフォーマットに要請された欲望と、やはり私には思えます。

以下、ネタばれです。

現実のフィクションとしての蝋人形が、逆に現実の死体を内部に要求する。その蝋人形というフォーマットが、欲望に逆流する。それは、映画と蝋人形の近しさをこえて、映画のことそれ自体に置き換えられるのかもしれません。ジャウム・コレット=セラ監督は、このことにとても鋭敏だったのではないか、と思います。「蝋人形の館」とありますが、実際には蝋人形の町というべき作品です。町中の人間がすべて殺され、蝋人形にさせられ、町の在りし日の姿(例えば殺人者の兄弟の、母親の葬儀)を再現しているのです。つまり、この町のすべてが、再現そのものであり、フィクションそのものなのです。ただそこには生々しさも当然ある。それは映画です。フィクションとして演じられながらも、生身として迫るものを持つことが重要なのです。殺人者の一人が、被害者のビデオを奪い、殺人シーンを自分で撮影しているシーンがありました。それは、自分がしていることの自註だったのかもしれません。それはフィクション=蝋人形=映画への一過程であり、映像的な問題なのです。

だから映画において蝋人形は燃やされなければなりません。燃え立つとき、溶け出して形が崩れていく蝋人形は、再現=フィクションとしての死と、その内部の死体(腐敗した)の露呈において、生々しい死とを、同時に迎えます。そこにおいて、もっとも効果的に、映画とは何かを、蝋人形は示すのです。

更に「蝋人形の館」において重要なのは、蝋人形の館が、文字通り全体が蝋で出来た館であった、ということなのです。殺人鬼の変質狂の兄弟は、その建物すべてを蝋で作ってしまう。映画のクライマックス、炎に飲み込まれて、どんどんと溶け出し、壁の蝋を手で崩しながらエリシャ・カスバートとチャド・マイケル・マーレイが脱出するシーンに、私は映画のセルロイドのフィルムが、焦げ溶けていくイメージを重ね合わせてみました。蝋人形のフォーマットが要請する、逆流する欲望は、蝋人形の中身だけではなく、蝋人形のある建物、その町まですべてを、蝋で塗り固めるように要請したのでしょうか?私は、そうではなく、ハリウッドの古典ホラーのリメイクであるこの作品は、「蝋人形の映画」というフォーマットにおいて、むしろ町全体、建物全体を蝋で塗り固める必要を帯びたのではないか、と想像しています。映画が、何故繰り返し蝋人形を要請するのかがそこで示されるのです。「蝋人形の館」の原題はHouse of Waxですけれど、これをもじって言えばCinema of Wax、まあ、しかし今の映画は、可燃性のフィルムではないわけですけれど。

しかしここでいきなり行き止まってしまうのは、私がマイケル・カーティズ監督の「肉の蝋人形」(1933年/原題Mystery of the Wax Museum)を見ていなければ、それをリメイクしたヴィンセント・プライス主演の「肉の蝋人形」(1953年/アンドレ・ド・トス監督/原題The House of Wax)も、更にリメイクしたダリオ・アルジェント原案&ルチオ・フルチ脚本の「肉の蝋人形」(1996年/監督セルジオ・スティヴァレッティ/原題Maschera di cera/英語題The Wax Mask)も見ていないからです。せっかくここまで書いたのに、どうも上手く締まりません。ここでちゃんと映画史における蝋人形映画を語ることが出来るとかっこいい(?)のですけれどね。残念。あ、調べたら1933年版と1953年版は、2 in 1パッケージで発売されているらしいです。買ってしまおうかなぁ。

肉の蝋人形 コレクターズ・エディション [DVD]

肉の蝋人形 コレクターズ・エディション [DVD]

なお、「蝋人形の館」のの蝋人形の町で上映されている映画は「何がジェーンに起こったか?」(1962年)。ベティ・デイヴィスがだみ声で調子はずれに歌うモノクロームの映像を背景に、殺人者がショットガンで、蝋人形に混じって蝋人形の振りをしているヒロインを撃ち殺そうとするシーンは、志を感じるシーンです。スクリーンに映っているベティ・デイヴィスは、生者と死者の中間の、(映画の)聖なる存在です。それを、無数の(死体を塗り込められた)蝋人形が見つめる。その空間に混じって、生者が、その空間の演出者、言い換えれば監督(殺人者)と対峙するのです。映画を見るとは危険なこと、という明確な作家の自戒(それによって作家の権利を得る)を感じるのです。

何がジェーンに起ったか? [DVD]

何がジェーンに起ったか? [DVD]

少しほめすぎでしょうか?(笑)

物語の展開は、非常に類型的です。やたら不法侵入を繰り返すヒロイン(エリシャ・カスバート)の彼氏の、頭が悪いとしか言いようのない軽率さや、パリス・ヒルトンの担うお色気パート(ほとんど無意味に下着姿で腰をくねらせる)を見ると、ああ典型だなぁ、と思うわけです。ただ映画の精神は、そうした大筋の展開とは別種のところに、ちゃんと宿るのだと思います。若干詰め込みすぎなきらいはあるのですけれどね。殺人鬼の結合性双生児の深いつながりに対して、若干近親姦的な愛情の存在を感じさせるエリシャ・カスバートとチャド・マイケル・マーレイの兄妹を対比させ、生き延びさせるとか、殺人鬼の兄弟の母親への言及(溶けた蝋の体内に折り重なって戻っていく殺人者たちのイメージ)とか、ちょっと処理しきれていない気がします。

以下は余談。生きながら蝋で固められているカスバートの彼氏の蝋をはがそうとすると、皮膚後と剥げてしまい、激痛に身動きできないまま涙するってシーンもお気に入りです。それと、チャド・マイケル・マーレイですね。かっこいい。彼はブレイクしそうな気がします。すでにテレビではブレイクしたようですけれど。パリス・ヒルトンは、しかし、何を目指しているのだろう?