To Rococo Rot / 空中庭園

BGM : To Rococo Rot「Music Is A Hungry Ghost」

Music Is a Hungry Ghost

Music Is a Hungry Ghost

ドイツの3人組みによるエレクトロ&アコースティックバンド。ゆったりした、何気ない音の中に、「浮遊感」という危うい感触を、絶妙な音の配置で成立させています。緩く作れば、ただなし崩しの音になるところで、緊張感を絶えず保てるのは、やはり音楽の知性のなせる技ですね。かっこいいです。

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豊田利晃監督「空中庭園」をユーロスペースで見てきました。それなりの混雑を予想していたのですが、2スクリーンで上映しているせいでしょうか、夜の19時の回は意外なほど空いていました。

「ポルノスター」を見て、新しい才能の登場に喜んだ私としては、今回の事件で豊田監督の作家生命が絶たれたりしないことを切に願っているのですけれど、といって豊田監督の作品は同時に、見るたびに少し複雑な気持ちを抱かせます。最新作「空中庭園」にも、留保をつけてしまいます。やはり、豊田監督には、映画をある理念へ、ある意味へと、強く引きつけてしまいたい欲望のようなものがあって、もしかしたら角田光代の原作による部分もあるのかもしれないので、豊田監督の問題だけに還元できないかもしれませんが、「空中庭園」の場合、「家族」という括弧付きのイメージを揺るがし、解体したあとで、もう一度家族というものを振り返っていくときに、どこか甘さというか、どこまでも括弧付きの(既成の・肯定が前提とされた)「家族」のイメージに帰って行くようなところがあるのです。

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それは「青い春」でいうと、「学校」というイメージが、どれほど血なまぐさい場所になっていっても、括弧付きの(隔離された閉鎖空間/一時的なアジールな可能性と卒業という絶望を内包した場所としての)「学校」であることをやめないのと同じで、なにかある種の理念を、現実に晒すように見えて、悪く言えば回避する、よく言えば、それでも美しい場として留める、というところに通じます。そこに豊田監督の危うさがあると感じます。括弧付きの「家族」が解体されたあとにも、たとえば別の括弧にくくられた『家族』がある、としてしまうと、やはり映画を安逸な幻想の道具にしかねないからです。しかし、その理念、イメージにこそ、美しい映画的な空間(例え閉ざされたものであれ)が、見いだせる、という立場もあるのだと思います。豊田監督の場合、ある閉ざされた美意識の成立する場所へ向かう苦難が、血みどろの過程になっている(または、血みどろの過程をもって、世界は美しく完成される)という形で、それ自体が目的化され、モチベーションとなっており、だからこそ濃密な暴力や、苛烈な人間のぶつかり合いが描けるという言い方も出来るのかもしれません。暴力や生活というリアルが、それを経て閉鎖空間の美意識に向かっていくこと。「アンチェイン」における、ボクサーにとっての「リング」というのも、同じかもしれません。暴力や生活は現実として確かにありますが、そこではないどこかへ向かっていかないといけない(いかずにはいられない)。

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以下、ネタばれです。

空中庭園」で、長男(広田雅裕)の家庭教師として家に入り込む夫(板尾逸路)の愛人(ソニン)が登場し、表面を繕い続けた「家族」の現実が暴き立てられていく、祖母(大楠道代)とソニンの誕生日会の描写などは、かなり苛烈で、徹底的です。台所から居間に向けられたカメラが、やや不自由に左右に動きながら、一家の様子を捉える長回しのなかで、今まで微笑を浮かべ沈黙をしていた小泉が、ソニンに家族生活を「学芸会」だと揶揄されたことをきっかけにして、自分の内面のひどくささくれて傷んだ、ぎすぎすした感情を周囲にぶつけはじめ、また周囲の隠されていた事柄も全部吹き出てしまう。家族で暗黙の了解で作り上げていた「学芸会」が崩壊してしまうのです。取り繕いようのないところまで現実がさらけ出され、長男も長女(鈴木杏)も自分の部屋に行ってしまい、夫さえ愛人の介抱で姿を消している間、肺ガンの大楠が、林立した蝋燭の火をすべて吹き消す、娘(小泉今日子)がそれを見ながらいかに愛されずに育ったか、いかに母親に愛が大事かを言うシーンとなります。真っ暗な部屋で、蝋燭の明かりだけが照らす二人の周りをカメラがぐるぐると回ります。この演出が「優れている」とは言い難いにしても、そこにはある種の濃密さが確かにあり、だから母親に死ねと言い放つ小泉の言葉は痛い。愛のある母親を演じることが強迫観念になってしまっているが故に、家族を「家族」という理念で支配し、かつそれが破綻してしまった小泉と、自分の感情に正直であるが故に、母親としては娘に酷薄だった大楠との裏腹な対比がそこに現れるからです。

映画の中で繰り返し使われるラブホテル「野猿」の609号室は、「学芸会」の閉ざされた「家庭」のイメージと相似形をなしています。窓のない空間、閉鎖空間こそが、つまり豊田監督の空間なわけですが、ではどこにも抜け穴が無いかというと、そうでもない。窓がない、というのは実は嘘で、カーテンの向こうに隠されているだけで、実はちゃんと窓はあるのです。大楠は、その窓を見つけ、開け放ちます。そしてそれは、事故を起こして止まったバスの窓から、ソニンが飛び出して帰って行くシーンにも繋がっていきます。ソニンはそのあとのシーンでは姿を消しますから、この「学芸会」の「家族」からは身を引いたのかもしれません。対して窓から飛び出すことが、抜けだすことだとしたら、最後までベランダから立ち去れない(自殺しない/高くて飛び降りられない)小泉は、見ようによっては「家族」に絡め取られたままだと言えるかもしれない。映画は、ここが甘いと感じるのですが、その絡め取られた家族に、慈しみあう可能性を見つけるところで終わるのですけれど、むしろ示されるべきは、窓から抜け出せなかった、飛び出せなかったことの不自由だったのではないかと思うのです。しかし、窓を示しながら、その窓を結局は回避することで、濃密な空間を可能にしているとも言えるのです。

やはり、豊田監督に対する私のイメージは裏腹なものがあります。閉ざされた世界、不自由な世界の、ただ中にあっても、その世界そのものをまったく否定してみせる「ポルノスター」の千原浩史のようなキャラクターが、豊田監督の映画には絶えず必要な気がします。しかし、そうした初期衝動だけでは、現実の痛みにもたどり着けず、また、閉鎖空間の美意識にもたどり着けないのかもしれません。

それでも、豊田監督にいつか、家族が、残酷にどこまでも「家族」に絡め取られていることを、希望なく描く映画か、あるいはどこまでも解体し、閉鎖空間を食いつぶす映画を、期待したいと思うのでした。逃亡とは、別に「自由」が理念として成立する場に向けての逃亡ではないのです。むしろ、おそらくどこまでも、何かには囚われてはいく。ただ、そうした状況であっても「逃亡」あるいは抵抗の純粋さはあり得るのではないか。

そうですね、「空中庭園」で言えば、あのあとソニンがどうなったのか、が、私は見たかったのかもしれません。しかし、大楠と小泉の過去のぎすぎすした記憶が、少しずつ美しく修正されていくように、「家族」を囲い込む括弧には、美しい幻想/治癒を可能にする力も、確かに働いているのでしょう。ただ、それはやはり危ういと思うのでした。