そして、ひと粒のひかり / アイドルたち / Thom Willems

BGM : Thom Willems「THE LOSS OF SMALL DETAIL」

Willems: Loss of Small Detail (Ballet De Francfort)

Willems: Loss of Small Detail (Ballet De Francfort)

ウィリアム・フォーサイス振り付けの「イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド(IN THE MIDDLE SOMEWHAT ELEVATED」「THE LOSS OF SMALL DETAIL」の提供曲が収録されたトム・ウィレムスのアルバム。2枚組みなので、今日は1枚目。明日は2枚目。…それにしてもフォーサイス、来ないかなぁ。トム・ウィムレスはフォーサイスに提供した音源を集めた「バレエのための音楽」というアルバムも出しているようですが、こちらは未聴。

今日は渋谷のシネ・アミューズで「そして、ひと粒のひかり」とアミューズCQNで「アイドルたち」を続けてみてきました。「アイドルたち」では、映画のはじまる前に、アイドルグループ<制服向上委員会>の橋本美香松尾真冬によるミニライブがあり、実はまったくそうした事前情報なしで劇場に赴いたので、少し得をした気分だったのでした。

このグループのことは何も知らなかったのですが、アコースティック・ギターを抱えて出てきて、リードヴォーカルをとって歌っていた橋本美香は、尊敬する人がボブ・ディランボニー・レイットと実に渋い趣味らしく、「お墓参り」という、橋本美香本人が作詞(作詞/作曲だったかな?)をした曲で、早く死んだ子供の死を悼む暗い歌を聴きながら、ああ、きっと早川義夫が好きなのだろうなぁと思っていたら、橋本美香松尾真冬の最新アルバム「デュエット」(11/1発売)のなかで早川義夫のカバーもしているらしいのでした。制服向上委員会は、ボランティア活動などにも重きを置いており、なかなか社会派であって、9/11総選挙後にメンバーが政治的発言をしていたりもするらしいし、頭脳警察ソウルフラワーユニオン、外道、中川五郎などとライブ出演したり、アルバム製作に関わって貰ったりもしていますし、憲法九条について歌ったりもしているらしいです。ともかく頑張って!いろいろあるだろうけれど、負けないで!というのが、ミニライブの感想。

「アイドルたち」は、新旧3人のアイドルがユニットを組むことになった発表会で、それぞれのプライベートやアイドル事務所のやり口などを暴露して、アイドル自らがアイドルを解体/崩壊させていくという作品。

アイドルという空っぽな存在が、社会批判としての自己告発をするという作業は、しかしそのスタート地点が空っぽなために、どこまでも空転する、そのどうしようもない退屈を見るための映画、と言えそうです。すると、あとに残るのは、1960年代末、この映画が作られた時代の、ファッションセンスや色彩感覚の鮮やかさぐらいになる。ジャン・ユスターシュが編集を担当しているそうです。

そして、ひと粒のひかり」は、コロンビアの田舎町で、花のとげ抜きの仕事をしているマリアが、麻薬を詰めたゴムの粒を何粒も胃袋に納めてアメリカへと渡るという危ない仕事に手を染める話です。1粒で報酬として100米ドル、50粒も飲めば、コロンビアでは家が買えてしまうほどの大金となるのだそうです。

以下、ネタばれです。

たいして好きでもない相手との交わりで子どもを宿してしまった上に、意地の悪い主任の下で単純作業の仕事をすることが耐え難くなり職場を辞めてしまったマリアは、そのよく言えば芯の強さ、悪く言えば片意地の強さで、麻薬の運び屋をやってでも金を手に入れると決意します。アメリカの税関で危機一髪をくぐり抜け(妊娠していたのでレントゲン検査が出来ず、胃の中の麻薬がばれなかった)、米国に入ったマリア。しかし、同僚の女性が、胃の中で麻薬の袋が破裂したため死んでしまったのを知り、監禁されていたホテルから友人とともに脱走(それは単に恐怖と言うよりも、彼女の強さが、目の前の出来事に対して行動をとらせた、という感じなのですが)、死んだ同僚の姉の家に向かいます。

ケン・ローチの映画の主人公のように頑固であることが、この映画の主人公マリア(カタリーナ・サンディノ・モレノ)には必要だったのだと思います。決して賢くも強くもない。ただ、生きることにおいて頑固なこと。そして、その力が、引き寄せてくるもの(麻薬を飲んででも、アメリカを引き寄せてくる力)が、映画となり、またそこで引き寄せられたものを、更にどう受け入れていくかが、映画を続けていく、ということなのだと思います。監督は、頑固な彼女の表情と、その幼いけれども強い手足/身体の動きを、彼女がコロンビアからアメリカに場所を移しても変わらず続けられることを、ずっと捉え続けます。その徹底が、この映画の力ですね。

この映画では、マリアが社会問題を引き寄せてはいても、社会問題としてマリアを見ない、麻薬を飲んででもアメリカに渡り、そこで新しい希望を見出すマリアは、映画において肯定されています。もし麻薬が胃で破裂すれば、彼女は彼女の赤ん坊もろとも死んでしまう。だから、彼女のとった行動は、どう言い訳したって軽率だし、間違いです。けれど、間違っても生きるしかない、という意味では肯定される。麻薬と赤ん坊をともに身に宿す危うさは、無謀な若さや閉塞感に対する逃亡への意志(そこに生まれる焦燥や軽率さ)、そして貧しさという生活の現実、つまりあらゆる17歳の少女の生々しさをマリアが生きていると言うことです。監督ジョシュア・マーストンの演出は、その意味ではかなり成功していると感じます。どうする手だてもないのにマフィアの元から逃げ出して、友人と脱走して同僚の姉の家に行っても、その死を伝える勇気もなく、また奪ってきた麻薬をどうすることも出来ない。同僚の死体をコロンビアに返送するために自分の金を支払ったり、発作的に産婦人科の診察を受けて、自分の中に育まれつつある生命を確かめたり…。愚かしさや純粋さの入り交じった、決して理知的ではない行動の積み重ねを、監督はつぶさに追いかけています。

それにしても死んだ同僚の姉が口にする、コロンビアでは子どもを育てられない、という断定は重いです。国という単位で考えて、子どもが育てられない環境が一方にあるならば、マリアが映画の最後で下す、不法滞在だろうがなんだろうがアメリカで生きる決意をするのは、生きる上で当然の選択です。ここでも演出がよいのは、飛行場で、パスポートとチケットを差し出すほんの直前に、ようやくマリアはアメリカを選ぶ決意をするってところですね。映画の前半、マリアが廃屋の屋上に意味もなく登りはじめる(そのとき彼女は妊婦だったのに)のと同様の唐突さで、半ば直感で、目の前にある選択肢を選び取るような彼女の行動の仕方。それは社会の現実に従ったり知的な判断ではない、彼女の生きかたの演出なわけですから。