ジャ・ジャンクー「世界」

BGMは昨日の続きで、トム・ウィムレスの2枚組みアルバム「Loss of Small Detail」の2枚目。これはへんてこで楽しいなぁ。何だろう?ふざけているのかまじめなのか。でも、ばかばかしさとは異なるなぁ。良い意味で笑えないユーモア。何故笑えなくても良い意味なのか。それは、ちゃんと刺激的だから。

ジャ・ジャンクー監督の新作「世界」を見てきました。

中国の北京にある「世界公園」(北京に居ながら世界を巡ろうのキャッチフレーズのもと、世界各国の様々な名所旧跡の縮小版、例えばエッフェル塔は1/3のサイズ、が並んでいるアミューズメント・パーク)を主たる舞台とした、そこで働くダンサーのタオ(趙濤:チャオ・タオ)、その恋人で警備員のタイシュンを中心とした群像劇です。「プラットホーム」でも感じたことですが、ジャ・ジャンクーは構成力の人だと思います。大きく風呂敷を広げた上で、しかしそれを破綻させないで見事にひとつの世界に纏め上げていく力。この映画も、複数のカップル・人間たちの、まったく異なる状況の点出を重ねながら、同時に同じ支配的な主題を与えることで、繋ぎとめ、しかしその主題の支配で展開が単調にならないよう、一種のゆるさも絶えず保持し、かつ実験的な演出も、全体の整合性を損なわない範囲で繰り返していく。上手いのです。

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この映画をひとことで示すキーワード、つまり支配的な主題は、閉塞感だと言えるでしょう。世界の観光地が、すべて詰まっている世界公園から出て行けない主人公たちは、もちろん生きていくために稼がなければいけないからその職場にいるだけで、別に縛られているわけでもないのですけれど、しかしそこに世界があるだけに、どこにも行かなくてもいいという宿命を、公園から与えられてしまったかのような印象を受けます(しかし、同時にこの公園のチープさが、閉塞感を、機能しつつもどこかゆるいものとし、支配的な主題の専制を許さない、個別の粒立ちを豊かに生かすことを可能にしている、ともいえそうです)。

実際、そこには世界のすべてがある、と仮定します。この公園を舞台に、互いに求めながら同時に行き違ってもいく男女の関係が、個別の問題としてではなく複数のカップルの、それぞれ事情の異なる不安定な状況を通して緩やかにつながっていき、世界(公園)に偏在する問題として現れていきます。その普遍性が世界公園を、単に世界の観光地のミニチュアにとどめないのだとまずはいえます。また、ロシアから連れてこられ、最初はダンサーとしてであったはずなのにパスポートを取り上げられ、売春を強要される女性のエピソード、あるいは警備をしながらダンサーたちの財布から金を抜いていた若い警備員の点出(悪人とだけはいえない、片思いの少女に純な態度を示すようなところもある青年)などもあり、また不慮の事故死もあれば、その賠償金の問題もあり、つまりはありとあらゆることの断片を、この映画は世界公園という場所に盛り込み、その切断不能な連結を見せるのです。

しかし、それは、とても恣意的に集められたパッチワークと見ることも出来ます。その意味ではやはり「世界公園」は世界のミニチュアでしかない、ともいうべきです。そのチープさがなければ、大文字の「世界」の問題になってしまうのかもしれません。この映画において、天安門が、アニメーションの中で、一瞬、ただ通りすがりに見えるモニュメントでしかないかのように見えるシーンを思い出します。つまり、逆を言うと、この映画の中に天安門は必要ですが、それを中心にしてしまうと、何かの専制が始まる、それはジャ・ジャンクーの(ミニチュア)世界ではないということです。もっとゆるくないといけない。北京の郊外の、中心が実物の1/3のエッフェル塔、でいいのです。あるいは小型のピラミッドですね。

世界のすべてを体験できるわけがないという言い方をすれば、むしろ世界ははじめから、誰にとってもミニチュア(情報、断片)でしかないのでは、とも言えます。だからこそ、安易に人は、その世界の外をイメージできる。このチープな、手元にあるものだけがすべてではないだろうと思うからです。しかし、実際は、どこか外へ出掛けたとしても、例えば観光地で買ってしまう絵葉書のようなものしか、私たちの手には残っていないのかもしれない。「カラビニエ」ですね。実際に移動を試みて、では何か別のものを手にできるのかどうか。

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そうした《世界》のやっかいさに、どこか抜け穴はあるのか、外部は存在するのか、というのが、閉塞感と裏腹の問いかけになるでしょう。

この映画では、携帯メールで、気持ちを伝えるシーンが幾度も繰り返され、そのたびに画面はアニメーションとなります。携帯メールは、主に恋人同士の間でやりとりされるのですが、世界に向けた希望の発信なのかもしれません。そしてその時点では、彼なり彼女なりは孤独で、思いを伝える相手とは違う場所にいるわけです。一番印象的なのはタイシュンが、タオと上手く行っていないとき偶然知り合ったデザイナーの女性から「会いたい」というメールを受けるシーンですね。彼の、白馬にまたがって飛んでいくような気持ちをそのまま絵にしたアニメーションが現れます。ハート型の模様が舞っていました。恋愛という新しい希望、未来の可能性に抜けていくような抜け穴を、その受信したメールにタイシュンは見ているのかもしれません。しかし、それは本当に抜け穴なのか?タイシュンが、女性の元にたどり着き、夢想のイメージ(アニメーション)が、現実の風景に解けていく(同じ構図の実写の風景に切り替わる)シーンで、それは結局、現実の世界に行き当たっていると言えそうです。

アニメーションは、携帯のメールが世界に穴を開け、意外なところと接続するときのきっかけに現れるといえます。それは必ずしも、希望への抜け穴だけではなくて、不意に知らなかった現実に突き当たる落とし穴にもなります。タオが、タイシュンの携帯を何気なく見て、浮気の証拠メールを見てしまうようにですね。

この映画の登場人物たちのうち数人は、中国を出て外の世界に行くことを口にします。世界公園で生きていくしかないタオやタイシュンも、そうした漠然とした希望を抱いているのではないかと思います(公園にすえられた、飛ぶことのない飛行機の内部で抱き合うタオとタイシュン。タオはここにいると気分が塞ぐから、連れ出してとタイシュンに頼むのでした)。パリに、夫を尋ねていくデザイナーとタイシュンの関係は、単なる浮気ではなくて、彼女が表象する外部、海外のファッション誌やパリといった記号が、恋愛という、やはり未来へとつながる希望の抜け穴と呼応しながら、タイシュンを刺激したのではないかと思います。しかし、海外は、本当に世界の外なのか。空を飛ぶ飛行機を見上げて、誰が乗っているのだろうと問われたタオが、私の知っている人は乗っていない、というとき、その飛行機は、この世界の外へ抜け出していく飛行機であるわけですが、それは地上のイメージであって、実際に飛行機に乗っているロシア人のタオの友達は、飛行機でロシアの貧しい世界を飛び出して北京に来ても(希望ある、未来ある)世界の外になどは出られず、売春を強要されるという現実にあっけなくぶちあたり、そしてまたロシアに戻っていくわけです。つまり飛行機の中は、別段世界の外ではない、飛行機を地上から見上げたイメージだけが、その世界にとっての穴になるわけです。そしてそのイメージが、アニメーションとして現れているのだと言えるでしょう。

では、絶望しかそこにないのかというと、安易な希望は見えてこないわけですけれど、困難であれ人間同士の関係には、それでも何か可能性があるのかもしれません。携帯メールが膨らませるようなイメージには合致しないかもしれません。しかし、出会い、向かい合った人間たちには、何か可能性が残されている。タオは一本気な人情家で、周囲にも頼られるタイプです。だから、ロシアから来た女性とも、言葉が通じなくとも友情を結べる。特に言葉が通じないまま向かい合い、酒を酌み交わすシーンが感動的でした。テレビから、ロシアの地名が流れてきて、それに触発されてロシアの歌を歌いだすタオの友達は、ただ向き合うことで、情報や記号で安易に還元されない人間関係を、可能にしていたように思います。映画のラスト、タイシュンの浮気のため、姿をくらましたタオを探し出したタイシュンが、二人して部屋にいる間に、寒い日です、ストーブの一酸化中毒で倒れ、死んだか生きているかわからないような状態で、雪の降る野外に並べられたとき、俺たちは死んだのか、いや、これから始まるのよ、と内面の声/対話が響くのは、メールという言葉として明確に伝わるものではない、二者が並んだ、接続されたことの可能性と言えるかもしれません。ミニチュアの世界公園に脈略なく並ぶ世界各地の名所名跡は、もしかしたらそうした可能性も示唆・呼応しているのかもしれません。

いや、恐らくは、何も明確には示唆しないが、様々なものに似ている、という意味で、世界公園は世界に一番近づくのでしょう。その配列に大して意味がない、むしろ無意味なミニチュア群の隣接は、人間同士の関係に似ているかもしれない。そこに、しかし人は、関係を見出す、作る、のです。または工事現場の事故で死んでしまった純朴な青年の静かな葬送の夕べに、小津の「東京物語」の音楽が流れる、そうしたジャ・ジャンクーの示す隣接も、ここで思い出します。そこには、抜け穴とは別種の可能性が確かにある。しかし、それで閉塞感がなくなるわけではないのですけれど。世界公園であれ、世界であれ、誰もが、そこにとらわれていることに、かわりはないのですからね。

なお、トラックバックは何故か「銀河ヒッチハイク・ガイド」からです。