石井輝男(1)/ 20世紀少年 / Jad Fair & Kramer

BGM : Jad Fair & Kramer「Roll Out The Barrel」

Roll Out the Barrel

Roll Out the Barrel

アヴァン・ロックってくくりでいいのかなぁ。ローファイ?ともかくかっこいいです。ジャド・フェアが、はじけて元気にやりまくる後ろで、クレイマーが冷静に…デヴィッド・リット、ドン・フレミングジョン・ゾーン、サーストン・ムーア、キム・ゴードンと、参加ミュージシャン豪華。好きだなぁこれ。もう1枚、ジャド・フェアとクレイマーの組んだアルバムがあるみたい。探してみようかな?

浦沢直樹作「20世紀少年」20巻を購入しました。

20世紀少年―本格科学冒険漫画 (20) (ビッグコミックス)

20世紀少年―本格科学冒険漫画 (20) (ビッグコミックス)

読んでいない方にはわからない書き方をしてしまうのですが…(また、ネタばれになりますから、読んでいない方は、ちょっと飛ばして読んでほしいのですが)…私は2015年で物語の決着をつけるのではないかと思っていたのですよね。だから、もしケンジが生きているなら、2015年に姿を現すだろうと。ですので、更に時代が下ってともだち暦に入ってしまったときには、さすがに話を広げすぎなのではないかと危惧し、実際、エピソードとしても、それまでの伏線にはない新しい諸設定を最初から構築しなおしているようにみえ、少しまどろっこしさを感じたものでした。ウィルスによる世界滅亡にしても、ともだちの正体にしても、ともだち暦に入ってからの展開は、一度すでになされた物語のモチーフの反復に過ぎないようにも見えます(そこにどれほど意外な真実が隠されていても、「ともだち」「ウィルス」「ロボット」「万博」といった主要モチーフそれ自体はいまさら変更できない)。とはいえ、20世紀に想像していた21世紀像、大阪万博が内包していた未来像、その内側にあらかじめ用意されていた歪みや欲望を使って…それは「手塚治虫」という固有名詞と密接に結びつき、さらに浦沢直樹において「PLUTO」へと転換されていくのですが…、21世紀のパラレルな世界を構築するコミックですから、一度なされたことが、未来に投げ出されて繰り返されるのは必然かもしれません。そして、オウム/サリン事件のイメージの洗練された繰り返し、ロボットアニメの洗練された(現実的な)繰り返しが現れる。

PLUTO (1) (ビッグコミックス)

PLUTO (1) (ビッグコミックス)

事後的に読み直せば、2015年で終わりにしないことは最初から織り込まれていたように思います。2015年にはケンジを再登場させていないわけですから。ですから、問いかけとしては、2015年にケンジを登場させないままやり過ごし、さらに風呂敷を広げなければならなかったのか、どうしてそこまで「ともだち」という象徴を、継続可能なものとしたのか、それは、20世紀の何の照射なのか、ということが焦点となってきます。ひとつには、「戦後」とはなにか、という大きな問いかけに、このコミックの作者が意識を向けていると言えるでしょう。「ともだち」による自作自演の戦争を機軸に、戦後を思考/再シミュレーションする。戦争の記憶自体が彼方になっている状況下で、戦争がイメージとして再構築が行われている現在の状況とそれを呼応させることができるかもしれませんし、または湾岸戦争や、更にさかのぼり1948年のイスラエルパレスチナ戦争以後の世界における戦後(あるいは戦中)のイメージのされ方(情報操作を含め)と呼応しているのかもしれません。

そうしたことも踏まえて、言い直すと、2015年で物語が終われない(物語的に調和の取れた大団円を迎えられない)のは何故か、それは権力に対して負けないと決めた人間たちの抵抗は、むしろ、ごく弱弱しく押さえつけられながら、権力に生き延びさせられてもいるからであり、つまり「ともだち」に象徴されているものは、そう簡単には滅びないし、滅びるはずもない、ということが、このコミックスの正しさだからだ、と言えるのかもしれません。

しかし、逆に、その権力があまりに純粋に、その権力を目指す欲望まで含めてきっちりと構築されているがために、このコミックにおける「ともだち」という象徴にはほころびもあるといえそうです。「ともだち」は、アンチヒーローであるために、純粋に敵/ヒーローを待ってしまっています(その欲望として)。そうでなければ、張り合いがないからです。ですから、そこには革命の可能性(ヒーロー)が絶えず残って生きます。おそらく、本当に生き延びていく権力とは、もっと凡庸なものなのではないかと考えます。もっとだらしなく負の中心でないと、もたない。からっぽであり、かつ周囲がそと知りつつ支えるといった状況がないとだめなのです。有意味なものは、明確な敵として倒すべきものになってしまうので。実際には、たいして美意識を持たない権力のほうが、中身を持たない、陳腐な詐欺師に過ぎないくらいのほうが、効率よく人をだますのです。

ここでいきなり話が変わるのですが、石井輝男における吉田輝雄って、本当に中身のない、空っぽな存在を繰り返し演じていて、グッドなのでした。新文芸坐石井輝男特集に通っているのです。

具体的には「徳川女系図」(1968)「徳川女刑罰史」(1968)「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」(1969)「徳川いれずみ師 責め地獄」(1972)の4作を見ました。すべて初見です。吉田輝雄は、このすべてに主演しているのですが、判りやすいのが人間不信の五代将軍綱吉を演じた「徳川女系図」でしょうか、単なる世継ぎ=子作りマシンとしてではなく、人間らしいふれあいを大奥に求め、愛し合える女性を探しながら、陰謀と政治渦巻く世界のこと、真に愛し合えると思ったものに次々と裏切られ、人間不信となり、臣下の妻に乱行を働いてまで、人の心の真を知ろうとする将軍吉綱=吉田輝雄の物語です。しかし、そもそも一方的に目をつけた女性と交わり、種付けをする大奥の世界で、たまたま目に付いた太ももにほくろのある女や相撲の強い女の飾らぬ感じに、心の交流を期待することからして何か間違っており、人の心はわからぬといいながら、実際には単に人と交流をする姿勢から欠けている、吉田輝雄演じる将軍綱吉なのです。そんな彼の中身のない乱行がこの映画を駆動する装置です。大奥に満足できない彼の空っぽな内面が抱える「悩み」が量産するのは、愛を欠落させたセックスと、女性たちの嫉妬や政治が生み出す残酷な女たちの末路です。その女性たちの鮮やかな一瞬を、周りに算出するためにだけ、彼の無意味な「悩み」は続くのです。

以下、「徳川女系図」「徳川女刑罰史」「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」「徳川いれずみ師 責め地獄」ネタばれです。

それにしても、五代将軍綱吉をあっけなく殺してしまうラストには驚きました。歴史的には、まだまだ長生きする将軍です。柳沢吉保南原宏治)や、堀田正俊小池朝雄)など、歴史上の人物も登場させつつ、史実などまるで無視で、60代半ばまで生きる将軍を、30代で殺してしまう。四代将軍家綱なら、40歳で死去しているので、話も繋がるのですけれど…。

しかし、でたらめさこそが鮮やかさを生むのだ、というのが、石井輝男の映画だったのだとは思うのです。「徳川いれずみ師 責め地獄」は、この4作の中ではもっとも優れて徹底された作品だと思うのですが、それは、ただひたすらカットカットのインパクト、それも女性を責める・拷問するという昂揚をひたすら目指して、それ以外の途中経過などは、省略の限りを尽くして(例えば、吉田輝雄演じる刺青師が、島流しの身から脱出するところなどは、丸々省略。恐らく、男性が苦難を蒙るシーンなどには興味がないから)、女体がもだえながら刺青をされるシーンは徹底的に描き、そして鮮やかに血を流しながら拷問しされるシーンは、多少唐突で話の流れになくてもどんどん放り込み、主役級かと思ったヒロインも、残酷な刑罰で華と散るためには、物語半ばで平然と殺してしまうのです。

女性(の裸体)に男性の一方的な欲望を投射し、しつくすことで無理やりにその存在を高める…だから、「刺青」というモチーフは、実に石井輝男的なのです。女性は本質的に石井輝男にとって、男性がその欲望によって血や墨で彩るべきキャンバスなのですから。

映画のラスト、股裂きの処刑など、まったく物語的には不要で、しかし鮮やかさのためだけに必要とされたシーンですね。女性たちの刺青も、絵柄がどんどんサイケデリックになり、時代的な錯誤を極めながら、最後は蛍光塗料の刺青による兄弟弟子の対決という珍妙な展開になるのも、ただひたすら女体というキャンバスを鮮やかに飾ることだけを追求した結果だといえましょう。

さて、ここでも吉田輝雄は空っぽな男です。復讐をしたいのか、それともただ刺青を彫りたいだけなのか、彼の的外れな行動は、無意味に被害者を増やしただけのようにも思えます(ハニーと呼ばれる、悪徳人身売買外国人の娘に、刺青を施す必然性とか、今ひとつわからない)。そもそも、人身売買組織の只中で、平然と刺青を彫っていた男が、どんな正義で、人身売買組織への復讐を果たすというのか。確かに恋人を奪われ、怪我され、殺されはしたかもしれませんが、その恋人も、吉田の何を見ていい人だと思うのか。まったく理解できません。

「徳川女刑罰史」における吉田(一人二役)もそうですね。いきなり事故で起き上がるのもままならない体になった吉田が、その医療費のために近くに住む金持ちに妹が体を売る、それを嫉妬して妹を犯し、共に畜生道に落ちてしまう、という展開は、なかなか短絡的ですが、それだけではなく、目の前で妹に手を出されても(体が悪いので仕方がないのですが)まったく抵抗できず、結局悲嘆のくれに自殺を図り、しかも自分では止めがさせず、妹に首に食い込んだ歯を抜かせて出血死する、というのは、かなり役立たずなのです。しかし、その役立たず振りによって、妹、というかこの場合、美しい女体は、愛する兄の血に濡れるわけですから、その鮮やかさにおいては正しいのです。吉田のもう一役、奉行も、その無能振りにおいて、犯罪的な刑罰を看過するといえます。彼は、絶えず、残酷な刑罰の必要性を疑い憂えるのですが、憂えるだけで、一切打つ手をもたない。その無能さにおいて、女性の肌が血に濡れる鮮やかさに加担するわけです。(あ、余談ですが、刺青の趣味としては、「徳川女刑罰史」の刺青のほうが「徳川いれずみ師 地獄責め」よりも好きです。やっぱり和風ですよ・笑。)

「怪奇奇形人間」の吉田も、かなり奇妙な存在です。彼が語りの主体で物語りはずっと進むのですが、同時に彼はとても受動的な人間で、女性に迫られれば、悩みながらも受け入れ、かつその女性たちを誰一人守ることが出来ず、人工的に奇形人間を作っている狂った父親も止められず、何一つ解決する手段を持たないまま、ラストには、知らずに愛してしまった実の妹と打ち上げ花火で爆死する鮮やかさのみ主体的に演出する(空中に飛び上がった男女の体が、二重写しの特撮で花火と共に爆砕、ばらばらに飛び散っていく四肢、首、しかし固く繋がれた男女の両手、という、この爆死シーンのすばらしさにおいて、この映画は高く人々に支持されるのだと思います)。考えてみると、江戸川乱歩石井輝男は、通じ合うものがありますね。この映画でもそうですが、明智小五郎大木実が、本作では演じています)という名探偵は、事件の謎は解くものの、基本的にどのような悲劇(それは鮮やかな死に方に通じる)も止め得ない、一切死への抑止力を持たない探偵なのです。死ぬべきがすべて死に、それを待って、解決するのでした。現代舞踏的な動き・ビジュアルに奇形的なるものを代表させる、というのは、私は必ずしも評価しないのですけれど。いやそれでも大木=明智小五郎は、それでも犯罪を暴くことで犯人を追いつめ、更なる犯行を止めると言えそうですが、吉田は、悲劇を周囲に産出しながら、まったく役に立たない存在なのです。しかし、だからこそ、無惨な出来事は続き、石井輝男の映画は続くのでした。

ただ漫然と続く、強迫観念的な鮮やかさにただ賭けて、鮮やかさに欠くカットは廃し、ただただ血や墨に彩られた女体の鮮やかさのためにカットを繋げていくこと。それもまた映画なのです。ただし、それをあんまり無邪気に掲揚してしまうのは、ちょっと危ういというか、微妙だと思っています。石井輝男の映画を楽しむためには、少し距離感がもてるだけの映画的な体験があったほうが良いのだと思うのです。そうした距離感を持てないと、例えば三隅研次を、例えば中川信夫を、個別な才能として楽しめなくなりそうな気がして…。

東海道四谷怪談 [DVD]

東海道四谷怪談 [DVD]

地獄 [DVD]

地獄 [DVD]

(「子連れ狼 三途の川の乳母車」とかはまだDVD化されていないのですね。大傑作なのに。)

そういえば、今年のフィルメックスは、中川信夫特集だそうです。楽しみ!