ブラザーズ・グリム / David Moss

BGM : David Moss「Time Stories」

Time Stories

Time Stories

ハイナー・ゲッベルズとか巻上公一とか参加してるデヴィッド・モスのアルバム。

テリー・ギリアムという映画作家は、決して映画的運動神経のいい作家ではなく、たとえば「ブラザーズ・グリム」でも、入り口のない塔を中心にした上下運動の演出などは、もったりもったりしていて、ピーター・ジャクソンが上下運動に対して示す鋭敏さと比べたりすると、重たさは拭えないのですけれど、その重たさが、むしろテリー・ギリアムで、地を這う、水に沈む、柩に閉じこめられる、それらのモチーフが、権力による支配・弾圧のイメージと重ねられながら、描かれ、その重たさの中でなんとか続けていっているんだ、という評価も可能なのでしょう。だから、テリー・ギリアムの喧噪は、どこまでもすっきりした解放へは向かわないのでした。

以下、ネタばれです。

その重たさは、多くは現実の重たさによっているといえます。この映画は、グリム兄弟が、実はインチキゴーストバスターズで金儲けをしているのを、フランス軍の将軍に暴かれて、とある田舎の村で起こっている少女たちの誘拐事件の謎を解くように命じられるのだけれども、そこで彼らは本物の魔女と対峙してしまうことになる、という話です(少女の一人が赤ずきんだったり、グレーテルだったりして、グリム童話とさりげなく接続されています)。ファンタジーですね。ところが、ドイツを舞台とした本作は、フランス軍による圧政支配の下、異物=テロを事前に抹殺し、秩序を取り戻そうとする権力が、魔法という別種の武器で、やはり世界を支配しようとする魔女の権力とぶつかり合うという話としても見ることが出来、その図式から、ごく単純化して言えばフランス軍911以後のアメリカ、魔女をテロリストと見ることも可能かもしれません。では、ここではドイツはイラクでしょうか?いや本当は、二者は根幹において、そう変わらないので、魔女の示す欲望や権力の装置(鏡に映った美しいイメージで醜悪さを覆い隠して人身を支配する)は、フランス軍の権力装置=武力・拷問装置と表裏一体だと思うのですけれど。

ですからグリム兄弟がサバイブするためには、その権力の重さをどう断ち切るかということにかかっていくわけです。そこで、この映画のキーになるのが「物語」ですね。子どもの頃、悪い大人に騙されて、貴重な牛を二束三文の魔法の豆と交換してしまったために、妹の治療費が出せず、結果的に妹を殺してしまった心の傷を持つヒース・レジャーは、おそらくそれがきっかけで、民間伝承や魔法などに興味を持つようになり、研究をしていた、という設定です。彼は、「物語」を集めていて、そしてついに本当の魔女にたどり着いたわけですね。ただ、ここでレジャーの見方が変わっているのは、魔女は、物語によれば倒されなければいけない、その物語のために戦う、というロジックです。不死の魔女(モニカ・ベルッチ)は、圧倒的な力で存在し、どうやって倒すのか方法すらわからないのに、なぜ、そこで「物語」が役に立つというのか。現実主義者のマット・デイモンは、そんな弟を止めようとするのですが、結局はともに戦うことになります。なぜなら、レジャーの判断は、現実的な判断ではなく、そうした「物語」がなければいけない、という必要に迫られた判断だからです(彼の心の傷・現実を越えていくために)。ならば、積極的に「物語」に荷担し、ハッピーエンドに向かっていくほかにない。しかし、そういいながらも、魔力も兵力もない彼らは、ただ徒手空拳で敵に向かうことしかできないのですけれど。

ティム・バートンハリウッドの片隅で、軽やかに美しく生き延びさせるイメージ、あるいはジョージ・A・ロメロの提示する、暴力的に自らのゾンビ映画を根底からひっくり返してまでアメリカの内部を食い破ろうとするイメージに対して、武力と精神の支配によって、にっちもさっちもいかないグリム兄弟/テリー・ギリアムはやはりかなり不利なのです。そもそも、「物語」の要請=ハッピーエンドが先にある、という抵抗の仕方は、ギリアム自身が最後に示すように、ハッピーエンドはおとぎ話に過ぎない、という反転を容易にしてしまう。その皮肉もまた、現実だと言うことかもしれませんが。

どこにも入り口のない、スタンドアローンの空間の内部で、鏡に映った自分の偽の美しい姿を見つめる、齢500年のミイラ化した女王が示す権力の形態は、その塔が崩れることによって911以後の映画であることを直接的に指し示しているのかもしれませんね。鏡に映った自己像以外は世界において重要なものはない、この世界で一番美しいのが私であればいい、という時、恐ろしいのは、美しさが問題なのではなく、その閉じられた必要で世界を覆い尽くそうとすることなのです(自分より美しいものがいれば、殺しに行くわけですね。白雪姫ですか)。他方、魔法といった逆転の精神の秘めた場所を、秩序で覆い尽くしてしまおうというフランス軍将軍の態度は、権力の実際的な行使の側面を感じさせます。イラクの地を勇ましく進む戦車部隊の映像が、テレビを通して、アメリカの精神の内面を映す鏡のようなものとして示された、と仮定すれば、実は魔女と将軍は、今日、同じ場所に両立していそうだと言えます。

キス/「物語」のハッピーエンドが必要なのは、そうした悪夢のような、夢のない話(精神支配と、武力支配の共存)から解き放たれるためにです。しかし、本当にキスひとつで世界は救えるのか。魔女と、魔女を若返らせるために仮死状態にされたグリム兄弟の思い人レナ・ヘディは、ともに白雪姫に通じています。デイモンは魔女に、レジャーはヘディにキスをする。愛を込めたレジャーのヘディへのキスが魔法を解いたことに、「物語」としてはなっています。しかし、デイモンのキスも重要だった。彼はそれによって、精神を逆に支配されるのです。ここに「物語」の裏腹さがあります。美しい「物語」は、解放ではなく、支配にも繋がる。しかし、支配されたデイモンの精神を解放するのもまた、レジャーとヘディのキスであり、ヘディのデイモンへのキスでもあるのです。