山猫令嬢 / Latin Playboys

BGM : Latin Playboys「Latin Playboys」

Latin Playboys

Latin Playboys

暑いのに、クールな、かっこいいのに、泥だらけな、って感じがね、まあときどき食べたくなるのですよ。アルバム全般に好きだなぁ。ロス・ロボスのメンバー、デヴィッド・ダルゴとルーイ・ペレスに、ミッチェル・フレームとエンジニアのチャド・ブレイクが加わったプロジェクトのアルバム。肌寒い砂漠の夕刻って感じ。あ、バカルディでも飲もうっと(笑)おお、T5「Manifold De Amour」気持ちいいなぁ。あとT14「Forever Night Shade Mary」ね。泣きます。

もうだいぶ前。フィルムセンターでは成瀬巳喜男の「めし」の上映だったのですが、食傷気味だったとかではなく、むしろかなり後ろ髪を引かれながら、それでもすでに一度見ており、かつ手元にDVDもある「めし」よりも、森一生という、実にアンチヒューマンな映画作家の、日本映画史上、もっとも著名でヒューマンといわれる三益愛子主演シリーズ《母もの》の第1作、「山猫令嬢」(1948年)を見に行ったのでした(東京国際映画祭ニッポン・シネマ・クラシック〜母物語(ははものがたり)〜にて上映)。主演の三條美紀さんのトークショー付です。映画も素晴らしく、見に来てよかったと思ったのですが、それだけに客の少なさにはちょっと驚きました。正直、シネフィルと言うには、知識も勉強も足りない私ですら、「不知火検校」「ある殺し屋の鍵」「四谷怪談 お岩の亡霊」といった傑作を監督している森一生の上映とあれば、可能な範囲で見ようと思うわけです。上映機会でいっても、そういえば少し前にフィルムセンターで「山猫令嬢」の上映はあったと思いますが、とはいえなかなか見る機会のない作品であることは間違いないわけで、100席ちょっとのル・シネマの、夜19:00から1回だけの上映で、客席の半分も埋まっていないというのは、かなり寂しいものがありました(満席では入れなければ、もっとがっくりするわけですから、良かったのではないか、と言われると、そうかもしれませんが)。

不知火檢校 [DVD]

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ある殺し屋の鍵 [DVD]

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四谷怪談 お岩の亡霊 [DVD]

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映画の冒頭、自転車で田舎道を走ってくる三條美紀が現れ、自転車から駆け下りると、自転車が畑のほうにすべるように落ちていくのは意に介さずに、道端の友達にその勢いのまま駆け寄ると抱きしめて、中国から母親が引き上げで戻ってくると喜びながらいうシーンがまずあります(彼女は、疎開で田舎の伯父の元に預けられていて、母親は中国に行ったきりであり、7年も逢っていなかったのでした)。続けて、駅で母親を待つシーンでは、汽車がスクリーンに向かってパーっと駅に入ってくる。自転車の運動と汽車の運動が呼応しながら、再会の期待が高まったところで、列車から降りてくるのが、大陸ではバーのマダムをずっとやってきた、あくの強い水商売の女・三益愛子なのです。友達と、母親が帰ってきたら、きっとこんなやり取りがあるだろうと考えていた三條は、母親のイメージが崩されて少し落胆します。しかし、母親は母親、三條を見ると「抱かせて」と抱擁し、違和感を残しながらも母子の情を確かめ合うのでした。そして、短い伯父の家でのやり取りのあと、あっという間に三益と三條は京都に移り住むことになります。引き上げ後間髪入れずに三益は、京都にバーのマダムの仕事を見つけたのでした。そして、今度は列車はスクリーンの向こうへと去っていくショットが現れます。

以下、ネタばれです。

この映画の冒頭、ほんの数分の間で示される、自転車と列車の運動の鮮やかさだけでも、森一生という映画監督が、非常に研ぎ澄まされた映画的センスの持ち主であることが見えてきます。映画の後段で、三益と三條がコンサートに行くシーンがあり、クラシック音楽をずっと流しながら、三益の心が次第に変わって行き、ついに涙を流すまでが描かれているのですが、このシーンも森の演出力の高さに胸打たれました。まず、安易に内面の声などを入れたりはしません。三益は、バーのマダムであり、気の強い女です。女で一人で娘を育て生きていこうとしている。だから彼女は、酒によっても酔わなくても、ただひたすらしゃべり倒し、周囲に強く自分を発信し続けています。しかし、母親の仕事がいやで、恥じている三條のために、彼女の好きなクラシックコンサートに誘う、そこではただ音楽が流れ、じっと見つめ鑑賞する三條の隣で、始めて三益も、沈黙をするのです。その沈黙こそが、内面の変化ともっとも効果的に結びつきます。コンサートの、音楽の流れる時間を、ただその時間として見せることで、その言葉にしなくても雄弁な母の思いを、見事に描き出すのです。とはいえ、ここに腕があるのですが、ではただコンサートを漫然と撮っていればいいのでもありません。音楽の盛り上がりに合わせて、例えばバイオリンならバイオリンの弦の躍動を、もっとも適切なカメラポジションからおさえ、曲の盛り上がりも加味しながら、並んで座る三益と三條のショットをインサートし、また演奏者や指揮者の運動と音楽の同期を鮮やかなカット割で示し…と、物語ではなく、時間と運動の鮮やかさの中で、登場人物の心の決定的な変化を描くのです。そしてそのあと、夜の道を三益が三條と歩くシーンでは、ゆっくりと歩道を歩く二人の後姿のショットが、コンサートの音楽をかぶらせながら、比較的長めなカットで現れ、それから二人の顔の切り返しになるのですが、何か力の抜けたような三益が、三條にむかい自分を「悪い母親だ」と言うのでした。そのポツリと言われるひとことまでの、コンサートの音楽が内面化され、三益の変化として現れるまでの時間の示し方もまた、映画なのです。ただ、改心がそこで行われればいいのではなく、そうした内面の変化が、見事に映画の運動や時間のなかで、それと同期しながら表現されること。映画だなぁ、と思うのです。

ただ、そうした森一生の、演出力は、私にはとても残酷なものにも思えるのです。これは成瀬巳喜男における男女や人間関係の残酷とは別種の、映画の残酷さです。「山猫令嬢」は、典型的なメロドラマです。夜の世界に生きているバーのマダムが、愛する娘のために改心をしなければと思うまでの話し、と整理できるでしょう。しかし、彼女がバーのマダムなのは、また夜に生きる女性たちがいるのは、それはそれで人生の避けがたさではないか、と思いますし、例えば成瀬ならば、そうした避けがたい人生そのものをどう映画に刻み込むか、共にありながら同時に絶えず亀裂を抱えた人間たちの過酷な関係を通して描くでしょう。しかし、森一生は、通俗的とも言えるメロドラマの文脈に、一切逆らおうとしません。小林桂樹演じる、三條と好き同士になる青年など、典型ですが、バーのマダム=悪というイメージがまずあって、だから改心してよい母親になれ、と、一切の留保もなく言い放ちます。学校の教師でありながら、昔、三條を孕んだ三益を捨てた高田稔に対しても、彼の事情など一切受け付けない潔癖さで批判していきます。こうした人物の存在が、ある意味でこのメロドラマを教条的な正しさにとどめるのですが、しかし他方、三益の家に出入りする同業の若い女性たちはどうなのか、画面に映っており、メロドラマの必要に応じてそれなりに役割を果たす女性たちは、映画の最後には画面の外に駆逐され、もはやどうでもいい存在になっているのです。母親のことが友人にばれたことを恥じ、学校をサボった三條が、家に帰って三味線を母親の雇っている娘たちに習うシーンなどが印象的です。そのシーンでは、彼女たちは確かに画面の中にいなければならない。しかし、物語の展開上は、映画のラスト、2階の部屋で未来に比喩された空に向かい、母子が立つ窓の下、1階には、それからもずっと夜の世界を生きる女たちがいるわけです。その世界を、映画的必然の中で完全に切って捨てること。例えば、三條に三味線を教えた娘が、三益に謝罪するシーンでの、その娘に対するカメラワークの、徹底した興味のなさ(その謝罪が印象的なシーンになってしまったら、メロドラマとして否定されるべき夜の世界を生きる女性たちを肯定してしまうことになるので)が素晴らしい、素晴らしく残酷だ、と思うのです。その残酷さに、森一生の映画が宿っています。

この、主に小林圭樹に代表されるメロドラマの残酷さ(何の留保もない教条的正しさ)と、「四谷怪談 お岩の亡霊」における佐藤慶の、すがすがしいまでの悪さは、実は共通した徹底かもしれません。佐藤慶は亡霊になったお岩に対してまで、悪として立ち向かって見せる、と言い放ち、決して恐れず、刀を振るって戦って見せるのでした。その過剰な徹底。しかし、その徹底は、お岩とイエモンの対立の苛烈な図式を、恐ろしいまでに高めていくのです。そこにある映画の鮮やかさを目指す確信が、森一生だと思います