石井輝男(2)

少し前のことになってしまいましたが、石井輝男について第2弾。FILMeXの中川信夫のことを書く前に、と思いまして。

あ、今回の特集では、楽しみにしていた「ポルノ時代劇 亡八武士道」と「残酷・異常・虐待物語 元禄女系図」は、諸事情で見逃してしまいました。ともに評判の高い作品だけに、かなり悲しい。

「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」を見ると、相変わらずの吉田輝雄の役立たずぶりにうっとりします。検死医の吉田の妻が他人の精子を体内に残したまま自殺、夫である吉田がその遺体を解剖する、という冒頭部分は、その妻の死をめぐるサスペンス映画に接続されるのが自然だと思うのですが、石井輝男における吉田輝雄は、そういう方向には向かいません。何故か、資料室に閉じこもって、過去の犯罪資料を読み、女性にまつわる犯罪を調べる(それが映像となって現れ、このオムニバス作品を構築する)のです。もちろん、そんなところに妻の死を解く鍵などなく、いくつかの明治・大正・昭和を彩った犯罪が紹介されたあと、吉田輝雄はやっぱり妻の死は謎だった、と一人つぶやくのです。

目の前にある妻の死体=現実ではなく、過去に起こった犯罪=フィクションへと向かっていくことで、女体と暴力に彩られた世界への理由なき欲望を、無理やりに引き寄せていく、ということだと思います。この、ぬけぬけとした転倒に、石井輝男があるのだと思います。

映画の中で出てくる主な犯罪は、「ホテル日本閣事件」「阿部定事件」「小平義雄事件」「高橋お伝事件」の4つ。しかし石井輝男は、明らかに事件の実際などにとらわれていません。「ホテル日本閣事件」(映画では東洋閣)は、映画の中では艶っぽい藤江リカが、ホテル乗っ取りのため、主人の妻、主人、愛人と次々と殺害する「毒婦」を演じていますが、実際の事件の犯人は事件当時53歳、決して若く美しい女性ではなかったのです。とはいえ、その悪行は「毒婦」という呼び名にふさわしかった。自分の欲のためには、色仕掛けで男を落とすことなどものともしなかったようであり、また、実はこの事件が発覚する9年前には、当時の夫を、当時の愛人と共に共謀して殺害していたことも、わかったそうなのですが、映画ではその経緯は描かれていません。

詳しくは、戦後日本で起こった数々の犯罪について詳細な記述のある「無限回廊」HP中の「ホテル日本閣事件」をどうぞ。あと、「事件史探求」というHPでは、犯人小林カウの顔写真も掲載されていました

石井輝男にとって重要だったのは、「女性がその肉体の魔力で男を滅ぼす」というイメージだったのではないかと思います。そこにおいて、物語は膨らまされ、換骨奪胎されていく。そのイメージを膨らませる検死医・吉田輝雄は、実は検死医というよりも、女性の体をキャンバスにして、欲望のイメージを掘り込む刺青師に、むしろ近かったのではないかと考えます。女性の体に、鋭い刃先を向ける。その刺青師と検死医のイメージの相似は、石井輝男において重要だったでしょう。

もちろん、それは吉田輝雄石井輝男だけのイメージではなく、女性が引き起こした事件に、ひきつけられ、性的な妄想を付与しながら艶やかに毒々しく花開かせる欲望は、私たちの間に広く根ざしているはずです。映画の最後を飾る「高橋お伝」事件。高橋お伝は、1つの殺人事件しか立証されていないにもかかわらず、当時、新聞・紙芝居等を通じて新たに様々なイメージ・物語を付与され、毒婦として作り上げられた存在なのだそうです。恐らくは、女性で、かつ日本最後の斬首刑で死んだことが、人々のイメージを刺激したのでしょう。更に、本物かどうかは知りませんが、ネットで検索すると、お伝の性器は切り取られ、その形状から医師が異常性欲を診断(もちろん今日では噴飯ものの診断ですが)、さらに見世物としてアルコール漬けにされた性器が一般展示された、という記事も散見します。

映画では、この「物語」として有名な「毒婦」を、逆に恋に一途なかわいい女という設定に切り替えています。しかし、それは奇病で容姿が崩れた夫に迫られ、それを拒絶する美しい妻、という構図において、女はかわいくなければならなかったのではないか、つまりそのほうが「効果的だから」と思うのです。また、最後に恋しい男に合わせてという叫びがあっけなく無視されて斬首され、転がった首から血の涙が流れる鮮やかさにおいて、彼女は毒婦ではないほうがよかった。それもまた「物語」です。

阿部定事件」では、なんと、本物の阿部定が、「生きていた阿部定さん」というテロップとともに唐突に登場、吉田輝雄の取材を受けて、いろいろと話しているシーンが出てきます。猟奇的な事件としてではなく、恋しい一心でしたごく自然なことである、という阿部定の証言と、その現実の存在からスタートして、彼女の「物語」は始まります。妄想を膨らませていくときの、最初のスタートとなる現実が、より堅固に現実であるほど、妄想は花開く、ということかもしれません。また、再現映像での阿部定と「生きていた阿部定さん」を併置する、そのインパクトが、石井輝男には重要だったということでしょう。映像よりも、そのしわがれた、声が、もっとも印象的なのですが。

なお、「無限回廊」によると、阿部定は、戦後、別名で結婚するも新聞記者の来訪で家庭崩壊、後には自分の知名度を生かして自分自身を演じる舞台に立ったり、やはり知名度を生かして仲居として働いたりしていたらしいのですが、1971年以後は行方が知れないのだそうです。

もうひとつ、石井輝男が注目したのは、助成を強姦・絞殺する連続殺人鬼、小平義雄の事件です。吉田輝雄のナレーションでは、小平義雄の犯罪を、男の狂気だけではなく、女の男をひきつける魔力で説明しようとする、まったくもって、理不尽な言い振りなのですが、しかし、それが石井輝男の映画なのでしょう。理由もなく、女性の首を絞めたい。理由もなく、女性の裸体と血が見たい。そこにはモラルなどはどこにもない。その理由のなさを、理由がないとだけ言い募りながら、なおも続けていくのです。「無限回廊」の小平義雄事件についての記載も合わせて読むと興味深いですね。このパートだけ、何故か社会的な背景をかなり重視しています。

しかし、これだけ盛りだくさんなのに92分の映画なのです。壁に塗り込められた腐乱死体を、情夫とともに壁を崩して運び出す、例えばそうしたインパクトのあるシーン、女の裸体が絡むシーン、殺害シーン、処刑シーン、そうしたものだけが、ただただ繋ぎ止められながら、不要な、「弱い」シーンはナレーションだけで繋いでいく潔さ。それが、サスペンス・アクションとして映画になると、「黒線地帯」「黄線地帯(イエローライン)」の2作のような作品となります。

天知茂主演のこの2作は、ともに売春地帯のボスと天地茂の対決を描いているのですが、天知の前に、まずはまたしても吉田輝雄です。「黄線地帯〈イエローライン〉」に出演しているのですが、またしても見事に役に立たない(笑)。いや、そうでもないですね。映画のラストでは、殺し屋の天知茂銃口を恐れずに前に進み出て、恋人・三原葉子を取り返す(無抵抗ながら、自分の身を呈しても愛する人を救おうとする真の愛の力で、殺し屋に引き金を引かせない)わけですから。ただ、とはいえ何をしたというわけでもないのです。進み出ただけ。そこにいたる、売春・麻薬マフィアとの対決は、すべて天知茂が決着してしまいます。吉田輝雄は、その後をただ突いて回っただけ、という感じです。ある意味、天知について回る天真爛漫な三原の役回りも、とても不可思議です。彼女もまた、別に事件の展開において役に立ってはいない。ただ、その天真爛漫さが中核にあることで、周囲の過剰な暴力の展開も、ある種のばかばかしいあっけなさを伴って通り過ぎていくと言えそうです。理由なき欲望の、理由を欠いた推進装置として、吉田や三原はいます。その中核における欲望の欠落が、周囲の(女体や暴力にむけられた)でたらめな欲望を繋ぎとめていきます。

天知は、マフィアに依頼された殺人を遂行するが、裏切られ警察に追われる身となり、疑われないよう偶然見かけた美女・三原葉子を無理やり連れて神戸へと向かい、自分をはめたマフィアの組織に立ち向かう、という役どころです。吉田は、三原が東京駅に投げ捨てた吉田からのプレゼントのハイヒール片方を見て、彼女の危機を察し、ついて追跡を開始するわけです。すると作劇上は、殺し屋・天知と新聞記者・吉田が、情報を交換して、マフィアを滅ぼす、というのが、ありそうな展開なのですが、石井輝男はまったくそうした展開には興味を示しません。そもそも事件などは、どうとでも解決可能なのです。犯人たちは簡単に天知の前に現れます。吉田も、偶然に導かれて、簡単に天知たちに追いつきます。推理などは、退屈だといわんばかりです。重要なのは、カスバといわれる下町の喧騒であり、吉田に情報を教えた外人売春婦が、バケットといわれる港湾作業什器の巨大な歯で殺されるシーンの描写であり(吉田は、この彼女から情報を聞き出しながら、警察にピンチだからと伝えただけで助けに行こうとはせず、見殺し)、つまり石井輝男の欲望が花開くシーンの連鎖であるのです。その都合の中で、カットはつながり、物語は展開します。

「黒線地帯」では、天知茂演じるトップ屋が、自分を殺人犯人に仕立てようとする麻薬・売春マフィアの陰謀を暴くにあたり、決定的になるのは、たまたま道に飛び出してきて、彼の車に乗り込む女子高生の存在だったりします。その偶然は、まったく説明不能なのですが、それでも、事件が解決していくのは、天知の運というよりも、映画はどんなでたらめな運動神経でも秘めている、という石井輝男の確信犯的な演出によるものです。ここでも三原葉子はとても不思議な役を演じています。麻薬の運び屋をやりながら、なぜ敵であるはずの天知に協力をし、最後は自首までしていくのか。もちろん、表面的には、天知に三原が惚れてしまったからです。しかし、そこにはファム・ファタルの、その周辺に事件を引き寄せる力の根拠の不在を、自明としてしまう石井輝男の姿勢があるようにも感じます。最後に、探偵が事件の中核に不気味な女性の引力を確認する、といったことは石井輝男的ではないのでしょう。理由などなく、事件は女性の周りを回るものだ、という確信だけがあるのではないかと思うのです。そして映画は、記者なのに異常に腕力が立つ天知が、殺し屋ジョーを倒して終わっていきます。いざ対決となったら、もたもたはしない、強くなるしかないのです。

「直撃地獄拳 大逆転」(1974年)は、今回見た一連の石井輝男作品の中で、一番のお気に入りです。「映画はどんなでたらめな運動神経でも秘めている」という「無根拠性」は、惜しみなく主演の千葉真一の属性として付与されています。甲賀一族の末裔の千葉真一、金庫破りを得意とする郷硏治、元刑事で今は暗黒街で殺し屋をしている佐藤允の3人組が、警察組織に雇われて、保険金を20億円騙し取ったシカゴマフィアの一味から、金と宝石を奪う…はずが、気づいたらなぜか殲滅してしまうという話です。「ルパン三世」(1971年−アニメに)にも通じる世界観ですね。

緻密に組み立てた侵入・強奪計画が破れると、圧倒的な腕力で敵を倒し、どんどんビルの屋上から突き落としていくシーンが印象的です。それはヒッチコック的な死への落下ではなく、むしろあまりに判りやすく人形が落下して、どんどんと地面に激突していくことから、むしろどこかで死が回避されているように思います。しかし、その無意味に向かっていく落下こそが、石井輝男の上下運動だと言えましょう。だからこそ、どんなでたらめなつながりも可能になっていきます。落下が、死の領域を指し示してしまったら、ファム・ファタルが、不可思議な女性の引力になってしまったら、映画はそれらについての慎重な身振りが要求されます。石井輝男は、恐らくその慎重さには遠いのでしょう。無意味に向かって落下する、無意味な無力なものが、様々な鮮やかさを引き寄せる(吉田輝雄のように、辺に天真爛漫なファム・ファタルのように)。そうではなく、石井輝男の映画を繋いでいくのは、接着剤で手のひらにくっついてしまった机のかけらを、郷硏治が金庫破りに向けて、少しずつやすりで削っていき、だんだんとその板が薄くなっていく、そうした、本当に無意味な連続にこそ、あるのです。それは映画に対しての一つの賭け方です。それがすべてだとは思いませんが、やはり魅力的ではあるのです。