石井輝男(3)

石井輝男における吉田輝雄が、無力なる中心としてあり、無力だからこそそこで起こる残酷な出来事を止めようがないまま、その周囲にエロティックで加虐趣味に彩られた女性の肉体を無数に引き寄せる、と整理しましたが、逆を言えば、男性的な中核として高倉健が配された「網走番外地」シリーズなどは、石井輝男の作品としてまったく別の様相を見せるといえます。と、前置きをして、「網走番外地 望郷編」と「網走番外地 大雪原の対決」を新文芸坐で見た話です。

(なお、石井輝男監督については、11/411/23にも書いています。)

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網走番外地 望郷篇 [DVD]

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網走番外地 大雪原の対決 [DVD]

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ところで、「網走番外地」という作品に固有の話ではないのですが、小泉首相の支持率がまたアップしたというニュースに結構落ち込んだものですから、敢えて書くのですけれど、反骨心というか、国家や権力を素直に信じないというか、物事を、少しはみ出したところから見る訓練は大切だと思うのですよ。それは別に、なんでもかんでも天邪鬼に考えればいいという意味ではなくて、国家や権力が流布する大きな物語に安易にのらない、むしろ個別の、ごく人間的な気持ち(とそこに、自然と生まれる抵抗)を大事にしていかなければいけないのではないかなぁ、と。小泉政権が発足してから4年ですか、日本の大多数の世帯は、景気が回復傾向にあるにもかかわらず、生活が苦しくなっているわけです(実質の手取りはどんどんダウンしてますからね)。叩かれても叩かれてもおとなしくするのが美徳なのか。実際、生活は苦しいのだから、なんでだ、このやろーとか思わないとね、おかしい、と思うわけです。

さて。「網走番外地」シリーズは、そういう健康さには満ちています。やっぱり、反骨心ですよ、人間は。高倉健、普通にかっこいいです。そして、その反骨心ゆえに、網走とシャバを行ったり来たりするわけですけれど。私は「網走番外地」を見て高倉健に憧れる人は、健康だと思う。まあ、その健康な人が、全員、反・自民党になるかどうかはわからないけれど、日本国民がみんなして、「網走番外地」を見れば(あるいは1965年当時に見て、すっかりその気分を忘れてしまった人は、改めて見直せば)、自民党の圧勝はなかったろう、とは思います(笑)。

脇にそれましたが、まあ、なんというか、そういう健全さが「網走番外地」シリーズにはある。モラルがあると言っていい。それは吉田輝雄が、無力な中核をなす、女体虐待ものの石井輝男とはだいぶ違うのです。

ただ、では石井輝男は、高倉健=モラルの存在で、フォーマルな映画へと向かっていくのか、というと、などと書きながら、「フォーマルな映画」など存在するかはなはだ疑問ですが、それはさておいて、やはり石井輝男としか言いようのない部分が刻み込まれる。

以下、ネタばれです。

例えば「網走番外地 望郷編」の場合は、クライマックス、親分(嵐寛寿郎)を殺された高倉健が、敵のやくざの事務所に乗り込んでいくシーンですね。例えばマキノ正博ならば、きっと、高倉健の躍動する身体が、波寄る敵を、一人一人切り倒して行き、その運動は躍動感を帯びながら徐々に、屋敷の奥へ奥へと向かい、そしてついに、敵の親分を切り殺す、というカタルシスを迎える、つまり、豊かな運動が、その豊かさにおいて勝利するのを描くわけです。しかし、石井輝男の場合、高倉健が乗り込む、子分もいれば親分もいる、ところがその子分は、親分が切り殺されるのをただ見ているだけで、高倉健に脅かされると、蜘蛛の子を散らしたように逃げていくのでした。そのあっけなさ。運動らしい運動が勝利するのではなく、高倉健というインパクトが、一瞬で敵を凌駕してしまう、という演出。それにおいて、比較的、王道の侠客映画として展開してきた物語が、いきなり脱線していきます。

運動が連鎖しながら、ある目的へとつながっていく、という映画が、あえて言えばフォーマルなのかもしれませんね。対して、運動が絶えず、無意味に分断されながら、過剰な結果だけが現れる。むしろ、運動に対して、結果がどう見ても過剰になっていく。それが石井輝男という回路なのでしょう。「直撃地獄拳 大逆転」で、千葉真一が敵にチョップを繰り広げると、次のカットで、敵の目玉が飛び出ている、たとえばそうしたつながりが、石井輝男なのです。チョップが、敵を倒すという行為を過剰に超えて、異様なものへとつながる、そこでは運動の連鎖の分断とありえない跳躍があるのです。

「…望郷編」では、親分を倒し、子分を蹴散らかしたあとに、杉浦直樹演じる殺し屋と高倉健の対決となります。このシーンも、アクションとしては、高倉健杉浦直樹が、ただ白刃を手にすれ違うだけにしか見えない。そしてストップモーションとなる。運動は、文字通り分断されるわけです。そして、高倉健が倒れるけれども、杉浦は、その傷は7針も縫えば治るというのでした。男気ある高倉に惚れた杉浦は、手加減したというのです。そして、飄々と去っていこうとするのですが、屋敷の外に出たとたん、腹の傷を押さえながら倒れて死ぬ。真っ白なスーツに、大きなサングラス、丁寧に7:3で調えられた髪型。かっこいいのです。いつも吹く口笛は、夕焼け小焼けです。

この演出、ぱっと思い出すのはロバート・アルドリッチの「ヴェラクルス」ですね。石井輝男は、アルドリッチという固有名詞に還元できるかどうかは別ですが、「…大雪原の対決」を見ても、明確に西部劇を意識していたと思われます。ただ、石井輝男だなぁと思うのは、西部劇にある繊細な位置関係や視線劇の緊張感の演出には、あまり興味がない。運動は、Aという運動が滑らかにBにつながるといった連鎖の形ではなく(そこにおいては、視線劇をとしての位置関係や距離が重要となる)、Aが意外にもZに!的な絶えず過剰な結果へと、ブラックボックスを経てつながっていかなければならないのかもしれません。だから石井輝男を見る面白さは、ワンカットワンカットの激しさ、あるいは同一の運動の連続と強調というところにあります。

ヴェラクルス [DVD]

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「…大雪原の対決」でいうと、八人殺しの鬼虎親分=嵐寛寿郎の、供養に彫った八体の仏の刺青とか、わかりやすいのですが、弱弱しく見せた嵐寛寿郎が、どこで鮮やかにその名物の刺青を披露するかが、映画の見せ場になるわけです。その過剰な変身を見るのが石井輝男だとして、だから銃撃戦でも、高倉健嵐寛寿郎吉田輝雄の3人が、敵の待ち構える館に乗り込むのですが、敵と味方の間合いとか、どう攻めるとかの戦略はまったくないのですね。敵は雪だるまにまで味方を配している。という設定が事前に示されれば、その雪だるまからどのように攻撃されるかが、通常のアクション映画の展開です。しかし、高倉健は正面から近づくと、有無も言わさず雪だるまを刺し、雪だるまを斬り、雪だるまの攻撃など許さない。雪だるまに敵がいる、という複線があって、それが雪だるまの攻撃というアクションにつながるのは石井輝男ではないのです。あっけなく、雪だるまは昇天する。その驚きこそが、石井輝男です。首を切り落とされた雪だるまと一緒に、敵の手首が空を舞います。

正面から攻める。そしてやっつける。そのあっけない接近。吉田輝雄と敵の親分・上田吉二郎との対決シーンも面白かったですね。銃がないと啖呵が切れないのかと上田に挑発された吉田が、じゃあ一緒に銃を捨てて対決だ、ということになり、本当に銃を捨ててしまった吉田に、卑怯な親分が銃口を向けて…というシーンです。いや、はっきりいって、卑怯者を相手に何をやっているのだか、とため息が出るシーンではあるのですが、そこで刀に武器を持ち替えた吉田は、撃たれながらも接近し、あっけなく上田を刺し殺す。その接近は、二者の距離が、その接近を可能にするだけ十分に近くなければ成立しません。だから、銃撃戦を演出するにしては、遮蔽物のない、奇妙に間合いのない距離を、この二人はとるのです。